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ブリの森づくりプロジェクト  

~森の再生からブリの来るまちへ~  小田原市無尽蔵・環境(エコ)シティ  ブリの森づくりプロジェクト 

山田町のブリ絵馬 ~『扣之帳』38号より~

2012-12-27 21:58:25 | ブリ漁絵馬~忘れられた漁業史を探る


『扣之帳』38号に「山田町のブリ絵馬」西田清三著が掲載されました。
小説の出だしはこんな風に始まっています。

十月半ばのこと。腰が痛くて家で静かにしていたら、iPadにメールが入った。
  はちまんさんのえまをみにいきます
  あしたごごこめかみにおいでください
  ぶりもりのらこ
 久しぶりにのらこさんからのメールだ。
 ・・・・・・・・・


続きはこちら「山田町のブリ絵馬」西田清三著でご覧ください!

・・・・・・・・

『扣之帳』は郷土の歴史・民俗・文芸誌です。
伊勢治書店の郷土コーナーに常設されています。

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事務局(ぶり森のらこ)

神社に眠る兄弟絵馬の謎 (タウンニュース12月15日版より)

2012-12-27 21:21:05 | ブリ漁絵馬~忘れられた漁業史を探る


12月15日付のタウンニュースで、ブリ漁絵馬の記事が掲載されました。
岩手県山田と米神の良く似た二つの絵馬の謎を追う、飯坂真紀さんの談話を記事にしたものです。
飯坂真紀さんは「とりら ふるさと岩手の芸能と暮らし研究会」事務局をなさっており、10月25日に米神に絵馬を見に来られています。その時の記事はこちら

飯坂さんもブログとりらでタウンニュースの記事について書いておられます。
とりら ブリが結ぶ兄弟絵馬の謎
小田原のブリ漁は東北の方々も出稼ぎに来るくらい盛んな産業となっていたのでしょうか?
およそ70年前の地域の漁業史ですが、70年は近くて遠い記憶です。
当時の事を知る方、ぜひご一報ください!
遠い山田町とのご縁、つながりを、是非辿ってみたいものです。

事務局(ぶり森のらこ)


その後こんな記事も書いてくださっています。
飯坂様ありがとうございます。

ブリとミカンと南部衆 http://torira.exblog.jp/18183418/

東北にあった「米神ブリ漁絵馬」~米神正八幡神社にて~

2012-10-30 23:21:33 | ブリ漁絵馬~忘れられた漁業史を探る


10月25日、ブリ漁絵馬を見に、米神正八幡神社(地元小田原市)に行ってきました。
この日は岩手県盛岡市の飯坂真紀さん(ふるさと岩手の芸能と暮らし研究会)が、米神の絵馬を見に来られると知り、急遽郷土史のお二方に同行していただきお邪魔しまた。
三陸の山田町に、何故遠く離れた当地の絵馬があるのか、それは私たちにとっても非常に興味深い事なのです。

海はつながっている 「とりら ~ふるさと岩手の芸能と暮らし研究会」

奉納 昭和十四年六月 相洋組合 米神鰤網漁場

自治会長の松本勇さん立会いの下、神社の中に入ると・・・ありました!
昭和十四奉納と書かれており、これは山田町の十六年より、二年先に奉納されたものです。油絵の絵馬は珍しいそうです。



同行していただいた星野さん(元市史編纂員)によると、戦前・戦中は大漁旗の代わりに旭日旗が掲げられていたそうです。
地元の絵描きさんが頼まれて書いたものでしょうか?想像以上の力作に、みな目が釘付けです。 
その後一行は、飯坂さんが最初に問い合わせた米神の人、松本勝蔵さんのデイサービス「天ん屋」へ。
お茶を御馳走になりながら、二つの絵馬の写真、自治会長さん宅所蔵のブリ漁古写真など見ながら更に検証?が続きます。


左から青木良一さん(扣之帳編集)、飯坂真紀さん(ふるさと岩手の芸能とくらし研究会)、星野和子さん(元市史編纂員)、松本勝蔵さん(小田原のうかつデイサービス天ん屋)、川島範子(ブリ森プロジェクト)、撮影小貝眞(ブリ森記者)


山田八幡宮の絵馬 祝大漁 相模米神鰤漁場 昭和十六年五月 南部漁夫一同 KOWSHI

こちらは山田八幡宮の絵馬。
これを描いた方は14年奉納のものを見ていたのかもしれませんね。
飯坂さんによるとOWSHIさんという苗字は岩手にあるそうです。一度米神神社に奉納された後、山田に持って行ったのか?など、様々な推理が飛び交います。

絵馬が奉納された昭和14年、16年頃というのは、米神定置網にとってどのような年だったのでしょうか?
新しい網の導入を巡った交流が行われていたのか、はたまた一大産業となっていた米神に、乗子として出稼ぎに来ていたのか・・・・。

星野さんによると、米神は漁業権を小田原の鈴木や山田といった市場経営者に貸していたので、大漁になると歩合取りとなっていたようです。(但し、明治・大正時代)

古写真の方にも旭日旗があり、絵馬の時期と近く、漁労風景が参考になります。

定置網について調べてみますと、小田原では江戸時代から昭和までに、富山湾、東北、三重など、広域で交流が行われています。
昭和10年代には近代的な「落とし網」が導入されました。

小田原地方で鰤敷という大型の定置網が導入されたのは明治になってからで、二宮町から真鶴町にかけて仕掛けられたこの鰤敷が大当たりして「鰤大臣」と呼ばれる漁業家が何軒か生まれました。

この鰤定置網は小田原の西部地域では紀州から伝えられたといわれ、酒匂地域ではこれに千葉県からの技術を導入した改良型もありました。
日本海側の鰤漁が盛んであった富山湾氷見との技術交流も、大正期になってから盛んになっていました。


