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北条義時

2022-01-16 07:10:29 | 歴史
2022年の大河ドラマ。
主演の小栗くんが演じるのが、北条義時。

北条氏は源頼朝を陰日向に支えながら勢力を拡大し、頼朝のあとを継いで鎌倉幕府の
実権を握る一族。
当時は、政治の実権が公家から武家へと移り変わろうとしている時代。




平治の乱では皇室・摂関家の争いに源氏と平氏がそれぞれ力添えをして争い、平氏が味方に付いた後白河上皇側が勝利。
源氏の総領であった源義朝は敗走中。
他方、北条家は伊豆蛭ヶ島に流された源頼朝を監視する役目を命じられたでつ。

ここから北条一族と源氏の関わりが始まったとされるでつ。
頼朝が平氏を打ち倒すために挙兵した際、時政、義時親子も参戦するでつ。
葦屋浦の戦いでは義時が大活躍したでつ。

北条家は戦に参加するだけでなく、関東地方の武士の協力を得られるように働きかけしたとも言われているでつ。
こうして時政、義時親子は源氏内での地位を確立していったでつ。
頼朝が、奥州藤原氏を攻略しますが、そのときも義時が頼朝の近くに控え、信頼を得ていたでつ。

源頼家という子どもが二代将軍として家督を継いだでつ。
ところが、家臣たちは頼家の独裁政治を防ぐために、「13人の合議制」という仕組みを考えたでつ。
将軍だけでなく有力な御家人たちが話し合いで政治の方向を決めることになったでつ。

そのなかに、時政・義時親子の姿もあったでつ。
13人の御家人たちは決して仲が良かったわけではないでつ。

たとえば、二代将軍頼家に娘を嫁入りさせていた比企能員は北条氏の台頭を面白く思ってなかったでつ。
将軍家の権力が、13人の合議制で削られてしまうわけですから当然。
頼家が病気になったことをきっかけに、頼家の領地を頼家の子どもたちで分割することが13人の合議制で決定。

これを知って頼家は大いに腹を立てるでつ。
そこで頼家は、妻の父親である比企能員に時政を征伐するように命じたでつ。
それを知った義時はすぐさま比企一族を討ち滅ぼしたでつ。

頼家も北条家によって追放。
三代将軍についたのは頼朝の子どもである源実朝。

義時の父、時政は政所別当)に就任して執権となり、政治の実権を握ったでつ。
北条氏は比企氏以外の有力御家人たちの排除を続けたでつが、とうとう時政と義時親子が対立するときがきたでつ。

時政が三代将軍源実朝を将軍から変えようとしたとき、義時は実朝側に付き、北条時政の企てを阻んだでつ。
この出来事により、時政は失脚。執権の地位は義時に移ったでつ。
義時は時政が就いていた政所別当だけでなく侍所別当も兼ねるようになり、執権としての地位を確固たるものしたでつ。

義時が、北条家の地位を盤石なものにしたのが、承久の乱。
頼家も実朝いなくなって、頼朝直系血族は絶えてたでつ。

そこで義時は京都の天皇家から将軍を迎えようとするでつが、朝廷の権力拡大を目論む後鳥羽上皇にこれを拒否。
後鳥羽上皇は天皇家の領地をまとめ、強力な院政を敷いていたでつ。

鎌倉での北条氏の台頭を恐れた後鳥羽上皇は義時追討の命令によって武将に号令をかけ、討伐軍を結成。
そこで義時は姉の政子と協力して、鎌倉幕府の武士たちを説得。協力して後鳥羽上皇軍を打ち破り、
関わった上皇三人を島流ししたでつ。

承久の乱で北条氏が勝利したことによって、天皇家の権力は弱体化し、鎌倉幕府の支配は全国に及ぶことになったでつ。
以後、鎌倉幕府の将軍は摂関家や皇室から迎えられるようになるでつが、どれも形式的な存在で、
鎌倉幕府の実権は北条氏が握ることになるでつ。

義時は争いに次ぐ争いの人生のなかで、ついに覇権を手に入れたでつ。
ただ、これらの歴史は後世に鎌倉幕府の中枢によって編纂された「吾妻鏡」によるものが多く、
争いのきっかけや経緯については諸説あるでつ。

頼朝は義時のことを「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時を持って家臣の最となす」と称していたとも
伝えられているでつ。

「他日必ず子孫の補佐たらん」というのは、「いつか必ず私の子孫の補佐になるであろう」という意味。
北条一族は執権として鎌倉幕府を支えることになるのですから、頼朝の予想は的中したとも言えるでつ。

ただ、将軍家は北条氏によって完全にあやつり人形のようになっていったので、そういう意味では間違いとも言えるでつ。
頼朝に信頼されていた義時はどのような性格だったか。
今から1000年近くも前に生きた人物の性格は、残された文書などから推測しかないでつ。

すると見えてくるのは、義時の時流の見る目の鋭さ。
義時は常に「勝ち馬」を当てているでつ。
源氏と平氏の争いの際は、不利だと思われていた源氏に付くでつ。

また、鎌倉幕府内に権力争いがあった際も、強い側に付いたでつ。
頼家でなく実朝を選んでいたでつ。

家族でも主君でもなく、強きを見極め、地位を確立していったでつ。
そこには、時流を見る目に加えて、冷静な判断力、そして選んだ側を必ず「勝ち馬」にすることができる実力と
強い意志があったと思われるでつ。

義時は父である時政とともに、伊豆の豪族から武家の頂点にまで成り上がった人物。
義時の人生からの学びは臨機応変に行動することの大切さ。

義時は固定観念にとらわれずに選択し続けることで、鎌倉幕府での権力を握るでつ。
また、自らの勢力を拡大、維持するために、ときには主家に刃を向け、父親とも対立。

ただ、明治時代には目上の人間を監視したり、追放したりした義時に対して、
「大悪人」というイメージを多くの人が持っていたでつ。
だけど、近年の研究で、一方的な悪人というイメージだけで捉えきれない義時の人物像も見えてきているでつ。

注目すべき点は、義時の臨機応変ぶり。
次々と直面する危機、状況の変化に対して、彼は冷静に自分がとるべき行動を判断し、生き残ったでつ。
義時が生きた時代はサバイバルの時代。

現代とは単純に比較できませんが、義時の生き方は現代の社会生活にも応用できるはず。
困ったとき、ピンチに陥ったときは、自分の固定概念にとらわれて判断を狭めるのではなく、
広い視野を持って柔軟に判断すると、よりよい結果が得られるでつ。

さて、どういう風にドラマが展開していくか楽しみでつ。
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