そらまあ『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』『心的現象論』あたりの3部作をその枠組みから強引にまとめ直せば「中国語の部屋」と同じことを言っていると言えないことはない気はするのだが、そうは言ってもそれはやはり、そんなのは済んだ後から可能な解釈にすぎないのである
だから吉本が本当のところはどっからその根拠を手に入れたのか、これは今でもよく解き明かされていない謎である。ご本人ならたぶん「いや、それはもうマルクスとヘーゲル」と言ったに違いないのだが(笑)
・・・そうでもないか。吉本がいつか生涯の3冊として挙げていたのは『資本論』『新約聖書』『昆虫記』の3冊だった。これだってずいぶん昔にそう語ったことなので、この3冊から吉本思想の成り立ちを探ろうとした人は、たぶんたくさんいるはずなのだが、特に誰かが成功したという話は聞かない
さっきRTしたジャイアンの人(笑)の言うところを信じるならば、ハイデガーというのはソクラテス以前の古代ギリシャまで遡って西欧の哲学・形而上学の全歴史をネタにしてその根拠を獲た人だということになるのだろう、と思う
途方もなく大雑把な言い方をすれば問題というのは常に現在の問題なのであって、歴史に依拠するアプローチ(接近)というのは単に、内部構造のよくわからないものの(現在の)内部状態を同定ないし推定するにはその対象が辿ってきた観測状態の列、すなわち歴史を参照するにしくはないということだ
それはひとつのやり方だが、もうひとつあるわけで、それは、問題は現在の問題なのだから、現在の状態をそのまま使えばいいというものだ。そんなことが可能なものはこの世にたったひとつしかないが、たったひとつだけは常に必ず存在して、それが「いま生きている自分」だ
ハイデガーが現存在(Dasein)と呼んだのはそのことなのかどうかは知らないが、たぶんそうだ(爆笑)
吉本は現存在とか「いま生きている自分」という言い方はしてなくて、俺の考えでは、それが吉本自身がそう言っていたところの「たたかい」という言葉の究極の含意だろうと思う。自身の「たたかい」の上に全世界を繰り込みつつ「たたかう」こと、それが吉本の択んだアプローチだった
ぼくはかきとめておこう 世界が
毒をのんで苦もんしている季節に
ぼくが犯した罪のことを ふつうよりも
すこしやさしく きみが
ぼくを非難できるような 言葉で
(吉本隆明『ぼくが罪を忘れないうちに』第一連)
ぼくは軒端に巣をつくろうとした
ぼくの小鳥を傷つけた
失愛におののいて 少女の
婚礼の日の約束をすてた
それから 少量の発作がきて
世界はふかい海の底のようにみえた
おお そこまでは馬鹿げた
きのうの思い出だ
(同・第二連)
それから さきが罪だ
ぼくは ぼくの屈辱を
同胞の屈辱にむすびつけた
ぼくは ぼくの冷酷なこころに
論理を与えた 論理は
ひとりでにうちからそとへ
とびたつものだ
(同・第三連)
無数のぼくの敵よ ぼくの苛酷な
論理にくみふせられないように
きみの富を きみの
名誉を きみの狡猾な
子分と やさしい妻や娘を そうして
きみの支配する秩序をまもるがいい
(同・最終連前半)
きみの春のあいだに
ぼくの春はかき消え
ひょっとすると 植物のような
廃疾が ぼくにとどめを刺すかもしれない
ぼくが罪を忘れないうちに ぼくの
すべてのたたかいは おわるかもしれない
(同・最終連後半)
こんな「詩」を書いておきながら、後年になって「おれは以前は詩など書いていなかった」(「情況への発言」May,1984)なんて言い出すんだから、この「詩」をそのまま「たたかいの詩」か何かだと受け取って「たたかっ」たりした人達はさぞかし狼狽したに違いない
「(笑)」とつけようとしたがつけかねた。考えてみると狼狽させられた人達のことが、あんまりにも気の毒な気がしてきたからだ(笑)
「たまごかけごはんがウマそう、でも怖い、でも食ってみたい……」アニメ「銀の匙」に触発された中国人オタク(百元)(KINBRICKS NOW) kinbricksnow.com/archives/51866… 記事を読んでいると「生臭い」という形容が頻繁に出てくるのが不思議だ
まあ生卵がそんなに怖いのだったら、ご飯にマヨネーズと醤油でもかけて食べたらどうか、と思う(笑)要は近似的にはそういうものなのだから
中国 地方政府の債務膨張受け実態調査(NHKニュース) nhk.jp/N48n5g6q ”地方政府の債務は日本円で240兆円から320兆円に上っているとみられ、一部の地方政府は財政が破たんして返済ができなくなる懸念も指摘されている”
中国・ベトナムの外相が会談(NHKニュース) nhk.jp/N48n5gAS ”ミン外相は「領有権問題は平和的に解決するべきだ」と述べたのに対し、王外相は「関係を損なうつもりはない」と応じ、対立が先鋭化しないよう協力する姿勢を示したということです”