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「言葉の力」で企業を伸ばす!ビジネスライター奮戦記

日々、企業様の販促、営業戦略立案、編集など仕事の中で感じること、女性の働き方、教育、エコ&オーガニックなどを綴ります。

今日は福岡

2007年06月23日 23時48分34秒 | 教育
今月は、講演が3回。月の後半に集中していて、できたら月に1~2回程度コンスタントだったら気分も準備も楽なんだけどな、なんて贅沢なことを考えたりする。

今日は、講演というにはちょっと短い30分という時間で、なんと初テーマ「中学入試フォーラム」にお招きいただいた。

2年連続中学受験生を持った母親としての体験談、実際に中高一貫校に通わせて見てわかったこと+子育て情報誌副編集長としての情報収集法や各地の事例、そして一昨年から取り組んでいるキャリア教育からみえること、などを中心にお話した。
講演タイトルは
「12歳のチャレンジは人生の通過点~中学受験をひとつのチャンスに!」
決して受験戦争をあおる気もない。
しかし、批判をする人は、批判をする前に、先進的な(?うーん、中途半端な表現だけど)中高一貫校のユニークなカリキュラムや、詰め込み一辺倒ではないいろいろなタイプの入試問題なども見てから意見を言うべきだろう。

もちろん、首都圏などでの1日14時間勉強して、毎日塾で晩御飯、必勝鉢巻のお正月特訓、などの面が誇張されて批判の対象になっているのだろうけど、楽しく勉強に取り組んで、合格しても落ちてもそれなりに得るものもある、というような一種「お気楽受験」というようなスタンスもあってもいいんじゃない?と思ったりして。

今日のテーマで一番言いたかったことは、別に受験という方法を取らなくてもいいんだけど、子どもが一番長い時間を過ごす学校という環境、そこで行われている教育に親も事前に関心を持ち、できれば「自分で選択して」まあ、自分で背水の陣をしいて?進学すると中学校生活の取組み姿勢が親も子も変わるよね、ということかな。

だから第一志望に不合格で、子どもにとって不本意な学校へ進学するときは、何かそこでつかめるようケアしてあげたほうがよいのかもしれない。仕方なく、ではなくて「この選択が自分にとって結果的にはよかったんだ」と思えて、そこから頑張れるような。親は子どもごとにいろいろ見れても、子どもにとっては自分が進んだ学校が唯一の居場所なんだし、そこへ行ってよかった!と心の底から思えるのがやっぱり幸せ、なんだと思う。

のびのびか、だらだらか

2007年04月11日 17時53分04秒 | 教育
子どもが3人いて、引越しも2度。
だから保育園を3つ、小学校を4校見てきた。
最初に一時保育でお願いした保育園は、かなり教育熱心で、発表会のレベルも高い。0歳児では首を振ったり手をたたいている子どもの横で保育士さんの熱演ダンス。1歳児、2歳児はすでにかなりの芸を体得。年中、年長ともなれば、英語劇に鼓笛隊。
それは北のエリート子ども達のマスゲーム映像のイメージとも少し重なる。鍛えれば低年齢でもこれだけのことができるという点では感心する。

次に転園した近所の保育園は、ちょっとのんびりムード。でも、0歳児~5歳児までいる保育園は、年少にもなると中堅(中間管理職!?)でそれなりにしっかりしている。(幼稚園の運動会を見たけど、年少さんは赤ちゃん扱いでかわいそうだった)

さて、小学校は1000人規模のマンモス校と全校200人くらいの小規模校を体験。
1クラス40人で、プリントを配り終わるころには最初にもらった子は解き終わって遊んでいる、という状況が嫌で末っ子は1クラス20人くらいの小さな学校に入れたのだけど、これがびっくり。
運動会など、とにかくだらだらしている。長男・次男は1000人規模の学校で、てきぱき行動せざるを得ない。小さい学校は一人一人が少しくらいだらけてしまっても人数が少ないから帳尻はあう、ということか。

今、長男の中学は中高で1200人、次男は中学で250名。やはり多人数のほうが動きがいい。

のびのびと育てたい、と願う親は多いだろう。しかし、のびのびとした環境なのか、だらだらしているのか。両方見てみるとよくわかる。のびのびした中にもてきぱきしてほしい、というのは欲張りなのか。

