ブリの森づくりプロジェクト  

~森の再生からブリの来るまちへ~  小田原市無尽蔵・環境(エコ)シティ  ブリの森づくりプロジェクト 

岩手県山田町の漁業~メインの牡蠣の養殖が

2013-08-05 16:22:26 | ブリ漁絵馬~忘れられた漁業史を探る

山田町~三陸やまだ漁業協同組合 参事 鈴木雄寿さん

三陸やまだ漁業協同組合URL http://www.jf-sanrikuyamada.jp

岩手県山田町の三陸やまだ漁業協同組合参事の鈴木雄寿さんにお話を伺いました。(2013年6月21日)


現在組合で使っているこのビルの2階だけがほとんど津波の被害も無く奇跡的に残ったというお話をお聞きした後、


川島「鈴木さんはお父さんとかも漁師さんですか?」
鈴木さん「漁師です。今はもう80過ぎてましたので、前は牡蠣や帆立の養殖漁業をしていたのですけども、震災前は年とったので鮑とか雲丹の磯漁に延々行ってますね。」
川島「磯漁にお父さん行かれているのですか?今でも?」
鈴木さん「父は82です。震災前は磯漁をしながら遊漁船をやっていたのですけれども、船も流されちゃいましてそれも駄目になって、震災後どうすると聞いたところ、遊漁船はやらなくて磯漁だけでもやりたいと小さい船を買いまして、それで一生懸命やっています。」

小貝「今、山田町は震災前と比べて漁船の数は戻ってきているのですか?」
鈴木さん「うちの組合で1300隻ぐらいありました。養殖用の大きい船とかそれと磯漁の小さい船とか一人で二隻とか持ってました。組合員が震災前は1100人ぐらいいました。
平成21年の10月に200~300人の組合4つが合併して新しい漁協となりました。今現在は700隻ぐらいまで復旧しました。700隻でほとんど飽和状態です。これを機に止めた方もいるんですよ。特に70歳ぐらいの後半の方とか、もうできないとのことで廃業しました。漁業者も震災で80人ぐらい亡くなりまして、震災後にも30人ぐらいは亡くなっています。お年寄り中心ですね。震災前いろいろお年を召した方でも一生懸命漁業をやっている時は元気だったんですけど、いざ廃業して仮設住宅でボーっとしていれば元気がなくなりますよね。」

小貝「山田町の魚の種類は?」
鈴木さん「うちの組合で一番のメインは牡蠣、帆立の養殖業です。海の十和田湖と言われるように山田湾は入口が狭くて中が広いので養殖に適しているのです。一年中海が荒れないんです。その傍らで漁船漁業者もいます。イカ釣り、秋刀魚、鱈、この辺がメインですね。」
小貝「小田原でかつて獲れていた鰤は獲れますか?」
鈴木さん「たまに定置に入るぐらいですかね。定置は三つ経営してまして、定置の場合は地先があって地先の右と左で入るものが違います。距離的にはそんなに離れていなくても。不思議なものですね。定置の一番の収入源は秋鮭なんです。秋鮭が水揚げの7割ぐらいを占めます。9月から1月ごろまで獲れます。」

小貝「さっぱ船(小型の磯船)ですか定置をやっている人ではない人が小田原に来ていたと先ほど伺ってきたのですが、定置をやっている人も2月からは小田原に応援に来れますね。」




小貝「まだ決壊した防潮堤が直っていないですね。」
鈴木さん「この防潮堤は全て取り壊すのです。取り壊して新たに9.7mの防潮堤を造ります。今の防潮堤が6.3mでしたか。前回の津波には耐えられるくらいの高さになります。海が見えなくなり、景観が悪くなりますけれども、人命が優先だろうということでした。この辺はもう居住できない区域になります。防潮堤のすぐ後ろは居住できません。今の国道から山側の方を3mぐらいかさ上げしてそっちからが居住地になります。この辺は商工業用地ということで、倉庫なり作業場になります。漁師もそちらに住みます。元の場所に住みたいという人もいるんですが、ほとんどの方がやっぱり高台が良いということでした。地震があればすぐ津波が来ることになるから、すぐ逃げたりしなければならない、高台にいれば地震があっても家が大丈夫であれば、とりあえずは落ち着いていられますからね。」

