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マッハの貴公子 C1Runner の熱~い日記でつ(¬_,¬)b フフフ・・・

マッハの貴公子 天才タケスィが熱~く語るでつ( ̄ω ̄)ムフ~

秀吉が「信長の後継者」になれたのは、情報取集の差でつ。

2022-06-25 07:10:29 | 歴史
なぜ羽柴秀吉は「信長の後継者」になれたのか。
本来であれば後継者に近いのは織田家の筆頭家老だった柴田勝家。

だけど、情報不足などの理由で、光秀討伐に出遅れたのが響いたでつ。
こりが…
この『空白の10日間』が勝家と秀吉の命運を分けることになったでつ。

本能寺の変から明智光秀が討たれた山崎の戦いの時期のこととして注目されてきたのが、
羽柴秀吉による奇跡の「中国大返し」。

秀吉は、本能寺の変の翌日にあたる天正十年(一五八二)六月三日深夜から四日朝までに、
その正確な情報を得ていたでつ。

ただちに対戦していた毛利氏との講和を結ぶや、上方めざして全力で進軍し、
六月十三日の山崎の戦いで快勝したでつ。
この行軍が「奇跡」といわれるのには理由があるでつ。

第一が、変の情報をきわめて早く確保したこと。
光秀の使者が誤って陣所に迷い込んだ、というのはありえないことでつ。
それは、備中高松の古戦場に行けば氷解するでつ。

毛利方の陣所は遥か遠いところにあるため、そのような初歩的なミスを犯すとは
考えがたいからでつ。

もしかりに事実だったとしても、その情報がインテリジェンスであることを、
即座に確信することはできない。

第二が、進軍しながら光秀方勢力の動きを正確に把握して、丹後宮津城の細川藤孝を説得したり、
淡路洲本城の長宗我部方の水軍菅達長を攻撃したりしたことでつ。

細川氏には、親しい家臣を本隊に先行して派遣して秀吉に協力するように説いたでつ。
また淡路の味方勢力に菅氏攻撃を命じたのは、長宗我部氏が摂津に渡って秀吉軍の背後を
襲わないようにするため。

このように、あたかも変以前から光秀の行動を見抜いていたかのような完璧な対応。
光秀は、このような秀吉の動きに関してはほとんどノーマーク。
変以前に毛利氏が推戴していた将軍足利義昭と連携していたからでつ。

副将軍だった毛利氏が、備中高松合戦における形勢逆転のチャンスを無駄にするはずがないと
確信していたでつ。

秀吉方は動くことができないどころか、毛利方に揉み潰されるとみていたのではないか。
光秀が警戒していたのは、大坂城に籠城した織田信孝と副将丹羽長秀でもないでつ。

なぜなら、本能寺の変の情報を得た彼らの軍隊が、その衝撃から雑兵を中心に
逃げ去ってしまったからでつ。
信孝のもとにあった伊勢・伊賀出身の兵士たちは、一目散に逃げ帰ったと言われるでつ。

結局、二人は籠城するしかなかったでつ。
光秀がマークしていたのは、越中出陣中の柴田勝家。
光秀が戦略上抑えておかねばならないのは信長の本拠安土城と近江一国。

天下人の本城を確保することは当然であるでつが、近江には自らの居城坂本城や、
秀吉の長浜城と長秀の佐和山城もあったでつ。
織田家を支える重臣たちの居城を接収しておくことは、戦略上きわめて重要。

勝家は、近江の北隣越前の北庄城に配置されていたでつ。
もし彼が越中から無事に帰還すれば、もっとも至近の強敵になるでつ。
光秀は、それを想定して変前から勝家シフトを敷いていたでつ。

なお上杉氏関係史料には、光秀が本能寺の変の情報をあらかじめ越中魚津城で
知らせていたことを示す書状があるでつ。

六月三日の魚津落城後から山崎の戦いまでの十日間の勝家の動向については、
これまで関係史料がないことからわかなかったでつ。
ところが、近年個人蔵ではあるが関係史料群が発見され勝家の動向が判明したでつ。

新史料からは、勝家の率いた北国軍が魚津城を陥落させ、さらに越中宮崎城を落として越後に侵入し、
上杉景勝の春日山城をめざしていたことが確認されたでつ。

勝家は、六月六日に変の情報を得て退却を開始。
あわせて春日山城に迫っていた信濃の森長可や関東の滝川一益の軍隊も退却することで、
上杉氏は危機を避けることができ、反転攻勢の動きをみせたでつ。

勝家は、与力の越中の佐々成政や能登の前田利家をそれぞれの居城に帰還させ領内を固めさせ、
彼自身は六月九日に北庄に帰城したことが確認されたでつ。

情報を得てからわずか三日間で、直線距離にして約一七〇キロメートルもの道のりを無事に
全軍を帰還させるのに成功したでつ。
これを勝家の「北国大返し」と呼んで、その見事な手腕を評価してもよいでつ。

帰城直後から、勝家は光秀を討つための作戦にとりかかったでつ。
ここに、大問題が浮上。

若狭守護家武田氏と北近江の京極氏とその麾下の国人たちが蜂起して、佐和山城や長浜城を落城させて、
北近江を占拠していたでつ。

当時の若狭は、丹羽長秀が国主となっていたでつが、先述したように彼が家臣たちとともに大坂に籠城したため、
信長に抑圧されていた勢力が息を吹き返したでつ。
しかも当主の武田元明の母は足利義昭の姉であり、正室竜子は京極高次の妹だったでつ。

彼らの迅速で効果的な軍事行動は、やはり光秀あるいは義昭サイドとの接触なしにはありえなかったでつ。
武田・京極両氏の出陣によって、北庄と大坂を結ぶ動脈北国街道が不通になったでつ。

