先祖が相州前川邑(神奈川県小田原市前川)の出身で、江戸時代に「みちのくの紀伊国屋文左衛門」と称された代々の前川善兵衛(以下、前川善兵衛さん)について、今回(2013年6月21日)の岩手県大槌町・山田町の訪問で得られたことを紹介します。
前川善兵衛さんを知らない方がほとんどでしょうから、先ず前川善兵衛さんの先祖の出身、前川善兵衛さんはどんな人か、前川善兵衛さんの歴代の墓を訪ねて、出身を示す前川氏系譜(水産庁・水産資料館蔵)他、最後に史料による若干の考察を加えます。
『前川善兵衛とその時代~荒海を乗り越え・・・~ 大槌町教育委員会発行』は前川善兵衛さんの先祖の出身を次のように記述しています
「みちのくの紀伊国屋文左衛門とうたわれた吉里吉里善兵衛こと前川善兵衛は、三都(江戸・大
坂・京都)に名の聞こえたといわれる江戸時代の豪商である。
先祖は、相模国(神奈川県)の出身で小田原北条氏に仕えていたという。天正18年(1950)豊臣
秀吉の小田原征伐があり、落城を知ると奥州気仙沼に逃れやがて閉伊郡吉里吉里浦に移り、元の
清水姓を名乗ることをはばかりその出である前川村の前川姓を名乗るようになった。」
次に前川善兵衛さんはどんな人だったかは、『大槌町町勢要覧 2008 P30』を引用します。
「海の豪商 前川善兵衛 南部藩最大の豪商は大槌の商人
吉里吉里善兵衛こと前川善兵衛は、初代甚右衛門、二代目善兵衛となりこれ以降善兵衛を襲名
しています。初代甚右衛門は元禄年代に五十石積の船を建造、常陸の貿易商白土次郎左衛門と取
り組み、閉伊海岸の産物を集荷、他領に販売しています。
その後、南部藩の特権商人となった前川家はさらに漁業と海運業で財を成していきます。大型
船を使った海上輸送により大量の海産物を江戸や大阪に送り込み巨利を得ます。いりこ、干しア
ワビなどの長崎俵物、鰹節、塩鰹、干しスルメ、干し赤魚などや海藻、さらに米穀類、木材など
手広く扱い、三代目善兵衛助友の頃には、他領にも名声が知れ渡るほど隆盛を極めていました。
また、南部藩の財政を陰で支えていたのも前川家でした。ニ代目善兵衛から引き続き三代目助
友親子が南部藩に貸したお金は千七百両にもなっていました。さらに、宝暦三(一七五三)年、
幕府の命令で日光東照宮を修復することにより、南部藩は七万両を負担しなければなりませんで
した。藩は、藩内の富豪や士分にその負担金を割り当て、盛岡城下の百十六人の商人が合計四千
八百両を負担したのに対し、四代目善兵衛富昌が一人で拠出した金額は、藩米を引き当てたとは
言え、なんと七千五百両もの大金でした。藩内最大の豪商と称されるゆえんはこのあたりからも
垣間見ることができます。
三陸の豊富な海産資源が商品価値を上げることにより、当初は小規模な漁法でしかなかったも
のが、海運の進歩により大量に搬出されるようになると、漁法、漁場の開発や、船の大型化など
の改良が進んでいきました。また、販路が関東や江戸を主体とすることから、遠い市場に送るた
めには塩蔵品に加工する必要があり、塩の需要が急激に増加、製塩業の改良も促されていきます。
江戸時代に、「みちのくの紀伊国屋文左衛門」と称された代々前川善兵衛が残した水産・海運
業への功績は多大なものがあり、今でも大槌の誇りとして語り継がれています。」
また、『前川善兵衛とその時代~荒海を乗り越え・・・~ 大槌町教育委員会発行』は次のように触れています。
「一方宝暦5年の大飢饉により、翌年大槌通では餓死者が1,094人あったとされ、このとき、私蔵
を開き大槌・吉里吉里両村の村民や往来の人々延べ32,112人に粥を食べさせたという記録が残
っている。南部藩への届出によるとその石高は53石3斗7升に上ったという。宝暦8年、飢餓亡
者の3回忌にあたり「赤沼」に法華経一字一石経塚を建立している。」
JR吉里吉里駅近くの小高い丘を上っていくと前川善兵衛さん八代を含む前川一族の墓が並んでいます。前川善兵衛さん八代の墓には家紋は無く、その他の墓のいくつかには前川家の家紋である丸内二引の家紋の入った墓がありました。
『吉里吉里善兵衛 歴代の墓』説明板
江戸時代、南部藩最大の海産商として隆盛を極めた前川一族は代々善兵衛を名乗り、関東俵物の