川島「鈴木さんは組合長さんですか?」
鈴木さん「私は職員の一番上にはなりますけど、組合長ではありません。組合長は役員になります、役員は16名いまして、組合長は生駒と言います。」
川島「40代なんですか?」
鈴木さん「私ともう一人が唯一51です。ほかは40代30台の人です。」
川島「いいですね若い方がやってられて。」
鈴木さん「漁業での収入が減少してきましたので、職員数も減っていますね。昔は鮭もそうでしたけど定置で年間5億獲ったんですよ。今それが1億5千から2億獲れればいいくらいで。」
川島「みんな都心の方に出していたのですか?東京方面に。」
鈴木さん「ええそうです、東京方面に全部出していました。でやっぱり鮭は単価が下がってきて、最終的には収入が厳しくなってくれば、入ってくる側が少なくなれば出すほうも減らさなければならなくなり、経費の削減が迫られて、ある程度年になれば退職していきます。」
川島「漁師さん意外とお金になったお仕事なんですねえ。」
鈴木さん「なりました。お金になりましたよ。漁師さんは大変お金持ちで、町の飲み屋さんでも漁師さんで潤っていましたもの。震災直前は景気が悪くなってきて、飲み屋さんに行っても一回入ってしまえば貸切の状態で、簡単に出れなくて気を使ったものです。昔はもう入れない状態で、混んでて。」

川島「大槌町の方だと漁協が倒産して新たにまた新漁協が出来たりしているけど、こちらはそういうことは大丈夫だったわけですね。」
鈴木さん「本当は厳しかったのですよ、うちのほうでも。倒産するような状況は最悪の状態ですので、それだけはとりあえずは避けたいということです。組合員も多いですし、組合員の要望に応えなければいけなかったですし、要望に応えるためにはお金を出さなくてはいけないんですよね。資金を用立てるのにかなり苦労しまして、事業導入したりいろんな現金を頂いたりして、やっととりあえずは漁業者の希望は叶えました。養殖施設は整えたのですが、これからは漁港の整備も終わってないですが漁業者さんの作業場を建てなければならないのです。日光があたる場所では作業ができませんので、衛生的にもまずいですし、特に牡蠣は生食で刺身用で出荷しているのです。殺菌とかしなければならないので、ちゃんとした施設が必要なんです。だけど当面はかき鍋とかの加熱用として出荷しているのです。」

小貝「山田町の牡蠣はブランドですか?」
鈴木さん「東京でも知っている人は知っていますね。生牡蠣の出荷がメインですので、広島の方になると加熱用の牡蠣になりますよね、うちは生牡蠣、刺身用で出してましたので。でもまだ殺菌施設が無いので生牡蠣は出せないのですよ。来月(7月)から建設を始めようと思っていて、年度内ですかね施設の完成が。本当の出荷は来年の9月からとなりそうです。それまで漁業者に我慢して貰わなければならないのです。漁業者も国の補助制度を利用して今すぐでも前の状態に戻りたいと頑張っていますが、自分の思う通りにやりたくても、それがなかなかできないと言っていますね。」

川島「今、鈴木さんが一番大変なのは何ですか?」
鈴木さん小貝「生牡蠣の殺菌施設ができれば一段落ですか?」
鈴木さん「殺菌施設ができればある程度震災前に戻れると思います。生牡蠣がメインでしたもの。収入源を確保しなければなりません。漁業者の収入源は海なので、それを確保しなければいけないです。」

小貝「鈴木さんはずっと山田町におられるのですか?」
鈴木さん「そうです。」
小貝「ご先祖も?」
鈴木さん「そうです。」
川島「ずっと漁業ですか?」
鈴木さん「ずっと山田町の漁業です。親と住むとき養殖漁業をやっているのでもう休みのたびに手伝わなければならなくて、こんな仕事は絶対にやらないぞと思ったんですが。それこそ都会に出て行くことができなくてそのままいまして、最終的には漁協に勤めながら家の仕事を手伝ったという。」

小貝「山田町の川は?」
鈴木さん「川は織笠川、関口川、大沢川の3本あります。鮭が遡上する川です。上流に孵化場を造りまして人工孵化して放流してました。今も実際やっていますけども。3つの川に1つずつ孵化場があったのですが、このうちの2つ川が被災しまして、それぞれを1つの川に集約して、新たなものを造って継続してやっています。一番大きい川は織笠川、鮭祭りとかいろいろつかみ取りとかやっています、水量もあって。関口川がそのそばにありまして、離れたところに大沢川があります。川の上流に堰き止めて、そこに鮭が来たところを捕獲する。織笠川は河口から200mぐらい、大沢川が河口から50mぐらい、関口川でも100mぐらいかな。岩手県全体で年間4億4千万放流しています。帰ってくるのが3%ぐらいですかね。川に上がるのが0.3%ぐらいだから途中で定置網とかに捕獲されています。関口川と大沢川の鮭は、織笠川で集約して卵を取って放流する時は、関口川とか大沢川にもっていって放流するのです。孵化場は1つに集約したのですが、3つの川全てを使用して放流しています。漁業の町なので川は廃止しないようにしています。
川は牡蠣の養殖には欠かせないのですよ。木の養分が川に流れて川の河口の牡蠣は成長が良いし、太平洋の真ん中に置いてもあんまり成長は良くないようです。」