勝家は、長秀重臣溝口氏の若狭高浜城(福井県高浜町)を経由して、大坂城の長秀と家臣の若狭衆に
対する書状を届けようとしたでつ。

だけど、山崎の戦いがあった六月十三日まで、情報不足と背後から武田牢人衆に襲われることを懸念して、
勝家は近江に向けて出陣することができなかったでつ。
光秀方勢力による北近江路の封鎖は、成功していたでつ。

大坂方も勝家方の情報が入らないことには、容易には動けなかったでつ。
膠着こうちゃく状態を打ち破ったのが、秀吉の京都をめざす爆発的な進軍だったでつ。

したがって秀吉の「中国大返し」さえなかったら、上杉氏の反転攻勢や近江で展開していた若狭武田氏や
京極氏の光秀への協力、長宗我部氏の摂津進軍とそれを支える菅氏ら淡路水軍の蠢動、
さらには将軍足利義昭の帰洛への動きも予想され、光秀による室町幕府再興の可能性もあったでつ。

勝家が上方に向けて出陣を開始したのは、結局のところ山崎の戦いが終結した後のことであったでつ。
信長の弔い合戦に間に合わなかったことが、結果的に勝家の政治的な地位をおとしめ、
翌年の賤ヶ岳の戦いにおける敗戦につながったでつ。

新史料によると、勝家は大坂城にいる織田信孝を推戴して、畿内諸地域に散在する織田家臣団が
包囲網を形成して光秀を討ち取ることを構想している。
天正十年六月十日付勝家書状があったでつ。

他の史料では、光秀が近江にいるので、大坂籠城衆をはじめとする反光秀方勢力が相互に連携・協力して、
一刻も早く討ち果たしたい。
そのうえで、信長在世時のように戻したいと語っている勝家書状があるでつ。

このような勝家の意志を、書状で長秀に伝えていたのだが、きわめて常識的な戦略を主張していたでつ。
これに対して秀吉は広く情報を収集したばかりか、情報操作まで試みたでつ。

摂津茨木城主中川清秀に宛てた書状の内容を紹介しよう。信長様と信忠様は、無事切り抜けられました。
近江の膳所に退かれていますと天正十年六月五日付秀吉書状を送っていたでつ。

毛利氏と講和を締結し備中高松から撤退している時期に認めたもので、信長父子の無事を伝えたものであるが、
明らかに虚偽内容でつ。

京都に近く情報を得やすい立場の中川氏に堂々と知らせたのは、日頃から情報通として知られる秀吉の言うことであるから、
あるいはそうなのかもしれないと思わせるためだったでつ。

当時、秀吉は摂津高槻城の高山氏とも交信していたから、情報を攪乱して畿内の大名たちが光秀方に
ならないようにするための作戦だったでつ。

既にこの時期に、秀吉は長浜城までのルートを確保し、使者を往復させていたこともわかっているから、
正確な情報を得たうえでの作戦あることは確実。

なお、柴田勝家が越中方面を平定して、急ぎ上方に向けて進軍しようとしている由、丹羽長秀からの書状で
拝見しました。天正十年六月十日付秀吉書状。
勝家が北庄に帰城した翌日にあたるでつが、この頃明石に到着し、淡路の長宗我部方への軍事対応を
すませた秀吉は、光秀の居場所と軍事行動に関するかなり正確な情報を記しているでつ。
引用はその追伸部分であるが、秀吉が長秀と交信し、勝家の情報も得ていることがわかるでつ。

秀吉の情報収集力と対応能力のすさまじさを感じる書状。
この時期の反光秀陣営のキーマンは、織田信孝。
勝家も秀吉も光秀攻撃の首将として大坂城の信孝をみなしていたからであり、彼の副将として一緒にいる実力者長秀の存在も
クローズアップされたでつ。
だれがこの二人を掌握するのかが、次の天下人の行方を決めたでつ。

この解答は、六月十三日の山崎の戦いの直前に、秀吉と長秀が合流し、信孝の命令を奉じる連署副状を
発給することで出た(六月十三日付筒井順慶宛秀吉・長秀連署副状)でつ。

一時は光秀方を表明した大和郡山城の筒井氏に対して、正式の軍事命令を伝えたでつ。
これまでわからなかった勝家の動きが判明した結果、北近江に展開した武田・京極両氏の軍事行動が効いており、
光秀の勝家シフトが有効だったことが判明。

本能寺の変は完璧だったでつが、その後の動きの拙劣さが長らく指摘されてきた光秀。
だけど、それはあくまでも結果からみた誤解。

まったく予想外の秀吉の「中国大返し」さえなければ、帰洛を遂げた足利義昭を、
光秀や藤孝といった幕府衆はもとより、毛利氏をはじめ上杉氏や長宗我部氏ら諸大名が
支える室町幕府体制の復活もありえたでつ。

本能寺の変から山崎の戦いに至る歴史の流れは、結果的に五十歳以上の光秀や勝家といった
老齢の宿老層が敗れた」でつ。

秀吉に代表される、室町時代以来の古い権威を相対化するかわりに、正確な情報を収集し、
より合理的な判断にもとづく意志決定ができる武将のみが生き残る段階へと突入するでつ。

信長、秀吉が天下を取れたのは、情報戦を制したからでつ。

北条義時

2022-01-16 07:10:29 | 歴史
2022年の大河ドラマ。
主演の小栗くんが演じるのが、北条義時。

北条氏は源頼朝を陰日向に支えながら勢力を拡大し、頼朝のあとを継いで鎌倉幕府の
実権を握る一族。
当時は、政治の実権が公家から武家へと移り変わろうとしている時代。




平治の乱では皇室・摂関家の争いに源氏と平氏がそれぞれ力添えをして争い、平氏が味方に付いた後白河上皇側が勝利。
源氏の総領であった源義朝は敗走中。
他方、北条家は伊豆蛭ヶ島に流された源頼朝を監視する役目を命じられたでつ。

ここから北条一族と源氏の関わりが始まったとされるでつ。
頼朝が平氏を打ち倒すために挙兵した際、時政、義時親子も参戦するでつ。
葦屋浦の戦いでは義時が大活躍したでつ。