しかし、小学校6年、中高で6年。人生の大半を過ごす学校の環境による影響は大きいと思うんだけど。。。先生方はいろんな学校へ赴任されるのだから、それぞれのよさはご存知のはず。いいとこ取りはできないものか

二者択一その2

2007年02月12日 23時00分17秒 | 教育
この前は、他者択一と書いたけれど、まだまだ現実には二者択一、一つを選び他のすべてを捨てなければならないことも多い。

長男が3年生、次男が2年生のとき、スポーツ少年団のバレーボールチームに入団した。まあ、長女は保育園だけど小学生は早く帰ってくるから私の仕事上どこかに居場所を作っておくほうがよいだろう、ということと、何か体を動かさないとほんとうにぐうたらしてしまう、という危機感、そして子ども達の放課後は、気の合う子ども達とだけ、好きな遊びしかしない、下手すると一人はゲーム、一人はまんが、一人は別なポータブルゲーム、お菓子とジュースは飲み放題食べ放題・・・なんてことになりかねない小学生の現実からなんとか遠ざけたいとの想いから。
バレーボールは夫が中学高校とやっていたから、親子で話も盛り上がるかな、とあまり深く考えず選んだ。
(始めてからわかったけれど、サッカー・野球はチームも多く競争率も高い花形。男子バレーボールは穴場だった!しかも体育館なので観戦も屋外より楽。洗濯物も泥汚れはない)

しかし、体育協会系列の団体だからなのか、Aチームに入ってからはすべての土日は練習か試合。(平日の練習は週2回だったけれど)
次男が広島のチームに移籍してみたら、広島では平日も毎日、土日はもちろんすべて、つまり毎日練習か試合だった。
他のことは何もできない。

二人とも全国大会まで行ってきて、合宿も、時代錯誤ともいえる厳しい練習も、他の子ども達にはできない経験はたくさんした。

しかし私の本音は、というと、そこまでしなくても、もっと他のいろんな体験、子どもエコクラブ、とか新聞社のちびっこ記者、とか、国際交流とか、させたかった・・・まさにAll or nothingだなあとつくづく。

特に6年生の中学受験との両立は、ほんとうに我が子ながらよく頑張ったなあ、、と感心する。17時まで練習して、その足で塾に送って21時40分まで、とか、その翌日は模試、その後昼から練習に合流、とか。
入試の翌朝4時に出て合宿に合流したこともある。

送迎や当番は交代でやるのだけれど、親の負担もけっこうなもの。しかし、それをともにこなしてきた他の保護者の方とも同志のような感じ。
チームの子ども達と息子達は、は親とよりも長い時間を過ごすのだから、とても他人とは思えず、すべての子ども達の成長がうれしい。

ひとつのことにそこまで打ち込むことも貴重な経験、そしていろんなことを体験させてやることも大事。どちらも、というわけにはいかないところが難しい。
そして、そこまでしなければならないスポーツ少年団は、最近少し敬遠されているのかもしれない。

長女は今地元の体操クラブに所属しているけれど、試合に出るような練習には参加していない。
さてどうしたものか・・・悩ましいところ。

二者択一

2007年02月04日 01時20分51秒 | 教育
中学受験ブームはますます過熱、私立か公立か、ゆとり教育か詰め込みか、という議論を良く見かける。

昨年、一昨年と連続で息子達の中学受験だったけれど、今年はほっと一息傍観者。
そしてそれぞれの選択と努力(足りたか足りないかは別にして)の結果で別の中学校に通う彼らを見ていると、現実は二者択一ではなくて、多者択一かなあ、と。

確かに一つを選ぶことはあとの全ての選択肢を捨てること。これまでの人生で学んだことの一つ。
しかし、その選択の中で、他の選択肢のよいとこどりはできるんだ、ということも最近になって悟ったこと。

なぜゆとり教育が導入されたのか、それは画一的で一方的な教室での学習だけでなくて、地域活動やスポーツ、ボランティアなど多様な体験の場を持たせ、自分で考える意欲を育てよう、という趣旨だったはず。ならば、ゆとりがだめだからイコール詰め込みがよい、ということではなくて、第三の道、第四の道を模索すべきではないだろうか。ゆとりの何がよくなかったかというと、生み出された時間が有効活用されていないというところでは?