小貝「漁獲は震災前に戻ってきているのですか?」
鈴木さん「いや、漁獲はまだです。牡蠣の生食出荷ができないから、もう加熱用でしか売れないのですよ。どのくらい戻ったかと言うと、震災前の2割ぐらいですかね。実際、津波で全部流されましたので、その中でいくらか残った牡蠣は回収しましたけどほとんど流されてしまって、今は本当に小さい種がついているだけ、これから成長させるのですよ、最短でも2年から3年かかりますので、来年あたりからが本格的な出荷にはなるのです。2年3年東京なりに出荷しなかったために本当に以前ぐらいに販売できるのかなとちょっと心配になるのですけども。皆様の中で忘れないでいてくれればとそう思うのですけど。」
川島「山田町は牡蠣なのですね。牡蠣の養殖は海で見えますか?」
鈴木さん「牡蠣、帆立は混ぜて養殖しているので、これは牡蠣、これは帆立というのはないのですよね。全てに牡蠣、帆立が吊るされているのですよ。施設が筏状になっているのが筏式という養殖方法と、浮き玉をロープでつないでロープに吊るしているのがあり、一直線に浮き玉が並んでいるのが延縄式という養殖方法です。四角の筏式は12m×4m、延縄にすれば50mのロープが2本です。」
小貝「来年の9月に山田町に来ると楽しみですね。」
鈴木さん「楽しみですね、来てください。最近、工事業者の方らが宿を占拠していまして、この辺を工事するために地元の工事業者では足らなくて、遠い所では広島からも来ているのです。宿にずっと泊っているのですよ。なかなか平日は取れないかもしれません。逆に土曜日なんかが空くと思うのですよ。そのへんを覚悟して来てもらえればと思います。」
川島「牡蠣の美味しいのはいつなのですか?」
鈴木さん「本当に美味しいというのは4月5月。でも牡蠣といえば冬場ですよね。ただ食べて美味しいのは4、5、6月、そのへんです。一番本当に刺身で食べるのでしたら、1月2月のほうが良いかもしれません。牡蠣は9月に卵を産むのですよ。」
川島「三陸やまだ漁業協同組合のホームページをリンクさせていただきます。」

川島・小貝「いろいろありがとうございました。」






(聞き手・川島範子、小貝眞)

岩手県大槌町~前川善兵衛さんと小田原

2013-08-02 10:01:54 | ブリ漁絵馬~忘れられた漁業史を探る

 先祖が相州前川邑(神奈川県小田原市前川)の出身で、江戸時代に「みちのくの紀伊国屋文左衛門」と称された代々の前川善兵衛(以下、前川善兵衛さん)について、今回(2013年6月21日)の岩手県大槌町・山田町の訪問で得られたことを紹介します。
 前川善兵衛さんを知らない方がほとんどでしょうから、先ず前川善兵衛さんの先祖の出身、前川善兵衛さんはどんな人か、前川善兵衛さんの歴代の墓を訪ねて、出身を示す前川氏系譜(水産庁・水産資料館蔵)他、最後に史料による若干の考察を加えます。

 『前川善兵衛とその時代~荒海を乗り越え・・・~ 大槌町教育委員会発行』は前川善兵衛さんの先祖の出身を次のように記述しています
 「みちのくの紀伊国屋文左衛門とうたわれた吉里吉里善兵衛こと前川善兵衛は、三都(江戸・大
 坂・京都)に名の聞こえたといわれる江戸時代の豪商である。
 先祖は、相模国(神奈川県)の出身で小田原北条氏に仕えていたという。天正18年(1950)豊臣
 秀吉の小田原征伐があり、落城を知ると奥州気仙沼に逃れやがて閉伊郡吉里吉里浦に移り、元の
 清水姓を名乗ることをはばかりその出である前川村の前川姓を名乗るようになった。」