北条家は戦に参加するだけでなく、関東地方の武士の協力を得られるように働きかけしたとも言われているでつ。
こうして時政、義時親子は源氏内での地位を確立していったでつ。
頼朝が、奥州藤原氏を攻略しますが、そのときも義時が頼朝の近くに控え、信頼を得ていたでつ。

源頼家という子どもが二代将軍として家督を継いだでつ。
ところが、家臣たちは頼家の独裁政治を防ぐために、「13人の合議制」という仕組みを考えたでつ。
将軍だけでなく有力な御家人たちが話し合いで政治の方向を決めることになったでつ。

そのなかに、時政・義時親子の姿もあったでつ。
13人の御家人たちは決して仲が良かったわけではないでつ。

たとえば、二代将軍頼家に娘を嫁入りさせていた比企能員は北条氏の台頭を面白く思ってなかったでつ。
将軍家の権力が、13人の合議制で削られてしまうわけですから当然。
頼家が病気になったことをきっかけに、頼家の領地を頼家の子どもたちで分割することが13人の合議制で決定。

これを知って頼家は大いに腹を立てるでつ。
そこで頼家は、妻の父親である比企能員に時政を征伐するように命じたでつ。
それを知った義時はすぐさま比企一族を討ち滅ぼしたでつ。

頼家も北条家によって追放。
三代将軍についたのは頼朝の子どもである源実朝。

義時の父、時政は政所別当)に就任して執権となり、政治の実権を握ったでつ。
北条氏は比企氏以外の有力御家人たちの排除を続けたでつが、とうとう時政と義時親子が対立するときがきたでつ。

時政が三代将軍源実朝を将軍から変えようとしたとき、義時は実朝側に付き、北条時政の企てを阻んだでつ。
この出来事により、時政は失脚。執権の地位は義時に移ったでつ。
義時は時政が就いていた政所別当だけでなく侍所別当も兼ねるようになり、執権としての地位を確固たるものしたでつ。

義時が、北条家の地位を盤石なものにしたのが、承久の乱。
頼家も実朝いなくなって、頼朝直系血族は絶えてたでつ。

そこで義時は京都の天皇家から将軍を迎えようとするでつが、朝廷の権力拡大を目論む後鳥羽上皇にこれを拒否。
後鳥羽上皇は天皇家の領地をまとめ、強力な院政を敷いていたでつ。

鎌倉での北条氏の台頭を恐れた後鳥羽上皇は義時追討の命令によって武将に号令をかけ、討伐軍を結成。
そこで義時は姉の政子と協力して、鎌倉幕府の武士たちを説得。協力して後鳥羽上皇軍を打ち破り、
関わった上皇三人を島流ししたでつ。

承久の乱で北条氏が勝利したことによって、天皇家の権力は弱体化し、鎌倉幕府の支配は全国に及ぶことになったでつ。
以後、鎌倉幕府の将軍は摂関家や皇室から迎えられるようになるでつが、どれも形式的な存在で、
鎌倉幕府の実権は北条氏が握ることになるでつ。

義時は争いに次ぐ争いの人生のなかで、ついに覇権を手に入れたでつ。
ただ、これらの歴史は後世に鎌倉幕府の中枢によって編纂された「吾妻鏡」によるものが多く、
争いのきっかけや経緯については諸説あるでつ。

頼朝は義時のことを「他日必ず子孫の補佐たらん」「義時を持って家臣の最となす」と称していたとも
伝えられているでつ。

「他日必ず子孫の補佐たらん」というのは、「いつか必ず私の子孫の補佐になるであろう」という意味。
北条一族は執権として鎌倉幕府を支えることになるのですから、頼朝の予想は的中したとも言えるでつ。

ただ、将軍家は北条氏によって完全にあやつり人形のようになっていったので、そういう意味では間違いとも言えるでつ。
頼朝に信頼されていた義時はどのような性格だったか。
今から1000年近くも前に生きた人物の性格は、残された文書などから推測しかないでつ。

すると見えてくるのは、義時の時流の見る目の鋭さ。
義時は常に「勝ち馬」を当てているでつ。
源氏と平氏の争いの際は、不利だと思われていた源氏に付くでつ。

また、鎌倉幕府内に権力争いがあった際も、強い側に付いたでつ。
頼家でなく実朝を選んでいたでつ。

家族でも主君でもなく、強きを見極め、地位を確立していったでつ。
そこには、時流を見る目に加えて、冷静な判断力、そして選んだ側を必ず「勝ち馬」にすることができる実力と
強い意志があったと思われるでつ。

義時は父である時政とともに、伊豆の豪族から武家の頂点にまで成り上がった人物。
義時の人生からの学びは臨機応変に行動することの大切さ。

義時は固定観念にとらわれずに選択し続けることで、鎌倉幕府での権力を握るでつ。
また、自らの勢力を拡大、維持するために、ときには主家に刃を向け、父親とも対立。

ただ、明治時代には目上の人間を監視したり、追放したりした義時に対して、
「大悪人」というイメージを多くの人が持っていたでつ。
だけど、近年の研究で、一方的な悪人というイメージだけで捉えきれない義時の人物像も見えてきているでつ。

注目すべき点は、義時の臨機応変ぶり。
次々と直面する危機、状況の変化に対して、彼は冷静に自分がとるべき行動を判断し、生き残ったでつ。
義時が生きた時代はサバイバルの時代。

現代とは単純に比較できませんが、義時の生き方は現代の社会生活にも応用できるはず。
困ったとき、ピンチに陥ったときは、自分の固定概念にとらわれて判断を狭めるのではなく、
広い視野を持って柔軟に判断すると、よりよい結果が得られるでつ。

さて、どういう風にドラマが展開していくか楽しみでつ。

「天空の城」竹田城跡

2021-11-20 07:10:29 | 歴史
竹田城跡は、標高353.7mの古城山山頂に築かれた山城。
古城山の山全体が虎が伏せているように見えることから、別名「虎臥城(とらふすじょう、こがじょう)」とも
呼ばれているでつ。