今日、あるテレビ番組で私立中学と公立中学が対比されていた。私学は授業数も多く中高一貫で先取り教育、公立は地域に根ざし多様な仲間とのコミュニケーションによる社会経験、とそれぞれのよさをまとめてあった。
それならば、例えば私立に通いながら、ボーイスカウトなど地域の団体にも所属し、そこにも居場所を作って多様なコミュニケーションも学ばせたらいいのでは?公立に通っているなら、同じ年齢で年間1.5倍の授業をこなし、1年分も先取りしている生徒もいる、ということを肝に銘じて自分にできる努力をしていけばいい。
要は、それぞれのよさと、そして自分の選択に足りないものを見つける目が大事。知らない、ということが一番もったいないことかもしれない。

私にとっては幸いなことに、息子達の学校のカラーは、大きく違ってそれぞれのよさもそして「ん?」というところもよく見える。(長男の学校は管理教育的、宿題も多く厳しい~、人数も中高で1200人、そりゃ厳しくしないと回らないよね。でも先生方の教育にかける意欲には感心する。そして前向きな生徒がとても多い。次男は、のびのび自由な校風、1学年88人、全校でも250人あまりとほんとうにこじんまり、ありきたりな言葉だけれどアットホーム。でも高校受験があるため学校でも良い意味で成績を競い合って伸ばすようなムードがある。どちらも私立ではない、でも学区の公立でもないそれこそ多者択一。いろんな選択肢がある!)

再就職講座でも必ずお話しする。専業主婦か、フルタイムワーキングマザーか、という二者択一ではない。それぞれによさもあればデメリットもある。自分に足りないものを補おう、という努力でそれぞれの選択が正解に近づいていく。選んだ時点で正解、失敗、ではない。

家庭教育

2006年12月06日 14時13分17秒 | 教育
虐待、ネグレクト、給食費支払拒否など、とんでもない親の話は枚挙に暇が無いのだけれど、その一方でなかなか表には出てこないけど、これって問題アリ?と思うようなことにもよく出くわす。

それは、子育てに熱心で、とてもまじめで一生懸命なお母さんのなかで時々あるタイプ。
少し前、長女の参観・懇談に出席したときのこと。最近は集団下校に先生が引率するので懇談開始まで教室で待っていた。
すると、あるお母さん、突然我が子の机の中にあるお道具箱を取り出し、クレヨンや色鉛筆などのチェックをスタート。
短くなっているものを買い足したりするためなのか、とその様子を見ていて気がついた。
我が家は私が仕事で忙しいのをいいことに?子ども達はほったらかし。のりが無いから、半年以上友達に借りていた、などとても人には言えない状況であることも事実。
しかし、間違っても「短くなったクレヨンが自然に生え変わる」ようなことだけは無い。自分で「これが無くなったから買って下さい」と申告するまでは、2cmくらいになっても使い続けなければならない運命。

そしてつい先日、保護者二人一組での下校パトロールの当番を務めた。(直前まで熱と喉の痛みで寝ていたのだけどせっかくそのために仕事の予定を空けていたのでこなすしかない)パトロールは町内の決められたコースを約1時間歩くのだけど、その日は、小1の女の子のお母さんとペアだった。
多分子どもだけで家に置いておくのが心配だったのか、その女の子も一緒にコースを歩いた。まず驚いたこと。まだ他の子と一緒に通学路を歩いているのに当然のようにお母さんにランドセルを渡してもたせる。
そして、身軽になってはしゃいで、走って先に行ったりあちこち飛び回ったり・・・大人でも1時間歩くときついのに大丈夫かなあ、、、という不安は的中。最後の10分程度を残し、そのお子さんはとうとうぐずってしまった。
お母さんは、しっかりとした方で自分のマンションの前を通りかかったときに鍵を渡して子どもだけ先に帰そうとされたのだけれど、子どもはぐずぐずと言う事を聞かない。見かねて「お母さんもご一緒に帰られたら?後は一人で回りますよ」と申し出た。