次に前川善兵衛さんはどんな人だったかは、『大槌町町勢要覧 2008 P30』を引用します。
 「海の豪商 前川善兵衛 南部藩最大の豪商は大槌の商人
  吉里吉里善兵衛こと前川善兵衛は、初代甚右衛門、二代目善兵衛となりこれ以降善兵衛を襲名
 しています。初代甚右衛門は元禄年代に五十石積の船を建造、常陸の貿易商白土次郎左衛門と取
 り組み、閉伊海岸の産物を集荷、他領に販売しています。
  その後、南部藩の特権商人となった前川家はさらに漁業と海運業で財を成していきます。大型
 船を使った海上輸送により大量の海産物を江戸や大阪に送り込み巨利を得ます。いりこ、干しア
 ワビなどの長崎俵物、鰹節、塩鰹、干しスルメ、干し赤魚などや海藻、さらに米穀類、木材など
 手広く扱い、三代目善兵衛助友の頃には、他領にも名声が知れ渡るほど隆盛を極めていました。
  また、南部藩の財政を陰で支えていたのも前川家でした。ニ代目善兵衛から引き続き三代目助
 友親子が南部藩に貸したお金は千七百両にもなっていました。さらに、宝暦三(一七五三)年、
 幕府の命令で日光東照宮を修復することにより、南部藩は七万両を負担しなければなりませんで
 した。藩は、藩内の富豪や士分にその負担金を割り当て、盛岡城下の百十六人の商人が合計四千
 八百両を負担したのに対し、四代目善兵衛富昌が一人で拠出した金額は、藩米を引き当てたとは
 言え、なんと七千五百両もの大金でした。藩内最大の豪商と称されるゆえんはこのあたりからも
 垣間見ることができます。
  三陸の豊富な海産資源が商品価値を上げることにより、当初は小規模な漁法でしかなかったも
 のが、海運の進歩により大量に搬出されるようになると、漁法、漁場の開発や、船の大型化など
 の改良が進んでいきました。また、販路が関東や江戸を主体とすることから、遠い市場に送るた
 めには塩蔵品に加工する必要があり、塩の需要が急激に増加、製塩業の改良も促されていきます。
  江戸時代に、「みちのくの紀伊国屋文左衛門」と称された代々前川善兵衛が残した水産・海運
 業への功績は多大なものがあり、今でも大槌の誇りとして語り継がれています。」

 また、『前川善兵衛とその時代~荒海を乗り越え・・・~ 大槌町教育委員会発行』は次のように触れています。
 「一方宝暦5年の大飢饉により、翌年大槌通では餓死者が1,094人あったとされ、このとき、私蔵
 を開き大槌・吉里吉里両村の村民や往来の人々延べ32,112人に粥を食べさせたという記録が残
 っている。南部藩への届出によるとその石高は53石3斗7升に上ったという。宝暦8年、飢餓亡
 者の3回忌にあたり「赤沼」に法華経一字一石経塚を建立している。」

 JR吉里吉里駅近くの小高い丘を上っていくと前川善兵衛さん八代を含む前川一族の墓が並んでいます。前川善兵衛さん八代の墓には家紋は無く、その他の墓のいくつかには前川家の家紋である丸内二引の家紋の入った墓がありました。

 『吉里吉里善兵衛 歴代の墓』説明板
 江戸時代、南部藩最大の海産商として隆盛を極めた前川一族は代々善兵衛を名乗り、関東俵物の
 開発による三陸の水産業発展に偉大な業績をおさめた。
 三陸海岸の海産物は、代々の善兵衛の手により関東平野に送られ食料としての市場を開拓すると
 ともに、農業生産を倍にする魚粕としてその商品価値が高められた。
 宝暦年間、南部藩は幕府より命ぜられた日光山修復のための御用金上納を前川家に課し、四代富昌
 は七千両もの金子を才覚した。
 宝暦の大飢饉には村内飢民の救済に当たり、その数五三石三斗七升 三二、一一二人に達した。
 幾多の業績は、数多くの伝承としても後世に伝えられ、吉里吉里郷の人々には永遠に忘れ得ぬ国
の光である。
 初代 前川甚右エ門 富久 ~1677年(延宝5年)
 二代 前川善兵衛 富永 1638年~1709年(宝永6年)
 三代 前川善兵衛 助友 1676年~1746年(延享3年)
 四代 前川善兵衛 富昌 1691年~1763年(宝暦13年)
 五代 前川善兵衛 富能 1723年~1801年(享和元年)
 六代、七代、八代は省略
  昭和五十九年 大槌町観光協会


初代 富久 徳永軒眼光覚心居士

二代 富永 后輝軒大圓道鏡居士

三代 助友 清栄軒悦翁怡顔居士

四代 富昌 総豊軒昌運寿翁居士

五代 富能 祥運軒義山松翁居士

 ここまでで前川善兵衛さんの偉業の紹介をしましたが、実はもう一つの偉業があります。それは文書を残したことであり、『大槌町史上巻 昭和41年発行 P239』は次のように伝えています。
 「江戸時代に南部藩の御用商人として富豪を誇った吉里吉里の前川一族は、もと小田原の北条氏
 の家臣であった伝承されてきた。前川家は漁業と貿易で大を成し数代全盛を極めただけに、古文
 書の類も地方きっての豊富なものがあり、その種類も多岐にわたっていて大東亜戦争時には戦禍
 を怖れてそれを箱に入れて地中に埋めて保存につとめたという。しかし、戦後その文書の大半は
 水産資料として水産庁に懇請され売却し、現在同家に蔵されるものはその一部に過ぎない。」

その文書の中に前川氏の系図が数種あってどれも類似の内容を示すとされ、その中の三種の出身を示す個所が『大槌町史上巻 昭和41年発行 P239~P242』にあげられています。