ところで、小田原の松原神社の神輿運行で唄われる「大漁木遣り唄」をご存知ですか?
歌詞にはブリが登場します。

「一締めしめれば ぶり網大漁だよ 一締めしめれば 万両の株だぞ わたしゃ小田原 荒波そだちよ 木遣り者二分でも かけ声頼むぞ 」

小田原では御神輿は木遣りで門付けするのが当たり前と思っていましたが、全国的にはかなり珍しいもののようです。



これは漁の網引き唄が元になっていたそうで、神輿でも音頭を取る木遣り師がいますが、網引き唄では木遣り師の唄に合わせて網を引き揚げます。

(木遣り師) ソーリャァーセー 木遣り者二分でも 
(漁夫) ソラドットコセェー 
(木遣り師) 掛け声頼むぞ 
(漁夫) ヨーイヤァ、ヨイトコセ、ヨイトコセ・・・


荒海での作業は死人が出るほど危険な仕事だったとか、掛け声で、タイミングを合わせて作業をしたのですね。山田の方もきっと一緒に歌って網を引いたのでしょう。

山田のお祭りは神輿が海に入るなど、小田原とは漁師町らしい共通点があります。
何時か是非見に行ってみたいです。

米神正八幡神社の目の前は海。

ところで山田町は、震災の津波で被害の大変大きかった地域です。
町の8割の家屋が流され、山田祭りで有名な海辺の大杉神社も、神輿や神事の道具が被災しました。今回飯坂さんの上京も、東北の民俗芸能復興の支援を求めてのものでした。


とりら第6号1000円 お求めは・・・ふるさと岩手の芸能とくらし研究会

とりら第6号では被災した三陸の芸能と震災について特集しています。山田まつりも掲載されています。

海はつながっている、絵馬を通じてそのことを実感しました。遠く離れた東北山田と、米神のご縁、70年の時を飛び超えて、もう一歩近づきたいものです。

もし皆様のまわりで昔のブリ漁をご存知の方がいましたら、是非東北の人の事を聞いてみてください。何か分かりましたら、一報いただければと思います。
また寄付などご支援頂ければ幸いです。
(川島)

・・・・・
◆ブログとりら「山田祭り・大杉神社」

◆わわプロジェクト「山田八幡宮・大杉神社 復興祈願例大祭」

●東北の民俗芸能へのご支援
(岩手三陸沿岸の民俗芸能応援募金と明記)

郵便振替口座番号 02240-4-69271
加入者名 ふるさと岩手の芸能とくらし研究会

●山田八幡宮・大杉神社へのご支援
(山田八幡宮・大杉神社へと明記)

みずほ銀行 上野支店 普通預金 2493512
口座名義:一般社団法人非営利芸術活動団体コマンドN

・・・・・

参考資料

木遣り歌

相模湾における定置網型の変遷 1-3(1994~1998)平元泰輔 


海はつながっている~岩手県山田町に米神ブリ漁絵馬が!

2012-10-21 07:33:03 | ブリ漁絵馬~忘れられた漁業史を探る


 岩手県山田町の山田八幡神社に、「奉納 祝大漁 相模米神 鰤漁場 昭和十六年五月 南部漁夫一同」の絵馬が奉納されていること分かりました。
小田原市米神のブリ大漁を祝う記念の絵馬で、海のつながりを彷彿とさせます。
似た絵馬が米神の八幡神社にも奉納されています。
「とりら ~ふるさと岩手の芸能とくらし研究会~」のブログ(blogとりら 海はつながっている)により紹介していただきました。

奉納された当時、小田原はたくさんのブリが獲れました。
絵馬にある米神漁場だけでも昭和7年159千尾、昭和8年139千尾、昭和17年100千尾、昭和18年107千尾、昭和19年149千尾を漁獲していました。

このようにたくさんブリが獲れた時ですから、岩手県山田町の漁師さんにも支援いただいき、大漁を一緒に祝っていただいたのです。

 米神漁場では網は人手を必要とする大謀網型が昭和12年まで使われました。
昭和7年に後続魚群が入網可能な運動場がある上野式大敷網型「越中式片起し」が導入され、昭和13年からは魚が逃げることを防ぐ登り網を持った落し網型が使われ、箱網と呼ばれる部分だけを揚げて漁獲するため人手が少なくてすむようになりました。

絵馬に描かれている網は人手がたくさん必要とした大謀網型でしょうか。
また、上野式大敷網型「越中式片起し」ではブリを一網で4万数千尾を漁獲した記録が残っていますがその時の状況は想像もできなく、何人かけてブリを獲ったことでしょう?絵馬には、手前に大沖船と呼ばれる船と7隻の揚網船が描かれています。
7隻揚網船締めが終わりブリの大量漁獲で揚網船が大漁旗を掲げる情景となっています。

【お願い】
岩手県山田町は東北大震災で大きな被害を受けた被災地でもあります。
未だに復興は進んでいないとのことです。
小田原のブリ漁を支援いただいた方も亡くなられていることと思います。
大切なアルバムを失くされた方も多数おられるでしょう。
岩手県山田町の人達に、東北の漁師さんが小田原に来られた昔ばなしを送ってあげるとどんなに励ましになり心の傷が癒えるかと思います。
是非お寄せくださるようお願いいたします。

記載には下記文献を参考にしました。
また、本文献の後半は当時の定置網操業の写真がたくさん載っていますので是非ご覧下さい。
平元泰輔(1997)相模湾における定置網型の変遷-2 神水研研報第2号, 25~47
被災地の一日でも
早い復興をお祈りいたします。

(ブリ森サポーター小貝記)