瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

自慢話と信頼関係

2017-07-30 14:35:10 | 随想
自慢話が嫌いである。聞くのはもちろん話すことも嫌いである。もっとも当方に自慢するようなことがないせいで話さない、というより話せないという事情もあるにはある。

本を読んでいたら、自慢をするのは評価をされたいからである、との意味のことが書いてあった。自慢話は鬱陶しいだけで何故それを自慢するのかなんぞ考えてみたこともなかったが、指摘されてみれば確かにそうである。得心した。

要するにその人にとっての価値である。その人にとって大切なことだから他者の評価を得たくて話すのである。評価されたくて話すからニュアンスとしては「すごいでしょ?」になるし「褒めて、もっと褒めて!」になる。ニュートラルな話し方にはならない。
だからこそ他者にとって自慢話は鬱陶しくもある。聞かされるほうにとっては、そんなことに価値は置いておらず、どうでもいいことに評価を求められても相手をするのが面倒なだけ。

自慢話は価値観を共有する者の間でするのがお互いのためというものだ。価値観の違う者を巻き込んではいけない。

で、これを書いていて気がついた。話すほうには自慢している気は毛頭なく、聞くほうがそれを自慢話として受け取る場合ということもある。話している人にとってはそのことは価値でもなんでもないのだが、聞く人にとって価値あることなら自慢話に聞こえてしまうのである。

ということであるなら私は意図せずして自慢話をしていることもあるかもしれない。自慢話をして他者を鬱陶しい思いにさせているかもしれない。
コミュケーションに誤解はつきもので、出来うる限り誤解が生じぬよう言葉を尽くしているつもりだが、それでもやはり誤解は生じるのである。厄介なことだ。

だから誤解することを前提に自分の理解が誤解でないかを疑ってかかったほうがいい。
そして誤解か否かを問い質せる関係を築く必要もある。問い質すことで関係が破綻することを怖れ、問い質すことを躊躇することもあるからである。信頼関係が出来ていないと問い質せるものではない。

解り合うためには、まず信じること。
それが始まりである。
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