 一、 前川氏系譜 水産庁・水産資料館蔵
 姓源家紋 丸内二引
 清水右近富義長子
 上野助富英男
 富久 前川甚衛門――――――※
   其先仕干北条家領百五十貫住相州前川邑父上野助富英有戦功此時四方軍務不暇国用不饒関
   八州之豪家納金米於小田原頗見免軍役上野助亦奉所貯之粮米二千觧併金銭若干誓不願免軍
   務於平氏康公感其志賜豆州下田邑且使主津方事終遷豆州下田邑住居多年也。
   天正十八年庚寅四月三日豊臣氏功小田原及落城之聞回船而到奥州気仙浦隠本氏改前川
   貯之財借漁猟之者大淂利富英没干気仙浦其後有故移閉伊郡吉里々浦以貸殖為業。

  ※富永 興墓之祖 前川善兵衛
   於吉里々浦貸殖益栄蒙 領主御用度々也有御感宝永三戌正月廿七日被免回船二百之無役御
   証文被下
   宝永六丑七月四日卒 年七十二葬干
   号后輝軒大円道鏡居士

 二、 前川○系図 大槌町・吉里吉里前川謙吉氏蔵
 大祖富久 前川甚右衛門――――――※
   是処出相州前河邑本氏清水仕北条氏康公以多有金銀之畜補佐助軍用以在賜豆州下田邑称清
   水上野助富英天正十八庚寅夏四月三日聞小田原落城隠出古邑隠奥州吉利邑矣以来姑憚表本
   氏以本国ノ邑名通用之。

  ※富永 善兵衛
   富永興墓之祖也
   ○宝永三戌正月廿七日回船二百石之御免役御証文頂戴
   ○富永享年七十二宝永六丑七月四日卒謚 后輝軒大円道鏡居士

 三、 当家覚書帳 大槌町・吉里吉里前川謙吉氏蔵
 伊豆下田城主清水右近富義長子上野助 富英男後 前川甚右衛
   其先仕干北条家領百五十貫住相州前川邑父上野助富英有戦功此時四方軍務不暇国用不饒関
   八州之豪家納金米於小田原頗見免軍役上野助亦奉所貯之粮米二千觧併金銭若干誓不願免軍
   務於平氏康公感其志賜豆州下田邑且使主津方事終遷豆州下田邑住居多年也天正十八年庚寅
   四月三日豊臣氏功小田原及落城之聞回船而到奥州気仙浦隠本氏改前川貯之財借漁猟之
   者大淂利富英没干気仙浦其後有故移閉伊郡吉里吉里浦以貸殖為業。

  前川善兵衛富永
   於吉里吉里浦貸殖益栄蒙
   領主御用度々也有御感宝永三戌正月廿七日被免回船二百石之無役御証文被下
   宝永六丑七月四日卒 享年七十二葬干
   后輝軒大円道鏡居士

(考察)
 『大槌町史上巻 昭和41年発行 P245』で書かれているように「文書は後世に書かれたもので伝承するところに拠ったであろう」こと、そして/あるいは、伝承に内包されている意識(そう語られる背景に時代の情勢や置かれた環境もあること)、を考慮する必要があると思います。

 こうした中で、
「天正十八年庚寅四月三日豊臣氏功小田原及落城之聞回船而到奥州気仙浦」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「天正十八庚寅夏四月三日聞小田原落城隠出古邑隠奥州吉利邑矣」(前川○系図)は、まさに小田原城が豊臣軍に包囲された日と一致し、このことを知っていることを意味します。

 また、「家領百五十貫・・・氏康公感其志賜豆州下田邑」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「氏康公・・・賜豆州下田邑」(前川○系図)は、史料『北条氏康判物写(新井氏所蔵文書・395)』の「天文20 7 25 清水太郎左衛門尉康英(上野介・上野入道)に伊豆国宇土金を借金返済のために宛行い、この地は瑞泉庵に与え所領役は康英が務めた」ことを指すと思われます。なお『小田原衆所領役帳』によれば「豆州宇土金百廿貫文」です。

 「清水右近富義長子」(前川氏系譜)(当家覚書帳)とあり。史料『清水康英屋敷買券写(新井氏所蔵文書・405)』の「天文20 12 23 清水太郎左衛門尉康英、瑞泉庵に三島の屋敷を四五貫文で売り渡す、孫三郎の代の天文十五年十二月に借金をしたとあり」、これから清水綱吉(新七郎・太郎左衛門尉・上野介)の通称は孫三郎であり、康英の父親と分かる。富義と綱吉、二字目の読みが一致するのは偶然でしょうか?ちなみに「綱吉」は北条氏綱の偏諱です。

 以上のことは「父上野助富英」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「清水上野助富英」(前川○系図)「伊豆下田城主清水上野助富英」(当家覚書帳)が清水上野介康英であるとするのが合理的ではと考えます。