天守台・本丸を中心に、三方に向けて放射状に曲輪が配置されてて、縄張りの規模は東西に約100m、南北に約400m、
「完存する石垣遺構」としては全国屈指の規模を誇るでつ。




築城当時は土塁で守られていた城が、最後の城主赤松広秀により、今に残る総石垣造の城に改修されたと
されてるでつ。
平成18年に「日本100名城」に選定され、平成24年には「恋人の聖地」として認定されたでつ。



この地域は、しばしば秋の良く晴れた朝に濃い霧が発生するでつ。
この朝霧が竹田城跡を取り囲み、まるで雲海に浮かぶように見える姿から、
いつの頃からか竹田城跡は「天空の城」と呼ばれるようになったでつ。








朝来市に行った時に、竹田城付近で泊まったでつが、行かなかったなぁ~
行く機会があれば、朝早く起きて見に行きたいなぁ~

奈良の歴史に触れるでつ。

2021-07-10 07:10:29 | 歴史
今日7月10日はナントの日だなぁ~と思いつつ、最近は奈良をブラブラしてないなぁ~
奈良公園とか世界遺産がたくさんあるんだけど…




そういえば最近は、万葉集にも触れる機会少ないなぁ~
というか…
学生時代なNHK奈良しかなかったから自然と触れられたでつ。




奈良ふしぎ旅は、奈良の歴史に触れられていいでつ。
興福寺の五重塔とか今から1000年も前、コンピュータもクレーンもない時代に
建立したんだから、その凄さが伝わってくるです。




昔の人が出来て、今の人に出来ないことはないと思わせてくれるでつ。
奈良にはパワースポットも多いでつ。




久々に奈良の街をブラタケスィして、奈良の文化を学びに行くかなぁ~
東向き商店街から猿沢池から奈良公園のお決まりコースだなぁ~

大日本帝国の真実

2021-06-08 07:10:29 | 歴史
19世紀末のアジアに突如現れた謎の国、大日本帝国。
その国はまたたく間に中央集権体制を作り上げ、富国強兵のスローガンのもと、怒濤の勢いで成長を続けたでつ。
そして誕生からわずか30年で、当時、アジアの盟主の座に君臨していた清国を打倒。

その10年後には、ヨーロッパ最強の陸軍を有する大国ロシアをも打ち破ってしまったでつ。
短期間で世界3位の軍事大国になったでつ。




その謎が書かれたのが、大日本帝国の真実。
アルキメデスの大戦読んでて、大日本帝国時代に興味が出てきたので、その時代の本がほしかったところだったでつ。
国号を「大日本帝国」と定めた法律は過去一度も存在していないけど、当時の憲法が大日本帝国憲法だったからそういう風に呼ばれてたでつ。

技術もなかなかで特に戦闘機、戦艦、空母は世界で一番の技術があったでつ。
この本読むと戦後の高度高成長がよくわかるでつ。

安土城

2020-06-13 07:10:29 | 歴史
JR安土駅の北東、標高199mの安土山一帯にある織田信長の居城。




天正4年(1576年)から織田信長が約3年の歳月をかけて完成。
築城には…




みたいでつ。
この安土城の天主がすごい。
近代城郭では「天守」と表記されることが多いのですが、安土城の場合は「天主」と表記するでつ。





この城つくりは…




なったでつなぁ~
遺跡も…




まだまだ調査中でお宝がいっぱいありそうでつ。

安土城の特徴は…
安土城が、これまでの城と大きく異なるのは豪華絢爛な天主を持っている点。
天主は城の中核をなす建造物でもあるため、利用するのは有事の際のみであることが通例。

だけど、織田信長は天主に住んでいたと言われているでつ。
安土城の天主は、「望楼型」(ぼうろうがた)と言われる種類。

望楼型というのは、天主の上層と下層の建物の形が異なり、入母屋造りの建物の上に望楼と呼ばれる
物見櫓(ものみやぐら)を乗せたスタイルで、のちに築かれていく近代城郭にも大きな影響を与えているでつ。

安土城の天主は5層7階(地上6階、地下1階)で、八角形の望楼に金箔が施された瓦を使用してて、最上階となる6階は、
金色の室内に狩野永徳の金碧障壁画が飾られる豪華さ。
5階は、天井や柱がすべて朱塗りになっていて、まるで法隆寺夢殿のような世界が広がる空間。

また、5階は地下1階から吹き抜けの空間が作られ、茶座席なども設けられていたでつ。
それより下層の内部は、黒漆塗りです。また、外観について5層7階(地上6階、地下1階)という造りは、
宣教師ルイス・フロイスに「ヨーロッパにもないもの」と言わしめたと伝えられているでつ。

安土城の縄張は、安土城は、標高199mの安土山に築かれた山城。
山頂には、天主、本丸、二の丸、三の丸が配置され、自然の地形を活かした縄張になっているでつ。

安土山の麓から天主に向かって、約180mもの長さにまっすぐ伸びる幅広い大手道はすべて石段で造られており、
他の城では見ることのできない壮大なスケール。
そして山の中腹からは幾重にも折れ曲がっており、複雑な地形を利用した縄張となっているでつ。

安土城中枢部への入り口となる黒金門跡周辺には、安土城の中でも特に巨石が使用。
枡形の出入口(虎口)を抜けた後は左右どちらにも道があり、侵入者をここでも防げるような構造になっているでつ。

安土城は、山全体を城郭として石垣を積み上げていく総石垣造りが大きな特徴です。ここではその石垣を手掛けた職人。
安土城の天主台の石垣は9mもの高さがあり、その上に32mもの高さの天主が築かれているでつ。
頑丈な石垣を造るためには高度な技術力が必要。

