振付けで出向く。しかし、演出の意図が不明確。きっと、演出プランがたっていないのだろう。出たとこ勝負で様子を見ながら考えるつもりなのだろう。こういった演出家は少なくない。自分で全部やるのならそれでいい。けれど、スタッフの手を借りるのなら、これは演出としては怠惰と言わざるを得ない。どんなに長く共に仕事をしていても、ひとの頭の中や感覚は分からない。充分に説明したとしても、演出の考えやセンスが100%理解されるということは考えにくい。だからこそ、充分すぎるほどの説明をする責任を果たさなければならないのだ。
昔、シェイクスピアの「十二夜」をイギリスのシェイクスピア・カンパニーの芸術監督・エイドリアン=ノーブルと作った時、彼は通訳を通じて、実に丁寧に自分のプランをスタッフやキャストに説明した。結婚という儀式をテーマにしたいからと言って、たくさんの写真を貼り出し、結婚式のエチュードなどをやって、周知させた。
戯曲を読んで、演出家の意図を汲んで、スタッフやキャストは考え動き出すのだ。スタッフやキャストよりもはるかに、作品に対する深い洞察力を持ち、納得出来る方向性を示す力があるからこそ演出家で、皆が従うのだ。そういった洞察力や方向を示す力がないまま、キャストやスタッフを従わせようと言うなら、それはただの暴君だ。
おまけに、パフォーマンスが出来ない俳優をやたら集めて、何をしろと言うのだろう。
エイドリアンは、ボクが作ったいつくものパフォーマンスについて、ひとつも注文は付けなかった。
昔、シェイクスピアの「十二夜」をイギリスのシェイクスピア・カンパニーの芸術監督・エイドリアン=ノーブルと作った時、彼は通訳を通じて、実に丁寧に自分のプランをスタッフやキャストに説明した。結婚という儀式をテーマにしたいからと言って、たくさんの写真を貼り出し、結婚式のエチュードなどをやって、周知させた。
戯曲を読んで、演出家の意図を汲んで、スタッフやキャストは考え動き出すのだ。スタッフやキャストよりもはるかに、作品に対する深い洞察力を持ち、納得出来る方向性を示す力があるからこそ演出家で、皆が従うのだ。そういった洞察力や方向を示す力がないまま、キャストやスタッフを従わせようと言うなら、それはただの暴君だ。
おまけに、パフォーマンスが出来ない俳優をやたら集めて、何をしろと言うのだろう。
エイドリアンは、ボクが作ったいつくものパフォーマンスについて、ひとつも注文は付けなかった。