結局、子どものためにと思って一緒に歩くことが、かえって子どもの自立やきちんとしたしつけを邪魔してしまうという結果に・・・

子育ては難しいものですが、特に「よくできた」お母さんが子どものためを思っての行動が本当に教育的によいかどうか、慎重にわが身を振り返る必要があるかもしれない、と思ってしまいました。

教育の再生

2006年09月28日 13時43分44秒 | 教育
新内閣の抱負に、「教育の再生」がある。
教育の問題が急務であることに誰も異論は無いと思うのだけど、新聞の見出しに「公立学校の再生」とはっきり書いてあると、はっきり言って、公立学校に我が子を通わせている親としては面白くない。
「再生」というと、今死んでると宣告しているも同然。再生するまでの数年間教育を受ける子ども達はいったいどうすればよいの?
もちろん、改善、とか改革レベルの話では足りないという決意の現われだろうけれど、言葉の使い方には気をつけて欲しいもの。
長男の県立中学、次男の国立附属中学は、それぞれに面白い取組みをしているけれど、やはり今の基本法の枠があるため、私学ほどのユニークさには欠けるかもしれない。しかし、和田中学校の藤原先生をはじめ、今の枠組みの中でも成果をあげている学校、熱心に取り組まれている先生はおられるわけだから。。。

学校にエアコン

2006年08月08日 10時54分53秒 | 教育
全国的に公立小中学校でエアコンの設置が進んでいるというニュースがあった。
去年、今年ともちろんエアコンのない灼熱の教室で授業をしてみての実感では、やはり勉強に集中させようと思うと、あの暑さでは厳しい。
しかし、一日6時間以上過ごす教室、オフィスのようなエアコンも成長期の子どもには考えもの。

理想を言えば、もう少し設計段階から屋上緑化や通気性などを考え、その上で打ち水やできるだけ自然な形での冷却効果(なんだろう、大きな氷とか???)が得られる手が打てたら。。。朝顔かヘチマのような植物で窓の外を覆っている写真を見たけれど、それだけでも教室の中は何度か違うそうだ。

何か科学的な現象で涼しくすれば、自然の摂理を肌で学べるチャンスにもできるかも。

そして図書館などだけクーラー完備、なんてのはどうだろう。自習や読書は涼しいところで、となると普段足を運ばない生徒でも本を読んだりするのでは?

産んでくれてありがとう

2006年08月04日 09時51分26秒 | 教育
微妙な判定で話題沸騰のボクシング選手、勝敗の議論にはあまり興味は無いのだけど、勝利のインタビューで「お母さん、僕を産んでくれてありがとう」との言葉が印象的だった。

自分が子どもを産んでから、自分の誕生日には母に「誕生日ありがとう」とメールなどするように心がけている。
先日、夫の誕生日には子ども達と一緒に夫の母に「お父さんを産んでくれてありがとう」とお礼を言った。

みんなが「産んでくれてありがとう」「産まれてきてくれてありがとう」という気持ちを忘れずにいたら、事件も減るのだろうか。

学校選択制

2006年05月01日 11時14分12秒 | 教育

昨夜、BSディベートという番組で、ゆとり教育、学校選択制、教員評価、学力測定をテーマに取り上げていた。
私がたまたま住んでいる地域は、岡山市では小中学校の選択制、広島市では中学校の選択制を取り入れている。
昨日の議論では、選択制にしたら、極端な人気不人気が出て、地域コミュニティも崩壊してしまうかのような反対論だったが、実際に体験した立場から言うと、選択制であってもほとんとの保護者はもともとの指定学区を選ぶ。
通学に便利、という理由で隣の学校にいけるようになったのは、従来の学区制の弊害を解決しているし、例えばいじめその他の問題があった場合にはこれまでだって住民票を移したりして学区を変わることはあったわけだから、実情に制度が後追い、という面もある。

岡山市の場合は、基本的には隣接校区から選ぶという選択制にプラスして、英語イマージョンという教育を導入する学校を作り、全市から入れるようにしたりと、いろいろ工夫があり、特色ある教育には私学しか選択肢がなかったことを思うと、それはそれでいいことなのではないだろうか。ただし、そのイマージョンを希望しないのにもかかわらず、その学校の校区に住んでいたのでどうしよう、という問題は出たようだけど・・