開発による三陸の水産業発展に偉大な業績をおさめた。
三陸海岸の海産物は、代々の善兵衛の手により関東平野に送られ食料としての市場を開拓すると
ともに、農業生産を倍にする魚粕としてその商品価値が高められた。
宝暦年間、南部藩は幕府より命ぜられた日光山修復のための御用金上納を前川家に課し、四代富昌
は七千両もの金子を才覚した。
宝暦の大飢饉には村内飢民の救済に当たり、その数五三石三斗七升 三二、一一二人に達した。
幾多の業績は、数多くの伝承としても後世に伝えられ、吉里吉里郷の人々には永遠に忘れ得ぬ国
の光である。
初代 前川甚右エ門 富久 ~1677年(延宝5年)
二代 前川善兵衛 富永 1638年~1709年(宝永6年)
三代 前川善兵衛 助友 1676年~1746年(延享3年)
四代 前川善兵衛 富昌 1691年~1763年(宝暦13年)
五代 前川善兵衛 富能 1723年~1801年(享和元年)
六代、七代、八代は省略
昭和五十九年 大槌町観光協会
初代 富久 徳永軒眼光覚心居士
二代 富永 后輝軒大圓道鏡居士
三代 助友 清栄軒悦翁怡顔居士
四代 富昌 総豊軒昌運寿翁居士
五代 富能 祥運軒義山松翁居士
ここまでで前川善兵衛さんの偉業の紹介をしましたが、実はもう一つの偉業があります。それは文書を残したことであり、『大槌町史上巻 昭和41年発行 P239』は次のように伝えています。
「江戸時代に南部藩の御用商人として富豪を誇った吉里吉里の前川一族は、もと小田原の北条氏
の家臣であった伝承されてきた。前川家は漁業と貿易で大を成し数代全盛を極めただけに、古文
書の類も地方きっての豊富なものがあり、その種類も多岐にわたっていて大東亜戦争時には戦禍
を怖れてそれを箱に入れて地中に埋めて保存につとめたという。しかし、戦後その文書の大半は
水産資料として水産庁に懇請され売却し、現在同家に蔵されるものはその一部に過ぎない。」
その文書の中に前川氏の系図が数種あってどれも類似の内容を示すとされ、その中の三種の出身を示す個所が『大槌町史上巻 昭和41年発行 P239~P242』にあげられています。
一、 前川氏系譜 水産庁・水産資料館蔵
姓源家紋 丸内二引
清水右近富義長子
上野助富英男
富久 前川甚衛門――――――※
其先仕干北条家領百五十貫住相州前川邑父上野助富英有戦功此時四方軍務不暇国用不饒関
八州之豪家納金米於小田原頗見免軍役上野助亦奉所貯之粮米二千觧併金銭若干誓不願免軍
務於平氏康公感其志賜豆州下田邑且使主津方事終遷豆州下田邑住居多年也。
天正十八年庚寅四月三日豊臣氏功小田原及落城之聞回船而到奥州気仙浦隠本氏改前川
貯之財借漁猟之者大淂利富英没干気仙浦其後有故移閉伊郡吉里々浦以貸殖為業。
※富永 興墓之祖 前川善兵衛
於吉里々浦貸殖益栄蒙 領主御用度々也有御感宝永三戌正月廿七日被免回船二百之無役御
証文被下
宝永六丑七月四日卒 年七十二葬干
号后輝軒大円道鏡居士
二、 前川○系図 大槌町・吉里吉里前川謙吉氏蔵
大祖富久 前川甚右衛門――――――※
是処出相州前河邑本氏清水仕北条氏康公以多有金銀之畜補佐助軍用以在賜豆州下田邑称清
水上野助富英天正十八庚寅夏四月三日聞小田原落城隠出古邑隠奥州吉利邑矣以来姑憚表本
氏以本国ノ邑名通用之。
※富永 善兵衛
富永興墓之祖也
○宝永三戌正月廿七日回船二百石之御免役御証文頂戴
○富永享年七十二宝永六丑七月四日卒謚 后輝軒大円道鏡居士
三、 当家覚書帳 大槌町・吉里吉里前川謙吉氏蔵
伊豆下田城主清水右近富義長子上野助 富英男後 前川甚右衛
其先仕干北条家領百五十貫住相州前川邑父上野助富英有戦功此時四方軍務不暇国用不饒関
八州之豪家納金米於小田原頗見免軍役上野助亦奉所貯之粮米二千觧併金銭若干誓不願免軍
務於平氏康公感其志賜豆州下田邑且使主津方事終遷豆州下田邑住居多年也天正十八年庚寅
四月三日豊臣氏功小田原及落城之聞回船而到奥州気仙浦隠本氏改前川貯之財借漁猟之
者大淂利富英没干気仙浦其後有故移閉伊郡吉里吉里浦以貸殖為業。
前川善兵衛富永
於吉里吉里浦貸殖益栄蒙
領主御用度々也有御感宝永三戌正月廿七日被免回船二百石之無役御証文被下
宝永六丑七月四日卒 享年七十二葬干
