再び、第二次世界大戦ブックスからドイツ空軍の歴史について。
ヒトラーが国内の権力を完全に掌握した後、どのようにドイツ空軍を建設していったのか。その辺を今回は、見ていきたいと思います。
◆ヒトラー、空軍建設を推進
しかしヒトラーは、“ドイツ生活圏の拡張”という目標を達成するためには、強力な空軍を保有することが重要な条件であると考えていた。そこで新政府が発足すると殆ど同時に、軍事航空の発展に拍車がかけられた。ヒトラーの代理人であるヘルマン・ゲーリングが、まず航空大臣兼空軍総司令官に就任した。
しかしゲーリングはナチ党の重要な幹部でもあったので、空軍に専念できる時間はほとんどなかった。そこで、この新設の空軍を鍛える仕事は、次官のエアハルト・ミルヒの肩にかかったのである。
ミルヒは、巨大な仕事に立ち向かった。
その仕事を遂行するために、ナチ政権の完全な支持と、合理的に使用できる資金と資材を受けることができた。ミルヒは、極秘のうちに新しい飛行学校や飛行場や生産工場の建設を命じた。また多くの航空機製造会社に、大量の航空機を発注した。
ミルヒの要求はあまりにも膨大なので、全航空機工業界に波紋を呼び起こした。一例をあげると、1933年初頭、ドイツの航空機製造会社の大手の一つであるユンカース社の能力は、ユンカースJu52輸送機を年間わずか18機生産する程度であったが、ミルヒは、2年以内に200機を完成させるように発注した。他の会社も同じような発注を受け、新工場を建設するための気前の良い政府援助を受けたのである。
◆新型機での訓練に重点
ミルヒがはじめて大規模な生産命令を出した新型戦闘機は、ハインケルHe51で、これは最高時速330キロを出す複葉機で、7.9ミリ機関銃二挺を装備していた(※写真参照/ドイツ空軍が正体をあらわすまでは、民間航空機の標識をつけていた)。※中略
しかしミルヒとしては、これらの飛行機はたんに暫定的なもので、生産ラインを開発するのに役立たせ、搭乗員に合理的な新型航空機の経験を与えるつもりだったのである。※中略
ミルヒの狙いは、新しい時代の戦闘用航空機が実用化されたとき、ドイツが、それを受け入れる能力を持つことであった。
この目標に合わせて、新空軍が最初に力を注いだのは訓練であり、発注された飛行機の半数は、フォッケウルフFW44、アラドAr66などの練習機であった。
1935年(昭和10年)3月になると、ドイツはかねてから秘密にしていた空軍は、もはや世界に誇示するにたる強力なものだと考えた。今や空軍は、各機種合わせて1888機の飛行機と、2万人の将兵を持っていた。華やかな航空ページェントが繰り返し開かれるうちに、極度に専門化された飛行クラブや警察航空組織が、一つ一つ新空軍に編入されていった。これらのページェントには、ヒトラーも出席していた。
国外では、ドイツ空軍の発展は、容易ならぬものと疑惑の目で見られ、この新しい脅威に対して、ヨーロッパ諸国は軍備を拡充し始めた。軍備競争が、開始されたのである。
ドイツ空軍は、ゲーリングの下で次官エアハルト・ミルヒという有能な実務者が存分に腕をふるい、潤沢な資金と資材を活用しながらインフラを構築していったのです。
第一次世界大戦後のドイツ空軍の“事業承継”が、その後どのようなプロセスをたどっていったのか。
明日は、その空軍内の首脳陣模様を書きたいと思います。
ヒトラーが国内の権力を完全に掌握した後、どのようにドイツ空軍を建設していったのか。その辺を今回は、見ていきたいと思います。
◆ヒトラー、空軍建設を推進
しかしヒトラーは、“ドイツ生活圏の拡張”という目標を達成するためには、強力な空軍を保有することが重要な条件であると考えていた。そこで新政府が発足すると殆ど同時に、軍事航空の発展に拍車がかけられた。ヒトラーの代理人であるヘルマン・ゲーリングが、まず航空大臣兼空軍総司令官に就任した。
しかしゲーリングはナチ党の重要な幹部でもあったので、空軍に専念できる時間はほとんどなかった。そこで、この新設の空軍を鍛える仕事は、次官のエアハルト・ミルヒの肩にかかったのである。
ミルヒは、巨大な仕事に立ち向かった。
その仕事を遂行するために、ナチ政権の完全な支持と、合理的に使用できる資金と資材を受けることができた。ミルヒは、極秘のうちに新しい飛行学校や飛行場や生産工場の建設を命じた。また多くの航空機製造会社に、大量の航空機を発注した。
ミルヒの要求はあまりにも膨大なので、全航空機工業界に波紋を呼び起こした。一例をあげると、1933年初頭、ドイツの航空機製造会社の大手の一つであるユンカース社の能力は、ユンカースJu52輸送機を年間わずか18機生産する程度であったが、ミルヒは、2年以内に200機を完成させるように発注した。他の会社も同じような発注を受け、新工場を建設するための気前の良い政府援助を受けたのである。
◆新型機での訓練に重点
ミルヒがはじめて大規模な生産命令を出した新型戦闘機は、ハインケルHe51で、これは最高時速330キロを出す複葉機で、7.9ミリ機関銃二挺を装備していた(※写真参照/ドイツ空軍が正体をあらわすまでは、民間航空機の標識をつけていた)。※中略
しかしミルヒとしては、これらの飛行機はたんに暫定的なもので、生産ラインを開発するのに役立たせ、搭乗員に合理的な新型航空機の経験を与えるつもりだったのである。※中略
ミルヒの狙いは、新しい時代の戦闘用航空機が実用化されたとき、ドイツが、それを受け入れる能力を持つことであった。
この目標に合わせて、新空軍が最初に力を注いだのは訓練であり、発注された飛行機の半数は、フォッケウルフFW44、アラドAr66などの練習機であった。
1935年(昭和10年)3月になると、ドイツはかねてから秘密にしていた空軍は、もはや世界に誇示するにたる強力なものだと考えた。今や空軍は、各機種合わせて1888機の飛行機と、2万人の将兵を持っていた。華やかな航空ページェントが繰り返し開かれるうちに、極度に専門化された飛行クラブや警察航空組織が、一つ一つ新空軍に編入されていった。これらのページェントには、ヒトラーも出席していた。
国外では、ドイツ空軍の発展は、容易ならぬものと疑惑の目で見られ、この新しい脅威に対して、ヨーロッパ諸国は軍備を拡充し始めた。軍備競争が、開始されたのである。
ドイツ空軍は、ゲーリングの下で次官エアハルト・ミルヒという有能な実務者が存分に腕をふるい、潤沢な資金と資材を活用しながらインフラを構築していったのです。
第一次世界大戦後のドイツ空軍の“事業承継”が、その後どのようなプロセスをたどっていったのか。
明日は、その空軍内の首脳陣模様を書きたいと思います。