昨日の論点の中で指摘されていなかったのだけど、地域社会が大切だと思えば、元々の校区の学校を「選択」すればいいだけのことなのだ。
今までは、それを主体的に選ぶチャンスはなかったわけだから、いくつかの学校を見て回るということもない。
選択制が導入されれば、学校説明会などに複数行くチャンスもでき、それぞれのユニークな取組みを見ることができる。
その上で、自分の意志で「地域の学校」を選び、見て回った中でいいと思ったことは、どんどん学校に提案していけば、よりよい学校づくりにつながる。
要は、「自己決定」するというプロセスが大事で、保護者も自分が選んだわけだから、運営も人任せではなく、選んだ保護者自身が積極的にかかわっていく、という形が作っていける。

うちの息子達は中学校を自分で選んで(というか、二人とも今行っているところしか合格できなかったからそういう意味では選択の余地はなかったけど)自分の意志で通学しているから、そういう意味では、行きたくない、などとも言わないし、毎朝5時半に起きての通学も文句も言わずがんばっている。

次男のバレーボールチームのチームメイトは、やはり子ども達の意志で、学区外の中学校にバレーボールのために進学したのだけど、そうなると、子ども自身の覚悟も違う。

もともとの学区の学校に行く場合でも、他も選べるんだけど、私は、僕はここへ行く、という決断のプロセス、保護者とそれを相談する機会、などが重要だと思うのだけど。。。


地方の自立

2006年03月10日 00時42分11秒 | 教育

なんていうタイトルは、ちょっと仰々しいけれど、夫の転勤で3回ほど転居したら、いろんな地方の事情がわかってくる。
もともとは、広島出身⇒福岡へ⇒岡山へ⇒広島へカムバック、多分定住

福岡の小学校は長男が1年しか行かなかった。もちろん制服はなかった。
岡山の小学校は、ほとんどが制服。さすが制服メーカーが多数集約している児島地区を擁するだけある。
長女を入れた、新設小学校は私服だった。

広島も、ほとんどが制服。しかし、引っ越してきた学校は、平成元年開校と比較的新しいからか、私服。

どちらがいいかというと、卒業式、入学式など悩まなくていいし、見た目も制服に一票、、かな。私立は制服が多いですよね。

そして本題。
岡山から広島に転居するとき、夫だけ半年くらい先に引っ越して、家族は岡山に残って後から追いかけようか、とも考えていた。
しかし、長男の中学進学などいろいろあって、昨年4月に全員で移動。
それは、どうせなら1年の途中でクラスの雰囲気ができあがってからよりも、クラス替え直後でみんなある程度シャッフルされた時期がいいだろう、と。
が、引っ越してみてびっくり。
岡山は毎学年クラス替え、担任も変わったのだけど、広島は、1・2年、3・4年、5・6年と3回しかクラス替えが無い。
次男は6年、長女は2年・・・そう、クラス替えの無い学年にあたってしまって、結局できあがったクラスに入るはめに。

それぞれにメリットデメリットあるだろうとは思うけど、1学年100人以上いるわけだから、毎年クラス替えしてできるだけいろんな子と仲良くなったほうがいいし、この多感な子ども時代、できるだけ多くの大人に触れて欲しいから、担任も変わったほうがいい。(当たり外れはあるけれど・・・)

もっともっと細かいことから、全国で事例や効果測定の結果を情報交換して、何が子どもたちにとって最もよい環境なのか、しっかり研究して欲しい・・・

地方の自立、という名の怠慢であってはならない。

世界で一つだけの花

2006年02月25日 15時04分37秒 | 教育

昨日、長女の今年度最後の参観懇談ということで学校へ行ってきた。
かさこじぞうの音読をする、ということは聞いていたのだけど、行ってみたら学習発表会とのことで他のお母さん達はビデオ持参で最前列で撮りまくり。
地域のこと、学校のことは、私にとっては聞いてなかった!ということが多く、それは我が子のプリント出し能力の欠如か、はたまた、私の「暗黙の了解」察知力の欠如か。普通の授業参観と思っていたのは私だけ?