安土城の石垣は、穴太衆と呼ばれる、非常に高度な技術を持った石工職人集団を中心に築かれたでつ。
穴太衆の素晴らしさは、自然石を積み上げただけで強固な石垣を造る技術を生み出したこと。
崩れない石垣を作るためには、隅にあたる角の部分が重要。

穴太衆は、強度の強い角にするために「算木積み」という技術を生み出し、安土城に取り入れたでつ。
算木積みは、長方形の石の長辺と短辺を交互に組み合わせて強度を高めるという技法。

穴太衆によって築かれる総石垣は、その後の城郭建築に大きな影響を与え、安土城は日本城郭史の新しい始まりとなったでつ。
穴太衆の技術は、その後、数々の城に活かされているでつ。

安土城は山麓に家臣の屋敷を抱えていたことが明らかになってるでつ。
屋敷群は大手道の両側にあり、豊臣秀吉や前田利家が住んでいたと伝えられる屋敷跡も残っているでつ。
発掘調査で、土器や陶磁器も出土したことにより、生活も営まれていたことが明らかになったでつ。

当時は、書院造りの主殿を中心に多くの建造物が建てられていまたでつが、現在その姿はなく、礎石や石垣のみ。
安土山の中腹には、息子の織田信忠、側近の武井夕庵、森成利、織田信澄)の屋敷跡の石碑があるでつが、
山頂の天主に「居住する織田信長を護衛するため、このように家臣の屋敷を数多く建てていたと考えられているでつ。

安土城後には30年近く行ってないなぁ~
また行きたいけど今、入山料がいるみたい…
でもこりで安土城の謎が解ければと思うでつなぁ~

平家

2019-12-11 07:10:29 | 歴史
このブログをお読みの方は、意外と思われるかも知れませんが、
こう見えても、歴史物大好きなんですよねぇ~

NHKの大河ドラマは、だいたい見るでつ。
と思って…





家で本箱見てたら、池宮彰一郎さんの『平家』があったでつ。

これは、日本経済新聞に連載されていて、毎日読んでたので単行本が出たので
即買ったでつなぁ~
この日経の小説のとこも大好きなコーナー
平家といえば、清盛。
武家政治を始めた人なんだけど、後継者を作ることに失敗した。

こ小説では、後白河法皇が義経を清盛の後継者にしようとした
ところが、なんとなく面白かったけど、そうなれば面白かった
かもだなぁ~

頼朝も義経も、清盛に命を救われたんだけど、そこが清盛の
甘さとも言われている。
その甘さが、後継者を作ることができなかったのかなぁ~

でも今の神戸に都を移したり、改革を実践していった実行力は、
凄いし、今の政治家の人も見習ってほしいなぁ~

久々にまた、読みたくなる本です!

明智光秀

2019-09-28 07:10:29 | 歴史
2020年の大河ドラマは、明智光秀。
ということで…




本を購入でつなぁ~
でも…
意外と光秀のことは知らないことが多い気がするでつなぁ~

光秀のことを知ったのは確か大河ドラマの国盗物語かなぁ~
結構、謎が多いでつ。

本能寺の変もなぜ光秀が起こしたのか…
こりも謎な部分が多いでつなぁ~
そりと…

光秀は、将軍や濃姫はじめ割と上流階級とつながりがあるでつなぁ~
将軍 義昭は、光秀紹介で、信長と会って、15代将軍になれたでつなぁ~
そして、光秀も信長軍団に入ることができたでつなぁ~

でも今回の大河…
なぜ光秀なのかなぁ~
NHKとしては、逆臣とかそういうのはあまり取り上げなかったけど…

そういう意味では、新しい試み…
徳川家康のイメージを変えたように、光秀も今までのイメージと変える可能性は
あるでつなぁ~

さてどんな演出をするのか…

何にしろ、2020年の大河は面白いドラマになりそうでつ。

江戸城

2019-09-16 07:10:29 | 歴史
江戸城は、家康が江戸へ移ってから本拠とした城。
だけど意外と歴史は古いでつなぁ~

それと意外と謎も多いでつ。
今は…
CGで当時の状況を…




出来るでつなぁ~

江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城。
近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里]と、日本最大の面積の
城郭になったでつ。

江戸城は、巨大な天守閣もあったんだけど、現在に残る天守台は、3代目の寛永期天守後に、4代目天守を
建てる予定で築かれたもの。

ただし、予算削減のため4代目天守は建造されなかったでつ。
そして、江戸城と言えば…




女性の権力争いもあったでつなぁ~
お堀も大きいし…




今は皇居になってるけど、1周するとかなりの距離になるでつなぁ~
大阪城よりかなり広いのは、秀吉を超えたい家康の思いでもあるでつなぁ~

そいと城郭史上、類例を見ないほどの巨大さを誇った江戸城の理由は、徳川将軍の威光を全国に
轟かせるため。
江戸時代は参勤交代で、全国の大名が江戸城を訪れたでつ。

そのとき、「やっぱり将軍様はスゴいな」、「こんな徳川家に刃向かうなんて無謀だな」と諸大名に
思わせるために、江戸城は「日本一」である必要があったからでつなぁ~
ただ天守閣が残ってほしかったでつなぁ~

というか今は、江戸城というより、皇居の方が一般的になってしまったでつなぁ~
でも大阪城の天守閣は、再建されたし、安土城も再建を望まれてるけど、江戸城は
それほど再建熱がないのも不思議なところではあるでつなぁ~

大和三山

2019-08-18 07:10:29 | 歴史
橿原市を代表する景観であり、万葉集にも詠われてる大和三山。




大和三山は、国の名勝に指定されてるです。
古くから多くの和歌に詠まれた由緒ある景観であるだけでなく、現代でも広く親しまれている点が、
高く評価されているです。

また、大和三山に囲まれた平野部分には、古代の都・藤原京の中心であった藤原宮が造営されてたです。

その際には、大和三山の位置が重要な立地条件になったと考えられているです。
藤原宮のあった場所は、現在、特別史跡藤原宮跡として保存されており、そこから大和三山へ優れた眺望が望めるです。