后輝軒大円道鏡居士
(考察)
『大槌町史上巻 昭和41年発行 P245』で書かれているように「文書は後世に書かれたもので伝承するところに拠ったであろう」こと、そして/あるいは、伝承に内包されている意識(そう語られる背景に時代の情勢や置かれた環境もあること)、を考慮する必要があると思います。
こうした中で、
「天正十八年庚寅四月三日豊臣氏功小田原及落城之聞回船而到奥州気仙浦」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「天正十八庚寅夏四月三日聞小田原落城隠出古邑隠奥州吉利邑矣」(前川○系図)は、まさに小田原城が豊臣軍に包囲された日と一致し、このことを知っていることを意味します。
また、「家領百五十貫・・・氏康公感其志賜豆州下田邑」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「氏康公・・・賜豆州下田邑」(前川○系図)は、史料『北条氏康判物写(新井氏所蔵文書・395)』の「天文20 7 25 清水太郎左衛門尉康英(上野介・上野入道)に伊豆国宇土金を借金返済のために宛行い、この地は瑞泉庵に与え所領役は康英が務めた」ことを指すと思われます。なお『小田原衆所領役帳』によれば「豆州宇土金百廿貫文」です。
「清水右近富義長子」(前川氏系譜)(当家覚書帳)とあり。史料『清水康英屋敷買券写(新井氏所蔵文書・405)』の「天文20 12 23 清水太郎左衛門尉康英、瑞泉庵に三島の屋敷を四五貫文で売り渡す、孫三郎の代の天文十五年十二月に借金をしたとあり」、これから清水綱吉(新七郎・太郎左衛門尉・上野介)の通称は孫三郎であり、康英の父親と分かる。富義と綱吉、二字目の読みが一致するのは偶然でしょうか?ちなみに「綱吉」は北条氏綱の偏諱です。
以上のことは「父上野助富英」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「清水上野助富英」(前川○系図)「伊豆下田城主清水上野助富英」(当家覚書帳)が清水上野介康英であるとするのが合理的ではと考えます。
ただし「住相州前川邑」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「出相州前河邑」(前川○系図)が清水康英とは一致せず、清水氏は伊豆国加納矢崎城を本拠としていたことから、出は現在の静岡県南伊豆町ではとの反論があるでしょう。
また、史料『安国寺恵瓊・脇坂安治連署起請文(高橋健二氏所蔵文書・4539)』は「天正18 4 23 下田城に籠城中の清水康英と高橋郷左衛門尉に城を開いて降伏すれば城兵は助けると誓った」とあることから、小田原落城を聞いて隠れ出たこととは一致しません。
さらに、『三養院過去帳』によると清水康英は天正19 6 3(2?) に死去とあります。
このことに対しては、前川邑は富久の古邑で、父である清水康英は奥州に行っていない、という考えもあると思います。
史料『北条氏康判物写(新井氏所蔵文書・395)』の「天文20 7 25 清水太郎左衛門尉康英(上野介・上野入道)に伊豆国宇土金を借金返済のために宛行い、この地は瑞泉庵に与え所領役は康英が務めた」には「清水太郎左衛門尉康英(花押)」とあり、北条氏康の偏諱と思われ、これから察するに清水康英は1590年(天正18)では50代です。
富久は『吉里吉里善兵衛 歴代の墓』によると1677年(延宝5)に死去となっており、87歳以上の生涯でしたら前述の考えも成り立ちます。「隠本氏改前川」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「姑憚表本氏以本国ノ邑名通用之」(前川○系図)も、矛盾はなく合理的と考えます。
最後になりますが、史料は『下山治久 後北条氏家臣団人名辞典 東京堂出版 2006年9月』から引用しました。付録として前川善兵衛さんの先祖が関係した/話したであろうと思われる人物の史料を年表にしましたので参考にしてください。