そして、最後にクラス全員で「世界に一つだけの花」合唱で締めくくった。
ナンバーワンでなくてオンリーワンでいい、というその歌詞そのものを否定する気持ちはまったくないし、この歌をみんなで歌っている姿はいつ見ても感動的だ。
しかし、聞きながら感じたことは「オンリーワン」でももちろんnいいのだけど、今のまま、そのままでいい、ということではないのだよ、ということ。
昨日の自分、去年の自分と比べて成長するための努力は必要である。
どうも最近は、「個性」というものを、何も努力もしなくてもありのままでいい、という風に間違ってとらえている向きを感じる。

同じことなら早くできるほうが自分にとって最終的にプラスであると思うのに、速いばかりがいいでない、と急がせない教育。できてもいい、できなくてもいい、無理しなくてもいい、というような感じがする。

問題なのは、その成長の指標とか、目指す道が少なすぎることかもしれない。
受験、というと偏差値ばかりが指標となり、スポーツは勝つことだけが求められる。

ハンガリーでは各市町村単位で算数オリンピックがあり、チャンピオンがたくさんいるそうだ。
いろんな分野でチャンピオンをたくさん作って、それぞれの分野ではしっかり競争し達成感を味わう、という仕組みがつくれないものだろうか・・・

一語入魂

2005年12月23日 11時35分23秒 | 教育

日々、言葉を扱う仕事をしている。
同じ内容、同じ意味なら、1文字でも少なく表現するために、水面下で実は様々な苦闘を繰り広げている。

チラシやポスター、WEBみたいなものはもちろんだけど、記事やテキスト、ボディコピー、企画書なども、今は、文章ではなく箇条書き、単語表現で画像併用でなければ、なかなか伝わらない。
「読めばわかる」ではなくて、「見て理解できる」ことを求められている。
(わかっていても、これを実践するのは、長文を書くよりもチカラが必要)

大人がなぜこうなってしまったのか、その理由は「情報過多」「忙しすぎる生活」だと思う。
先日マーケティングの講演で、成人一日あたり、どのくらいの広告を見ているのか(テレビ新聞はもちろん、電車の中、ショーウインドウ、インターネット・・・チャネルは増える一方)という数字が出ていた。
自動的に目に飛び込んでくるものに加え、自分から取りに行く情報も増える一方。
一つ一つを理解するのに時間がかけられない=瞬間的に理解できるものしか見ることができない、目に入ってこない
という図式。

そして、子どもがどうしてこうなってしまったか。
それも、生まれたときからの情報過多が原因だと思う。
音だけ、文字だけ、絵だけ、というような単純な(情報量の少ない)メディアに触れる間もなく、言葉などの認識能力が発達する以前から動画で音声付のメディアにさらされると、少ない情報をイメージ化していく、という能力は退化する。
結果的に、長い文章を読み込んで理解する、という訓練をしないまま成長。
そして、そんな子供達におもねるように、教科書には漫画、ふきだし、見出しのオンパレード。
読まないから、読みやすくする→それによって、さらにその能力が退化する
の悪循環。
電子辞書や電子図鑑は、動画や音声まで入って、知らない動物の鳴き声まで体験できるというよさはあるけれど、それだけの情報量がないと、頭にイメージできない、興味をもてない、という結果を招いていないだろうか。

ここのところ、中学生向けの総合学習テキストの作成にどっぷり浸かっている。
「読みやすく、箇条書き、単語表現、イラスト併用で」と心がける一方で、「能力退化に一役買うのはいかがなものか」と葛藤する日々。




中高一貫

2005年11月21日 23時29分49秒 | 教育
先日、クローズアップ現代でサッカーの中高一貫校の話題を取り上げていた。なんと公立校で、全国から男子400名以上、女子は200名くらいだったかの応募者の中から10数名を選考し、親の負担は年間120万(生活費など)、高校にあがるとプラス学費が必要、とのこと。
高校受験が無いため6年間しっかりサッカーに専念できる環境が、Jリーグとのタイアップで実現したらしい。自治体もかなりの予算でバックアップをしているそうだ。

やはり、高校受験というものが子どもたちの進路にどんな影響を与えるのか、15歳で受験し、再び18歳で受験、という現行の制度の是非や、一貫校のメリットデメリットなどもう一度吟味し、教育制度全体を見直して欲しい、という気持ちと同時に、サッカーという限られた道を12歳の段階で選択し、もし挫折してしまった場合の方向変換などはうまくいくのだろうか、という不安も覚えた。