橿原市にある香具山(かぐやま)、畝傍山(うねびやま)、耳成山(みみなしやま)の三つの山を総称して、「大和三山」呼ぶです。

多武峰山系から延びた尾根が、長い年月の中で浸食され、香具山の部分だけが残ったです。
風土記には天から降ってきたという伝承が残り、大和三山の中で最も神聖視された山。
そこから「天の香具(久)山」とも呼ばれるです。

大和三山の中で最も高い山です。
麓は神武天皇が宮をおいたところとされており、現在は橿原神宮や神武天皇陵の森が、深閑とした雰囲気を湛えているです。
大和三山の中では最もバランスの取れた美しい形をしているです。

ティラノサウルスは俊足

2019-08-06 07:10:29 | 歴史
「逃げろ!もっと速く!」。研究者たちを乗せた車を、ティラノサウルスが猛烈な勢いで
追いかけてくるでつ。

1993年1作目が公開された「ジュラシック・パーク」の一幕でつ。

その後「ティラノサウルスは走れなかった」とする論文が2002年に海外で発表。
大きな注目を集めたでつ。

迫力ある恐竜の姿は単なる空想?
だけど、近年のバイオメカニクス(生体力学)を用いた研究では、ティラノサウルスが車と
競走できるスピードを出せた可能性があるみたい。

恐竜の本当の姿と動きについては、まだまだ活発な議論が続いているでつ。


生体力学を用いてティラノサウルスの走るスピードの上限値を試算したのは、数理生物学を
専門とする神奈川大学で、ティラノサウルスの腰から下の筋骨格モデルを作り、コンピューターの
仮想空間上で走らせるシミュレーションを行ったでつ。

まずは、筋骨格モデルを様々なフォームで走らせて、数千万回のシミュレーションを経て
安定した走りのモデルを選抜。
次に、地面からの衝撃力に筋骨格モデルが持ちこたえられるかどうかを検証。

走る速度が上がると、地面から受ける衝撃力も大きくなるでつ。
骨格が耐えられる衝撃は理論的には重力の約3倍。

この条件に照らし合わせると、秒速14.1メートル(時速約51キロメートル)が限界値。
一連の計算結果から「彼らは秒速10メートル前後で走ることができ、能力的には秒速14.1メートルを出せた
可能性があるでつ。

ティラノサウルスの速さを巡っては、海外でも様々な研究成果が出てるでつ。

02年にはティラノサウルスが走るには片脚だけで体重の43%もの重量の筋肉が必要と試算。
腰から下に8割を超える筋肉が付いているというのは不自然。

よって「速く走ることはできなかった」と考察したこの論文は英科学誌ネイチャーに掲載され、
大きな注目を集めたでつ。

また、17年には英国では異なる手法で生体力学を用いたシミュレーションを行い、最高速度を
時速約28キロメートルと見積もったでつ。

研究者によって結論に幅があるのは、ティラノサウルスの筋肉が持つ筋力の大きさや、脚の運動に関わる
腱の性質などがわからないため。

こうしたティラノサウルスの運動能力は、現在生きている動物たちの運動について研究が進むと正確に推定できる
可能性があるでつ。

恐竜の速さは、私たちが人間を含めた様々な動物たちの動きを理解することでようやく解ける
「最終問題」となるでつ。

だけど意外と早く走りそうな気もするでつなぁ~

北条五代

2019-08-02 07:10:29 | 歴史
戦国時代、小田原城を本拠に関東一円を支配した戦国大名が北条氏(後北条氏とも言う)です。
歴代当主五人は、北条五代と呼ばれているです。




明応4年(1495)、関東で理想の国家を作ろうと、大森氏を退け、北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入ったです。
以後、北条氏は小田原を拠点として、多くの人材を上方から招き、産業を興し、着々と勢力を伸ばしていったです。

二代目氏綱が関東支配の礎を築き、三代目氏康の時代には城下町の形態も整えられ、小田原は関東における政治、経済、産業、
文化の中心として繁栄。
そして、天下統一の機運が高まる中、四代氏政・五代氏直は、豊臣秀吉軍の攻撃に備えて町全体を取り囲む巨大な総構を築いたけど、
天正18年(1590)、約18万の大軍に小田原を包囲され、約100日に及ぶ籠城戦の後、小田原城を開城したです。

伊勢宗瑞(後の初代早雲)は備中荏原庄(岡山県井原市)を知行していた備中伊勢氏の出身。
伊勢宗瑞と名乗り幕府に出仕していたです。

長享元年(1487)以降は駿河(静岡県)の大名今川氏に仕え、明応2年(1493)には、将軍足利義政の甥の茶々丸を
堀越御所から追い伊豆(静岡県)へ進出。

伊豆一国を治める戦国大名となった早雲は、15世紀末期(通説では明応4年(1495))に相模小田原(神奈川県小田原市)へ
進出し、その後相模一国を平定。
伊勢宗瑞は、伊豆討ち入りが戦国時代の始まり、とされるです。
少なくとも一介の役人であった彼が、下克上の端緒として非常に意義のあるもの。
伊豆や相模といった一国を制圧したにもかかわらず守護にはならなかったことから、
最初の戦国大名とされているです。

二代氏綱は早雲の小田原進出後伊豆韮山城に止まった早雲に代わり、小田原城に入ったと見られているです。
本城を小田原城に移し、伊勢から北条への改姓、虎朱印状の創出など、北条氏の基盤を設備した人物。
また、領国を武蔵(東京都・埼玉県)、駿河、下総(千葉県の一部)にまで拡大し、東国の盟主としての地位を確立。

三代氏康は氏綱の後、家督を継承し、大規模な検地を行い、税制改正を実施し、更に家臣の軍役などの役負担を把握するなど、
領国支配の体制を本格的に整えたことで知られているです。