また、前川善兵衛さんについては『加藤秀俊ほか編纂 ふるさとの人と知恵 岩手(人づくり風土記3 全国の伝承 江戸時代 聞き書きによる知恵シリーズ) 農山漁村文化協会 1988年6月』の「第ニ章 生業の振興と継承の中で 3 前川善兵衛―三陸の海から富を築いた企業家(上閉伊)」としてP108~P115に収録されており、筆者は佐々木祐子氏(盛岡市子ども科学館)です。この本は親と子で読める「ふるさとの人と知恵」の本で、ルビも多くふられています。
その中で、前川善兵衛さんの先祖の出身については、
P108「☆豊臣秀吉の小田原攻めに遇った北条氏の家臣前川甚右衛門富久は、小田原城落城後奥州
吉里吉里村に移り住みました。海の資源の豊富な三陸海岸を地盤にして回船業を営み、関東・関
西・九州を股にかけて巨大な富を築きました。吉里吉里善兵衛さんで知られています。」
P108「吉里吉里善兵衛の名で知られる、前川善兵衛の先祖は、相模国(神奈川県)前川村の出身
で北条氏に仕えて、清水の姓を名乗り下田村を与えられていましたが、豊臣秀吉によって小田原
城が落城し北条氏が滅亡した後、奥州(東北地方)に逃れたといわれています。
やがて吉里吉里村(大槌町吉里吉里)で漁業や回船業を営み、ふる里前川村にちなむ前川姓を名
乗って、巨大な富を築きました。
前川氏に富をもたらしたもの、それは三陸の豊かな海でした。」
P110「小田原落城後、気仙(岩手県気仙郡)に逃れ、やがて吉里吉里浦に居を定めた初代前川甚
右衛門富久は漁業で財をたくわえていきました。しかし藩の記録に名を止めるようになったのは、
二代目前川善兵衛富永の頃からです。」
と記述されており、清水康英が天正19年6月に死去したことを考慮しての記述と思われますが、「北条氏の家臣前川甚右衛門富久」としているのは執筆の1988年では富久の死去した年がまだ不明だったからでしょうか。
『永岡治 伊豆水軍物語 中央公論社 1982年1月』も古くに書かれた本で清水康英について次のように記述しています。
「下田にとめおかれた長宗我部元親は、一時もはやく下田城を落として主戦場である小田原へ行
きたかった。そこで元親は謀計をめぐらし、清水康英に宛てて「小田原城はすでに落城し、いま
や抵抗しているのは貴殿だけである。この上は戦うのも無益であろう。貴殿の武勇には、元親も
ほとほと感服しているので、関白殿下の御前にもよしなに取りはからう所存である。ここはひと
まず城を開け渡したらどうか」と、矢文を送った。
情報も全く途絶え、孤立籠城していた康英らは、この文面にひっかかってしまった。小田原が落
ちた上はやむなしと観念して、康英は城を出て、指定された地である対岸の武ヶ浜に出向いた。
和議が結ばれ、下田城は長宗我部水軍に接収されたが、開城なるや、元親は態度を豹変して康英
を敗将として扱った。下田城が豊臣方の手に落ちたのは、四月七日は八日ごろだったといわれて
いる。(康英はいったん駿府に落ちのびたが、その後ふたたび南伊豆にもどり、河津の筏場に隠棲
して生涯を終わったと伝えられている)。」
史料『安国寺恵瓊・脇坂安治連署起請文(高橋健二氏所蔵文書・4539)』の「天正18 4 23 下田城に籠城中の清水康英と高橋郷左衛門尉に城を開いて降伏すれば城兵は助けると誓った」を知り得てなかたこと、および清水康英が天正19年6月に死去したことを知り得てなかったことで、この記述になったと思われます。
歴史学者ではなく、伊豆をこよなく愛する在野の一研究者に過ぎない、と述べられた著者は、あとがきで、
「軍記物語に記述されたところを拾い集め、これに数少ない確定史料をつなぎ合わせて考証して
いく方法をとった。」
「すべてが実像とはいえないかもしれないが、けっして虚像ではないことを確信している。」
と書かれています。
伝承には内包されている意識があり、前川善兵衛さんの先祖の出身の伝承も心の声として信頼されるものと私は思います。
神奈川県小田原市前川の海岸から小田原城方面を望む
■ 前川善兵衛さんの先祖が関係したと思われる人物の史料年表
西暦 和暦年月日事項/史料名
―― ―― 北条早雲、伊豆国下田郷を朝比奈知明、子々孫々永代他の妨げあるべからず、今、知明が孫朝比奈兵庫助、下田を知行す/北条五代記
1515年 永正12 氏康誕生
1532年 天文4 清水康英誕生?