 ただし「住相州前川邑」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「出相州前河邑」(前川○系図)が清水康英とは一致せず、清水氏は伊豆国加納矢崎城を本拠としていたことから、出は現在の静岡県南伊豆町ではとの反論があるでしょう。
 また、史料『安国寺恵瓊・脇坂安治連署起請文(高橋健二氏所蔵文書・4539)』は「天正18 4 23 下田城に籠城中の清水康英と高橋郷左衛門尉に城を開いて降伏すれば城兵は助けると誓った」とあることから、小田原落城を聞いて隠れ出たこととは一致しません。
 さらに、『三養院過去帳』によると清水康英は天正19 6 3(2?) に死去とあります。

 このことに対しては、前川邑は富久の古邑で、父である清水康英は奥州に行っていない、という考えもあると思います。
 史料『北条氏康判物写(新井氏所蔵文書・395)』の「天文20 7 25 清水太郎左衛門尉康英(上野介・上野入道)に伊豆国宇土金を借金返済のために宛行い、この地は瑞泉庵に与え所領役は康英が務めた」には「清水太郎左衛門尉康英(花押)」とあり、北条氏康の偏諱と思われ、これから察するに清水康英は1590年(天正18)では50代です。
 富久は『吉里吉里善兵衛 歴代の墓』によると1677年(延宝5)に死去となっており、87歳以上の生涯でしたら前述の考えも成り立ちます。「隠本氏改前川」(前川氏系譜)(当家覚書帳)「姑憚表本氏以本国ノ邑名通用之」(前川○系図)も、矛盾はなく合理的と考えます。

 最後になりますが、史料は『下山治久 後北条氏家臣団人名辞典 東京堂出版 2006年9月』から引用しました。付録として前川善兵衛さんの先祖が関係した/話したであろうと思われる人物の史料を年表にしましたので参考にしてください。
 また、前川善兵衛さんについては『加藤秀俊ほか編纂 ふるさとの人と知恵 岩手(人づくり風土記3 全国の伝承 江戸時代 聞き書きによる知恵シリーズ) 農山漁村文化協会 1988年6月』の「第ニ章 生業の振興と継承の中で 3 前川善兵衛―三陸の海から富を築いた企業家(上閉伊)」としてP108~P115に収録されており、筆者は佐々木祐子氏(盛岡市子ども科学館)です。この本は親と子で読める「ふるさとの人と知恵」の本で、ルビも多くふられています。
 その中で、前川善兵衛さんの先祖の出身については、
 P108「☆豊臣秀吉の小田原攻めに遇った北条氏の家臣前川甚右衛門富久は、小田原城落城後奥州
 吉里吉里村に移り住みました。海の資源の豊富な三陸海岸を地盤にして回船業を営み、関東・関
 西・九州を股にかけて巨大な富を築きました。吉里吉里善兵衛さんで知られています。」
 P108「吉里吉里善兵衛の名で知られる、前川善兵衛の先祖は、相模国(神奈川県)前川村の出身
 で北条氏に仕えて、清水の姓を名乗り下田村を与えられていましたが、豊臣秀吉によって小田原
 城が落城し北条氏が滅亡した後、奥州(東北地方)に逃れたといわれています。
 やがて吉里吉里村(大槌町吉里吉里)で漁業や回船業を営み、ふる里前川村にちなむ前川姓を名
 乗って、巨大な富を築きました。
 前川氏に富をもたらしたもの、それは三陸の豊かな海でした。」
 P110「小田原落城後、気仙(岩手県気仙郡)に逃れ、やがて吉里吉里浦に居を定めた初代前川甚
 右衛門富久は漁業で財をたくわえていきました。しかし藩の記録に名を止めるようになったのは、
 二代目前川善兵衛富永の頃からです。」
と記述されており、清水康英が天正19年6月に死去したことを考慮しての記述と思われますが、「北条氏の家臣前川甚右衛門富久」としているのは執筆の1988年では富久の死去した年がまだ不明だったからでしょうか。