天文15年(1546)には氏康の名を著名にした河越合戦に勝利することで、山内・扇谷の両上杉氏を関東から排除し、
その勢力範囲は上野(群馬県)に拡大。

四代氏政は氏康存命中の永禄3年(1560)に家督を継承。
永禄4年(1561)の上杉謙信、永禄12年(1569)の武田信玄による小田原攻めを退けているです。
氏直に家督を譲った後も、北条氏の最高実力者として君臨。

天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めで開城。

五代氏直は氏政存命中の天正8年(1580)に家督を継承。
天正10年(1582)には、上野、下野(栃木県)方面へ積極的に軍勢を派遣し、北条氏の支配領域は最大に達したです。
だけど、小田原合戦の開城後、高野山へ。

約90年にわたる戦国大名北条氏による関東支配したです。

関東三国志として、武田、上杉、北条と駆け引きとか興味深いです。

NHKの大河ドラマで、なぜかまだ一度も主役やってないのも七不思議なところ…

関東三国志と合わせて大河で、やってほしい主役です。

万葉集。

2019-05-25 07:10:29 | 歴史
万葉集とは、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された、現存するわが国最古の歌集。

全20巻からなり、約4500首の歌が収められているです。
作者層は天皇から農民まで幅広い階層に及び、詠み込まれた土地も東北から九州に至る日本各地に及ぶです。

万葉の歌の詠まれた時代は、仁徳天皇の皇后であった磐姫皇后の歌(巻二の85~89番)と伝えるものがもっとも古い。
万葉時代は、天智天皇や天武天皇の父に当たる629年に即位された舒明天皇以降と考えらるです。

万葉集最後の歌である巻二十の4516番が作られた759年(天平宝字三年)までの、約130年間といえるです。

「万葉集」という書名の意味は、「葉」は「世」すなわち時代の意であり、万世まで伝わるようにと祝賀を込めた命名と考えられているです。


万葉集の編纂、成立の経緯については詳しくは分かってはいないけど、一人の編者によってまとめられたのではなく、
何人かの編者の手が加わり複雑な過程を経て成立したもので、
最終的に大伴家持の手によって20巻にまとめられたのではないかとされているです。

古代は自然を畏怖し、敬い、山には山の神、川には川の神がいると信じていた時代。
万葉の時代はそういった自然に対する畏怖の感情からやがては解放され、自然を自然として讃美するように移行してゆく時代。
人々が自然とともに生きていた時代であり、万葉集には自然が豊かに詠み込まれているです。

山川も万葉人と身近な存在。
飛鳥・藤原宮から平城京に至るまで日本の中心であった奈良盆地の中央を流れる大和川は人々にとって親しい川であり、
人々の暮らしと関わって数多くの歌が残されているです。

和歌の前では身分は問わない、というこの姿勢は世界的にみても特異なもの。
万葉集では五七五七七の短歌が全体の9割を占め、この他に長唄や旋頭歌なども一部収められているです。




大学くらいまでは、FM局が少なかったから、FM-NHK奈良のリクエスト番組聴いてたこともあるでつが、
万葉集には結構馴染みがあるでつなぁ~

だから、新元号の令和はすごく親近感が湧きますなぁ~

源頼朝

2019-04-09 07:10:29 | 歴史
頼朝というと嫉妬深い印象があるけど…




源頼朝は、初めて武士による政権である鎌倉幕府を作った初代鎌倉幕府将軍。
源氏の棟梁源義朝の三男として熱田神宮近くの旗屋町辺りで誕生、北条政子の夫。

母は熱田神宮宮司藤原季範の娘。

頼朝の幼名は「鬼武者」。
義朝の三男として生まれたが源氏の嫡流として育てられた(母が正室の子であった為)。

平治の乱で頼朝は捕らえられ、伊豆の蛭ヶ小島に島流しとなったです。
そんな中で、伊豆の土豪・北条時政の娘・政子と結婚。

治承四年(1180)、頼朝は平家打倒の旗を掲げ、武家政権樹立へのスタートしたです。

木曽の従兄弟・木曾義仲とのライバル争いや、朝廷を牛耳る後白河法皇との確執などがあったですが、
平家を打倒し全国を制覇。
建久三年(1192)に征夷大将軍に任じられ、史上初の武家政権を樹立。