1540年 天文9 氏綱死去
1541年 天文10 6 6 奥州岩城の人と荷物を諸廻船中と右衛門尉(朝比奈右衛門尉・綱堯・知明)に輸送させた/北条家朱印状(白土文書・181)
1551年 天文20 7 25 清水太郎左衛門尉康英(上野介・上野入道)に伊豆国宇土金を借金返済のために宛行い、この地は瑞泉庵に与え所領役は康英が務めた/北条氏康判物写(新井氏所蔵文書・395)
「清水太郎左衛門尉康英(花押)」とあり、北条氏康の偏諱か
1551年 天文20 8 26 清水康英に伊豆国子浦村も宛行い瑞泉庵に渡す事とした/北条家朱印状写(新井氏所蔵文書・396)
1551年 天文20 12 23 清水太郎左衛門尉康英、瑞泉庵に三島の屋敷を四五貫文で売り渡す、孫三郎の代の天文十五年十二月に借金をしたとあり/清水康英屋敷買券写(新井氏所蔵文書・405)
清水綱吉(新七郎・太郎左衛門尉・上野介)の通称は孫三郎であり、康英の父親と分かる
1557年 弘治3 11 15 国府津の村野惣右衛門(〔村野〕相模国西郡国府津の地侍)に北条氏康夫人の御菜浦である国府津に魚介類の納入について規定し、浦賀に詰める船方役一人分の年間半分を赦免した/北条家朱印状写(相州文書・559)
1559年 永禄2 朝比奈孫太郎(〔朝比奈〕早くから今川氏に属す)、伊豆国下田四五貫文、同国須崎・柿崎ニ七貫文、同本郷国衙分七五貫文、同所鈴木屋敷分三貫文、相模国三戸六〇貫文、合計ニ一〇貫文の知行役/小田原衆所領役帳
1559年 永禄2 清水太郎左衛門(〔清水〕伊豆国加納矢崎城を本拠)、豆州加納三百七拾貫文、豆州熊坂百拾貫文、豆州修善寺五拾貫文、この外三島周辺にも知行あり、ほか豆州宇土金百廿貫文、豆州子浦拾弐貫文、の合計八ニ九貫文/小田原衆所領役帳
1559年 永禄2 清水小太郎(吉広・右京亮・能登守)、豆州河津南禅寺分卅貫文、同所内開き分下さる拾五貫文、合計知行役高四五貫文/小田原衆所領役帳
1559年 永禄2 秩父次郎左衛門(〔秩父〕伊豆国間宮を本拠とした地侍)、中郡津古久百廿八貫文、豆州間宮弐百貫文、豆州江間九十貫文、同所八十八貫文、豆州白浜七十弐貫文、の合計知行役高五七八貫文/小田原衆所領役帳
1559年 永禄2 富永弥四郎(〔富永〕もと三河国設楽郡の御家人、のち伊豆国戸肥郷の国衆)、豆州西戸肥千貫文、西郡飯田内上総分百八貫文、中郡大槻上下百貫文、この外に江戸牛嶋四ヶ村百五拾貫文など合計一七五貫文、都合知行高は一三八三貫文/小田原衆所領役帳
1560年 永禄3 2 23 国府津の船主の宗右衛門(村野惣右衛門)に北条氏康夫人の御菜浦である国府津に魚介類の御肴銭納入について現物納と規定し魚類は活きの良い内に納入し、小田原城の由比千菊・清五郎左衛門に渡す事とし、魚介類の単価計算明示した/北条家朱印状写(相州文書・622)
1566年 永禄9 6 10 国府津の小代官・舟持中に今晩に火急な魚介類の納入を命じ八つ以前に小田原城に魚を届け台所奉行の久保孫兵衛に渡し代金を受け取ることと命じた、舟持主が村野惣右衛門/北条氏康朱印状写(相州文書・953)
1571年 元亀2 氏康死去
1584年 天正12 5 16 国府津の村野四郎左衛門(村野惣右衛門?)に来る九月二十日からの御魚銭は毎月二□□文と定め魚介類をもって小田原城の金井に渡すこととした/北条氏政カ朱印状写(相州文書・1484)