 『永岡治 伊豆水軍物語 中央公論社 1982年1月』も古くに書かれた本で清水康英について次のように記述しています。
 「下田にとめおかれた長宗我部元親は、一時もはやく下田城を落として主戦場である小田原へ行
 きたかった。そこで元親は謀計をめぐらし、清水康英に宛てて「小田原城はすでに落城し、いま
 や抵抗しているのは貴殿だけである。この上は戦うのも無益であろう。貴殿の武勇には、元親も
 ほとほと感服しているので、関白殿下の御前にもよしなに取りはからう所存である。ここはひと
 まず城を開け渡したらどうか」と、矢文を送った。
 情報も全く途絶え、孤立籠城していた康英らは、この文面にひっかかってしまった。小田原が落
 ちた上はやむなしと観念して、康英は城を出て、指定された地である対岸の武ヶ浜に出向いた。
 和議が結ばれ、下田城は長宗我部水軍に接収されたが、開城なるや、元親は態度を豹変して康英
 を敗将として扱った。下田城が豊臣方の手に落ちたのは、四月七日は八日ごろだったといわれて
 いる。(康英はいったん駿府に落ちのびたが、その後ふたたび南伊豆にもどり、河津の筏場に隠棲
 して生涯を終わったと伝えられている)。」
 史料『安国寺恵瓊・脇坂安治連署起請文(高橋健二氏所蔵文書・4539)』の「天正18 4 23 下田城に籠城中の清水康英と高橋郷左衛門尉に城を開いて降伏すれば城兵は助けると誓った」を知り得てなかたこと、および清水康英が天正19年6月に死去したことを知り得てなかったことで、この記述になったと思われます。
 歴史学者ではなく、伊豆をこよなく愛する在野の一研究者に過ぎない、と述べられた著者は、あとがきで、
 「軍記物語に記述されたところを拾い集め、これに数少ない確定史料をつなぎ合わせて考証して
 いく方法をとった。」
 「すべてが実像とはいえないかもしれないが、けっして虚像ではないことを確信している。」
と書かれています。

