扉は無数にありますけど、それが扉だと気がつかないことのほうが多いような気もします。あとになって、あれは扉だったんだなあ、開けてみればよかったなあ、なんて思い出したりなんぞして。
扉を開けることが生きるってことかもしれません。たくさん開ければいいってもんでもないでしょうけど、開けないまま通り過ぎることが多いってのも何のために生きてるんだかって感じもします。
ま、開けたあとのほうが大事ですがね。量より質ってぇますか。開けた扉の向こうにあるものと如何に付き合うかってことですね。深く付き合っていればあれもこれもと扉を数多く開けてる余裕なんてないし。
それに開ければいいってもんでもない。開けてえらい目にあったこともありますよ、あたくしは。ま、それはそれでいい経験ともいえますけど。
運命は性格のなかにあるってなんかで読んだ記憶があります。
運命を出会いと解釈してみますと、出会い、いま書いてる言葉でいえば扉ですわなあ、扉を開けるか開けないまま素通りするかは性格ってわけです。
じゃ性格って何よってことになりますが開けた扉によって性格が形作られるんじゃないかしらね。これじゃニワトリとタマゴですけど。
で、性格以前の何かについて考えたりもします。その人がその人である何か。それを魂と呼んでいいのかしら。どうなんでしょうね。
わからないことだらけですねえ。
わたしが わたしである こと。
それだけ かわらなく て。
それだけ たいせつ みたいな。
そんな 気が して。˘ ˘*
最近、「扉」を閉められたことがあり、それならそれで別の「扉」を探そうと思っていたところでした。
「扉」は無数にあっても、
出会える扉はそんなに多くないかな、とも思ったりもしますが、
安心で安全な「扉」に出会いたいな、、と思っています。
でも
やっぱり
開けたあとの方が大事ですね。
自分が自分であることの根幹をなすものが魂であると定義するとして、その魂ってぇのは何なんでしょうかねえ。
魂のことを考えると死があるのかないのかあやふやな気分にもなってきます。
はるのとりさんのコメントへの返信としては方向がズレていっている気もするので、このへんで。
閉められるにしろ開けるにしろ、とどのつまりは縁ですよね。安心安全な扉に出会えるかどうかも。
縁ってのも不思議なものですね。どこでどう何とつながっているのやら。yozanema-126さんにコメントをもらい、こうして返信している。これも何かの縁って言えるんでしょう。
はるのとりさんへの返信もそうでしたがyozanema-126さんへの返信もコメントからズレていくような(苦笑)
では、このへんで。