1584年 天正12 12 7 北関東方面に出陣する準備を清水太郎左衛門尉(清水政勝・新七郎・太郎左衛門尉・意笑入道)に命じた/北条家朱印状(平岡文雄氏所蔵文書・2745)
1584年 天正12 12 7 八木和泉守(〔八木〕伊豆国子浦の地侍、北条氏伊豆水軍)に伊豆国宇土金・子浦の知行について八木三郎兵衛・八木又三郎の与奪の文書や清水康英からの買得証文を検証した結果として八木和泉守に安堵した/北条家朱印状(松崎新一氏所蔵文書・3562)
1586年 天正14 7 15 佐竹義重の軍勢が下野国敵壬生城に進撃したので出陣する事となり、清水上野入道と太郎左衛門に陣触れが発せられた/北条家朱印状写(伊豆順行記・2970)
1588年 天正16 清水康英、下田城の城主に命ぜられる
1589年 天正17 12 7 八木和泉守に宇土金・子浦を八木三郎兵衛・同又三郎に天正十四年に与えた一札と清水康英よりの一筆の通り安堵した/北条家朱印状(松崎進一氏所蔵文書・3562)
1589年 天正17 12 19 韮山城城将に就任した北条氏規に韮山城の曲輪割りの指示等を与え、清水からの書立には戦いの準備をしない者がいると述べ、康英はこの頃には下田城に入り、北条氏規の指南に属した/北条氏政書状写(大竹文書・3580)
1590年 天正18 1 9 吉良氏朝の家臣高橋郷左衛門尉を小田原城からの検使として下田城に遣わし、清水康英と相談して戦術をよく打ち合わせる事とした/北条氏直半物(高橋健二氏所蔵文書・3611)
1590年 天正18 1 12 康英に下田城への軍勢の配備については、諸方面へ兵力を配備するために思う様にはできないが、後々の事を考慮して配置の心配りをしてほしいと依頼した/北条氏政書状(清水昭一郎氏所蔵文書・3612)
1590年 天正18 1 17 英吉(清水英吉・又兵衛・淡路守)の妻子を小田原城に召し寄せとした/清水康英書状(清水惣一氏所蔵文書・3621)
1590年 天正18 2 12 宗悦、(清水淡路守英吉に)小田原より浦伝いに下田迄の船持中に船一隻を出すことを命じ清水衆八木某を下田まで漕ぎ届けさせた/北条家朱印状写(新井氏所蔵文書・3647)
1590年 天正18 4 2 豊臣軍、小田原城下へ
1590年 天正18 4 3 小田原城、豊臣軍に包囲される
1590年 天正18 4 23 下田城に籠城中の清水康英と高橋郷左衛門尉に城を開いて降伏すれば城兵は助けると誓った/安国寺恵瓊・脇坂安治連署起請文(高橋健二氏所蔵文書・4539)
1590年 天正18 5 3 上野入道康英、下田城を出て林際寺に謹慎する時に高橋丹波守等が従ってくれた事に謝礼を述べ、五〇日間の籠城の苦労をいとうた/清水康英判物(高橋清氏所蔵文書・3728)
1590年 天正18 7 5 小田原城開城
1590年 天正18 7 11 氏政死去
1590年 天正18 7 21 氏直が高野山に向かうについて徳川家康から便宜を計ってもらう内諾を得ているので朝比奈兵衛尉(右衛門尉)に相談して事を運ぶように横山文左衛門に伝えている/北条氏規朱印状写(判物証文写北条・3934)
1591年 天正19 6 3(2?) 清水康英死去/三養院過去帳
1591年 天正19 11 4 氏直死去
参考文献: 下山治久 後北条氏家臣団人名辞典 東京堂出版 2006年9月
(小貝眞)