 伝承には内包されている意識があり、前川善兵衛さんの先祖の出身の伝承も心の声として信頼されるものと私は思います。


神奈川県小田原市前川の海岸から小田原城方面を望む

■ 前川善兵衛さんの先祖が関係したと思われる人物の史料年表
西暦 和暦年月日事項/史料名
―― ―― 北条早雲、伊豆国下田郷を朝比奈知明、子々孫々永代他の妨げあるべからず、今、知明が孫朝比奈兵庫助、下田を知行す/北条五代記
1515年 永正12 氏康誕生
1532年 天文4 清水康英誕生?
1540年 天文9 氏綱死去
1541年 天文10 6 6 奥州岩城の人と荷物を諸廻船中と右衛門尉(朝比奈右衛門尉・綱堯・知明)に輸送させた/北条家朱印状(白土文書・181)
1551年 天文20 7 25 清水太郎左衛門尉康英(上野介・上野入道)に伊豆国宇土金を借金返済のために宛行い、この地は瑞泉庵に与え所領役は康英が務めた/北条氏康判物写(新井氏所蔵文書・395)
「清水太郎左衛門尉康英(花押)」とあり、北条氏康の偏諱か
1551年 天文20 8 26 清水康英に伊豆国子浦村も宛行い瑞泉庵に渡す事とした/北条家朱印状写(新井氏所蔵文書・396)
1551年 天文20 12 23 清水太郎左衛門尉康英、瑞泉庵に三島の屋敷を四五貫文で売り渡す、孫三郎の代の天文十五年十二月に借金をしたとあり/清水康英屋敷買券写(新井氏所蔵文書・405)
清水綱吉(新七郎・太郎左衛門尉・上野介)の通称は孫三郎であり、康英の父親と分かる
1557年 弘治3 11 15 国府津の村野惣右衛門(〔村野〕相模国西郡国府津の地侍)に北条氏康夫人の御菜浦である国府津に魚介類の納入について規定し、浦賀に詰める船方役一人分の年間半分を赦免した/北条家朱印状写(相州文書・559)
1559年 永禄2 朝比奈孫太郎(〔朝比奈〕早くから今川氏に属す)、伊豆国下田四五貫文、同国須崎・柿崎ニ七貫文、同本郷国衙分七五貫文、同所鈴木屋敷分三貫文、相模国三戸六〇貫文、合計ニ一〇貫文の知行役/小田原衆所領役帳
1559年 永禄2 清水太郎左衛門(〔清水〕伊豆国加納矢崎城を本拠)、豆州加納三百七拾貫文、豆州熊坂百拾貫文、豆州修善寺五拾貫文、この外三島周辺にも知行あり、ほか豆州宇土金百廿貫文、豆州子浦拾弐貫文、の合計八ニ九貫文/小田原衆所領役帳
1559年 永禄2 清水小太郎(吉広・右京亮・能登守)、豆州河津南禅寺分卅貫文、同所内開き分下さる拾五貫文、合計知行役高四五貫文/小田原衆所領役帳
1559年 永禄2 秩父次郎左衛門(〔秩父〕伊豆国間宮を本拠とした地侍)、中郡津古久百廿八貫文、豆州間宮弐百貫文、豆州江間九十貫文、同所八十八貫文、豆州白浜七十弐貫文、の合計知行役高五七八貫文/小田原衆所領役帳
1559年 永禄2 富永弥四郎(〔富永〕もと三河国設楽郡の御家人、のち伊豆国戸肥郷の国衆)、豆州西戸肥千貫文、西郡飯田内上総分百八貫文、中郡大槻上下百貫文、この外に江戸牛嶋四ヶ村百五拾貫文など合計一七五貫文、都合知行高は一三八三貫文/小田原衆所領役帳
1560年 永禄3 2 23 国府津の船主の宗右衛門(村野惣右衛門)に北条氏康夫人の御菜浦である国府津に魚介類の御肴銭納入について現物納と規定し魚類は活きの良い内に納入し、小田原城の由比千菊・清五郎左衛門に渡す事とし、魚介類の単価計算明示した/北条家朱印状写(相州文書・622)
1566年 永禄9 6 10 国府津の小代官・舟持中に今晩に火急な魚介類の納入を命じ八つ以前に小田原城に魚を届け台所奉行の久保孫兵衛に渡し代金を受け取ることと命じた、舟持主が村野惣右衛門/北条氏康朱印状写(相州文書・953)
1571年 元亀2 氏康死去
1584年 天正12 5 16 国府津の村野四郎左衛門(村野惣右衛門?)に来る九月二十日からの御魚銭は毎月二□□文と定め魚介類をもって小田原城の金井に渡すこととした/北条氏政カ朱印状写(相州文書・1484)
1584年 天正12 12 7 北関東方面に出陣する準備を清水太郎左衛門尉(清水政勝・新七郎・太郎左衛門尉・意笑入道)に命じた/北条家朱印状(平岡文雄氏所蔵文書・2745)
1584年 天正12 12 7 八木和泉守(〔八木〕伊豆国子浦の地侍、北条氏伊豆水軍)に伊豆国宇土金・子浦の知行について八木三郎兵衛・八木又三郎の与奪の文書や清水康英からの買得証文を検証した結果として八木和泉守に安堵した/北条家朱印状(松崎新一氏所蔵文書・3562)
1586年 天正14 7 15 佐竹義重の軍勢が下野国敵壬生城に進撃したので出陣する事となり、清水上野入道と太郎左衛門に陣触れが発せられた/北条家朱印状写(伊豆順行記・2970)
1588年 天正16 清水康英、下田城の城主に命ぜられる
1589年 天正17 12 7 八木和泉守に宇土金・子浦を八木三郎兵衛・同又三郎に天正十四年に与えた一札と清水康英よりの一筆の通り安堵した/北条家朱印状(松崎進一氏所蔵文書・3562)
1589年 天正17 12 19 韮山城城将に就任した北条氏規に韮山城の曲輪割りの指示等を与え、清水からの書立には戦いの準備をしない者がいると述べ、康英はこの頃には下田城に入り、北条氏規の指南に属した/北条氏政書状写(大竹文書・3580)
1590年 天正18 1 9 吉良氏朝の家臣高橋郷左衛門尉を小田原城からの検使として下田城に遣わし、清水康英と相談して戦術をよく打ち合わせる事とした/北条氏直半物(高橋健二氏所蔵文書・3611)
1590年 天正18 1 12 康英に下田城への軍勢の配備については、諸方面へ兵力を配備するために思う様にはできないが、後々の事を考慮して配置の心配りをしてほしいと依頼した/北条氏政書状(清水昭一郎氏所蔵文書・3612)
1590年 天正18 1 17 英吉(清水英吉・又兵衛・淡路守)の妻子を小田原城に召し寄せとした/清水康英書状(清水惣一氏所蔵文書・3621)
1590年 天正18 2 12 宗悦、(清水淡路守英吉に)小田原より浦伝いに下田迄の船持中に船一隻を出すことを命じ清水衆八木某を下田まで漕ぎ届けさせた/北条家朱印状写(新井氏所蔵文書・3647)
1590年 天正18 4 2 豊臣軍、小田原城下へ
1590年 天正18 4 3 小田原城、豊臣軍に包囲される
1590年 天正18 4 23 下田城に籠城中の清水康英と高橋郷左衛門尉に城を開いて降伏すれば城兵は助けると誓った/安国寺恵瓊・脇坂安治連署起請文(高橋健二氏所蔵文書・4539)
1590年 天正18 5 3 上野入道康英、下田城を出て林際寺に謹慎する時に高橋丹波守等が従ってくれた事に謝礼を述べ、五〇日間の籠城の苦労をいとうた/清水康英判物(高橋清氏所蔵文書・3728)
1590年 天正18 7 5 小田原城開城
1590年 天正18 7 11 氏政死去
1590年 天正18 7 21 氏直が高野山に向かうについて徳川家康から便宜を計ってもらう内諾を得ているので朝比奈兵衛尉(右衛門尉)に相談して事を運ぶように横山文左衛門に伝えている/北条氏規朱印状写(判物証文写北条・3934)
1591年 天正19 6 3(2?) 清水康英死去/三養院過去帳
1591年 天正19 11 4 氏直死去
参考文献: 下山治久 後北条氏家臣団人名辞典 東京堂出版 2006年9月

(小貝眞)