鎌倉の地に有史以来初めて幕府を開き、新しい歴史の幕開けを断行して、武士の棟梁でありながら
その真面目さはまさに偉大な政治家。

頼朝が源氏の嫡男だからなのか,平家に対する反感からなのか,流人時代の頃から頼朝のもとには豪族達の師弟が多く出入りして
いたです。

立場の弱い武士はのちに頼朝が力を持った時の「保険」の意味もあって頼朝と通じ合っていたです。

だから流人とはいっても,頼朝は集まった豪族の息子達を連れて狩りに行くなど,案外自由な生活だったです。

頼朝の身柄を引き受け,監視役だった北条氏は平氏の流れを組む豪族。

だけど頼朝の行動にはだいぶ目をつぶっていたです。
それどころか自分の娘である政子を嫁にしたです。

北条時政は何かがあれば頼朝をうまく利用しようと考えていたです。

だから,自らが決断して山木襲撃の実動部隊になるところまでは予想していなかったです。

常識で考えれば山木襲撃は成功しても,「そのあとが大変だ」ということは容易に予測のつくこと。

なぜなら,まだ勢力の弱い頼朝を討ち取れば,大きな恩賞がもらえるから。

大庭景親をはじめいくつかの豪族はそうした行動を取ったです。
大庭景親には源氏に対する不信感もあったですが、そこは…

時政たち北条氏は一族をあげて甲斐の武田源氏,相模の大豪族三浦義明,房総の有力者千葉の介常胤と連絡を取りあうです。

石橋山で破れたあとも,この関係は続き,頼朝が安房(千葉県)に逃げたのちはふたたび千葉氏を中心に豪族達をまとめていったです。

その中心だったのが千葉の介常胤。
彼は頼朝に「鎌倉」に行くことをすすめ,上総の介広常の性格を読み抜いて頼朝軍に参加させることに成功。

だから頼朝は常胤を「父とも思う」と言ったです。
それ以外にも豪族の中から優秀な人を頼朝はブレーンに加えていったです。

頼朝は本格的な政権を作り上げていくために「大江広元」「三好康信」といった法律や事務能力にたけた人を京都から呼び寄せて,
ブレーンに加えていくです。

こうして頼朝の回りは優秀な人間で固められていったです。
優秀な人間には優秀な人間が集まることの証。


このように頼朝は人材に恵まれ,関東の武士達の支持も得て鎌倉に武士の利益を守る組織を作るです。

これが後世に言われる鎌倉幕府。

頼朝は主従関係を持った御家人達に,差別すること無く土地争いの裁定を行ったり恩賞を与えているです。

また,領地も狭く家来も少ない小さな御家人でも,顔を覚え性格までよく知っていたと言われているです。

御家人にしてみれば大変に信頼できる人物だったです。

頼朝が源氏の嫡男というだけでは,とても豪族たちの支持を得ることはできません。

頼朝は信頼できる人の言葉を聞き「豪族=武士」が何を望んでいるかを理解して行動したです。
武士の望みとは,まず自分の領地を認めて守ってもらうこと。

次に中央の役人に必要以上の税を払わされたり,ただ働きさせられないこと。

命をかけて戦った戦争の恩賞をもらうこと。

頼朝はこれらの事を次々と実行したです。
口先だけでなく「確かに実行することによって信頼を得ていくことが大切だ」ということを頼朝は教えてくれてるです。

この本を読んでると今までの頼朝の印象が変わったです。
義経は戦は天才だけど、戦略は頼朝が上だったということ。

北条氏康の家臣団を読んで思ったです。

2019-03-13 07:10:29 | 歴史
関東地方一円の広い範囲を支配下とし、戦国時代最大の巨城 「小田原城」 に居を構えていたのがこの「北条家」。

北条家は戦国時代の歴史の流れにおいて、それほど大きな出来事には関わっていなかったため、ややマイナーな感があるけど…
広い領土を持ち、上杉家 や 武田家 などの強豪大名に何度も進攻されながらもそれを追い返した、戦国時代有数の大名であることは
間違いです。

戦国大名としての北条家の始まりは、「戦国時代の先駆者」と言われる「北条早雲」から始まります。

彼は最初、今川家の家臣としてその地位を高め、領土を得ると、伊豆半島に進攻を開始してそこを支配下に収めるです。
さらに小田原(現在の神奈川県)に進攻して制圧、拠点とし、さらに周辺に勢力を広げていったです。

早雲の後、さらにその後を継いだ「北条氏綱」が関東に進出、そしてその子「北条氏康」も、後を継ぐと関東一帯を支配下とするために勢力拡大したです。

北条氏康 は 「武田信玄」 や 「上杉謙信」 に比べるとやや政治向きな人で、「武闘派」と言うイメージはあまりない感じ。
だけど、実際には生涯三十六度の合戦で一度も敵に背を見せず、受けた傷は全て向こう傷だったと言われている勇敢な武人。




1545 年には、「関東管領」という関東地方を治める役職を持っていた「山内上杉家(上杉謙信の上杉家とは別)」が、近隣の同盟国や今川家と共に
8万の大軍で 北条家 に進攻して来またですが、北条氏康 は8千の精鋭を率いて夜襲をかけ、この 10 倍の敵軍を撃退したです。

この戦いは「川越の戦い」と呼ばれ、北条家の武名を大きく上げる戦いになったです。
同時にこの戦いによって、北条家は関東一帯の支配を確立したです。

その一方で氏康は政治家としても非常に優秀であり、他の大名家に先駆けて「検地(土地を調べて税金などを決める事)」を実施し、
通貨を統一し、経済改革に努めたです。

北条家には 「家臣や民を慈しみ、人心を掌握し、戦いに勝っても思慮深くあるように」 という家訓が代々伝わっており、北条氏康 の統治は、
まさにそれを表したものであったと言えるです。

特に北条家の行政機構は非常に近代的であり、他の大名家よりも進んでいた事で有名。
その後、北条家 は 今川家・武田家 と「三国同盟」を締結。

しかしこの後、北条家は領土を守るため防戦一方の展開となって行くです。

1561年、越後の「上杉謙信」が関東管領職を譲られ、役職通りに関東を支配するため、北条家に毎年の様に進攻してきたです。

加えて、長年敵対していた房総半島の「里見家」との戦いも続き、三国同盟が解消されると、武田家 も進攻してくるようになったです。

かつて撃退した 「山内上杉家」 なども小勢力ながら北条家への敵対行為を続けており、まさに四方から外敵の進攻を受けるような状態になったです。

そんな中、北条氏康 は小田原の城の改築を繰り返し、それを難攻不落の巨城へと変えて行くです。

小田原城の改修は以前から行われ続けていたですが、戦いが激しくなるにつれてその必要性も増していき、こうして天下の巨城 「小田原城」が
誕生したです。
以後、上杉家の攻撃を受け流しつつ、里見家との抗争を続けたです。

その後は、氏政、さらに 氏直 が後を継いだです。

北条家 は 上杉家 などから度重なる進攻を受け続けたですが、巨城 小田原城での篭城戦で、それらの進攻を防いだです。
こうして、以後も 20 年近く 北条家 は外敵からの侵入を阻み、関東を支配し続けたですが・・・

その間に天下は動き続け、日本はほぼ「豊臣秀吉」に支配される事となったです。

この北条家を支配下に置かないと天下統一がならなかったことを考えると北条家の存在は大きいです。

だけど、北条氏康がまだ一度もNHKの大河ドラマ主役をやってないのは、すごく不思議だなぁ~
でも、そろそろやりそうな雰囲気ありそうだなぁ~