私の場合、それこそ普通科で、受験がなくて6年のスパンでしっかり腰を落ち着けて学生生活を送れて選択肢を広げるための一貫校、という発想しかこれまでなかったのだけれど、これからの時代は専門的な進路も含めていろんなタイプがあって、でも途中でやりなおしもきく、という形になればいいのかも、と思う。

今から中学受験シーズン真っ盛り、学校紹介の本を読んでも、その価値観が難関大学への進学人数、いかに授業時間を確保しているか、という切り口オンリーのようで納得がいかない。
もっと多様な価値観で学校選びができて、あそこに合格しなかったからここに行く、という偏差値輪切りの後ろ向きではなくて、「この学校に行きたい」というしっかりとしたモチベーションをもって、これからの時代を生き抜ける人材として育っていって欲しい、と切に願う。


中学受験

2005年11月14日 00時02分23秒 | 教育

私自身、親に勧められて中高一貫校をたった1校受験し、たまたま合格して高校受験を経験していないばら色の中学高校生活、ということもあり、去年、長男に「高校受験より楽だよ~」ともちかけてお受験ママとなった。(実は一昨年は、長女の小学校お受験もあったのだけどこちらは抽選もあり撃沈)

子どもも3人もいるので、長男のときは私立なんて考えもせず国公立を4校受験。
岡山は、冬休みに受験があったので、学校を休む必要はなかった。
しかし、受験した中で広島の1校だけ(我が母校)平日に試験があり、なんてこと、学校を休まなければならないなんて、小学生の本分を忘れている!と憤った。

そして、今年、次男が受験。(で子どもの受験は今年で3年連続、とほほ)
なんと広島は「入試解禁日」なるものがあり、解禁日以降ほぼ毎日どこかの試験日となっていて、併願すれば、ほぼ1週間~10日近く学校に行けない、という有様。

それって、何か間違ってないかい?
一日も学校を休んでなかった次男は、平日試験のところを受けなければならないことにかなり抵抗していた。

私学の数が多いから、解禁日を設けないと青田刈りが横行する、というリクツなのだろうけれど、考えようによっては、岡山のように冬休み中に入試が終わってしまっては、1月の塾の売上に影響するから、なのでは?と邪推してしまう。

お受験というと、塾をはしごして、マックやコンビニで夕食を食べて、毎日深夜まで勉強させて、、という風に否定的に報道されていることも多いけれど、我が家の場合、一生に一度の小学校生活を犠牲にしてまで、というのは、これまた何か違う、という思いもあり、2年生から続けているバレーボールも辞めずに両立している。
二人とも夏休みには、夏期講習もそこそこに全国大会まで出場してきた。
長男も、合宿初日に試験が重なって、一日遅れで合流したり、練習を優先して日曜日のゼミは受講しなかったり。
次男も、今月、来月と大きな大会もあって、練習の合間に勉強している、という感じ。

願書の準備もそこそこに、試合の応援にも気合が入る、邪道お受験ママなのでした。

バイリンガル

2005年11月01日 22時30分34秒 | 教育

広島では自分のことを、男子は「わし」、女子は「うち」という。私自身はこの一人称呼称を使ったことは無いのだけど、娘や息子たちの学校でも女の子はみんな「うち」というらしい。
どうも田舎くさくていやだなあ、と思って、娘に「自分のことをうちって言わないでね。私って言おうね。」と強く言い渡した。
そして時々、「学校で自分のことなんて言ってるの?」「え、さくらって言ってるよ。」何度聞いてもその答えなので、安心していた。
(ちなみに、小学校受験のための参考書には、自分のことを名前で呼ばせずに、きちんと僕、私、と呼ばせるように、と書いてある。うーん、幼稚園児以下か・・・)
が、遊びに来た友達との会話、参観日でふと聞こえてくる会話では、しっかり「うち」って言ってるではないか!

親の前では絶対に言わない。「さくらはね」と必ず言う。しかし、友の前ではみんなと同じで「それ、うちがやる!」などといっている。

はあ、、自然にバイリンガルになれるのか。やっぱり英語でも習わせなきゃその才能がもったいない。。