惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

暴に報いるに悪を(2)

2009年05月04日 | 悪は論じることができない
苦し紛れにシリーズを変えてみたのはいいが、ホントに苦し紛れなので何をどう書いたらいいのか自分でも困ってしまう。

以下、当分はただ思いついたことだけをアトランダムに書くので、どうかするととんだデタラメを書いてしまっているかもしれない。そんなことはありえないと思ってはいるが、閲覧者はくれぐれも真に受けないように願う。

虐待親の「しつけのつもりだった」はわたしには理解できない、理解できないということはそれは「悪」から出たものではない、ということはそれは「善」から出ているのだろうか、というより(経験を超越した)「善」ということの本質がそうだと考えるべきなのか。

そもそもわたしは「しつけ」という言葉自体が大嫌いである。虐待親ではない普通の人が言っているのを聞いても、心を一瞬暗いものが過ぎるほどである。それでも親という人が自分のコドモについて、あるいはペットの飼い主がペットについて言っているうちはまだいい、過ぎったものの方を握りつぶしておこうということになるのだが、そういうのと全然関係ないところで言われているのを聞くと、場合によっては本気でムカッ腹が立つことがある。それはたかだか親子とかそれに相当する関係のあるところでは必然だと言えるだけで、倫理にはなりようがないものだという気がする。「全然関係ないところで」言っているということは個別の関係の必然性から切り離された倫理として言われているということだからムカつくわけだ。

何がそんなにムカつくのかと言えば、それを普遍的な倫理のように言われてしまったら最後、コドモの方はなすすべもないということになってしまうからである。その親が言うことを聞かないコドモの頭を殴りつけるのと、赤の他人が「言うこと聞かないガキは殴ってでも」云々などと言うのは全然別のことだ。

とはいえ、これは「親ならコドモを殴ってもいい、それは愛情だから」という意味でもないことは言うまでもない。なぜならそんな風に言うということは、今度は「それは愛情だから」の方を倫理にしてしまうだけだからだ。その名のもとにどんな暴虐でも正当化されてしまうという意味では一層たちの悪い考え方だ。

そうは言っても、ただ単に気に食わないガキだという理由でその親がコドモを虐待して殺してしまうようなことがあっていいのか。誰もいいとは言わないだろう。

「悪」の考えからすると、虐待されているコドモの方が自分の意志で「社会という暴虐」を呼び込んで対抗することは是としなければならない。それは悪魔にタマシーを売るのと同じで、敵をやっつけた後は自分の方が(しばしば一層惨たらしく)貪り食われることになるのだ、などと言ったところでどうしようもない。わが身が深刻な危機に晒された時は誰だって手元に転がっている武器になりそうなものは何であれそれを手にして応戦しようとする。どういうものかそんな時に限って、たまたま手にしたものは妖刀村正のたぐいだったりするだけである。

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