漢字の書き順とかもくだらないと思うんだけど書き順を教えるのを批判してる人っているのかな。
3×4だろうが4×3だろうが一緒じゃないかって言った覚えがあるようなないような
書き順に多少とも意味があると言えるのは、次のような条件が満たされている場合である
(1) 字は手で書くものだと思われている
(2) 日本語の文字は毛筆で書くものだと思われている
(3) 文字も言葉も古い方がよいと思われている
俺がコドモの頃でも(2)(3)はほとんど満たされなくなりつつあった(その危機感から書道の授業があったくらいだ)が、(1)だけはほとんど疑われていなかった。ワープロなんて影も形もなかったからだ
実際、コドモの俺が「文字は近く手で書くものではなくなる」と言ったら誰もが驚いた。四則計算を電卓でやるように文字も小型電子機器で書くようになると言ったらもっと驚かれた。電卓はすでにあったが、たとえば小学校の算数の試験で電卓を使ったら「卑怯」だと言われそうなふいんきはあったことだ
考えてもみろ、誰もが手書きのままの原稿より、活字になって印刷されたものの方を有り難がるではないか。小型機器が手元で活字を印刷するようになったら、誰もが喜んでそれを使うに決まっている。機器が作られるのは未来だが、現在すでに「文字は手で書くものではない」のだと、これは確かにそう言った
コドモの俺はこの考え自体には自信があった、けれどもそう言ったところで説得力がないことも判っていた。言ったところでどうせ「お前は字がヘタだからそんなことを言うのだ」と言われてしまうのに決まっていたからだ(笑)
だからわざわざ電卓の例を持ち出したりもしたわけだ。計算問題なら周囲の誰よりも得意な俺が自分の能力を(その価値を)全否定して言うのだから信じてくれたっていいじゃないかと思うわけだが、それでも信じてもらえないのがこの世の中だということの経験的な確証までは、小学生の俺にはまだなかった
条理と言葉を尽くして語れば判ってもらえるはずだと素朴にも愚かにも信じていた。当時はインターネットなどもなかったが、あったらよかったのにといま思わなくもない。あればわたしの幼稚な信念には「※ただしイケメンに限る」という条件が欠けていることをネットから教わることができただろう(笑)
こういうのが好みだというのでは全然ない。ほんとのただのBGMだ。でもBGMがないと死んでしまう(笑)性質なので、つまりこれがわたしにとっての無音だというのにちかい
リンク先の冒頭で書かれているように、この主は「カルナップがなぜあれほど激しくハイデガーに噛みついたのか」を検証するために自分で訳して読んでみたということらしい。わたしの方はカルナップには当面関心がないのだが(笑)読んでいて別のことを思った
何をどう思ったのかというと、こんな風に「無」という字がたくさん出てくるテキストを読むと、日本人の一定割合は絶対に誤解するはずだ(笑)ということだ
近年では田舎でも墓に(念仏や題目以外の)勝手な文字を刻む人が増えている。帰省して墓参りすると「無」の一字だけが刻まれてる墓とか、そういうのを見かけたりするわけである
もちろんわたしは自分がバチ当たりの無信仰者なので、他人や他家がその墓に何を刻もうと好き勝手にすればいいことだとは思っているのだが、それはそれとしてこういうのはよろしくないなとも思う
その文字は任意の文字として、つまり、たとえば「X」とか「イ」とか「た」とかであっても一向に構わないものとして刻まれているわけでは、決してないのだろうからである
つまりスポーツ中継番組で試合後に「感動した」という文字をFAXやメールで放送局に寄越してくる人達とおんなじで、その文字は一文字でも紋切型なのである。念仏や題目だって紋切型に違いはないのだが、こちらの方は曲がりなりにも歴史や伝統に接続されてはいる
むかし木田元センセイの本を読んでいたら、わが国では、哲学研究者の中にさえ「ハイデガー信者」とでも呼ぶべき人がたくさんいると、嘆くように書かれていた(事実なら確かに嘆かわしいことである)そのわけは案外こんなところにあるのではないか
よその国はどうだから知らないが、少なくとも我々日本人の言葉に対する感覚というのはどこか、またなぜか、「無」と一文字刻まれているだけで納得してしまったり、どうかすると溜飲を下げてしまったりするものを含んでいる
それが歴史にも伝統にも哲学にも現在にも何ら接続されるところをもたない、正真正銘の空虚な紋切型であってもである。ときどき検索して眺めていると、twitter上だと「哲学」の2文字も結構そんな風に用いられているような気がする
そんな空虚な紋切型の位相で使われる「無」や「哲学」は無とも哲学とも本当は何の関係もないのだと言いたくなる。またその一方で、そうは言っても、空虚な字句を空虚のまま了解したり、あまつさえ反復したりすることの空虚は、それはいったい何をしていることになるのだろうかとも思ったりする