おはようございます。
マルチン・ボルマンという人物がいます。
1945年11月、ナチス・ドイツの戦争責任を追及するために連合軍が開いた「ニュルンベルク裁判」は、起訴されたA級戦犯22名のうち、ヘルマン・ゲーリング(執行前日に自殺)やヨアヒム・フォン・リッペンドロップなど半数の11名が絞首刑を受けるという厳しい内容でした。
絞首刑を受けたリストの中でただ1人だけ逮捕を逃れ、死刑執行も免れた大物、それがマルチン・ボルマンです。
敗戦直前までナチスの副総統であり、総統秘書長、ナチ党官房長として絶大な権力を振るっていた彼の首にはあちこちから賞金をかけられ、ヨーロッパのいたるところで彼を捜索する動きが展開されましたが、その存在を明らかにすることはできませんでした。
そしてその謎に対する答えを明示した一冊の本が1997年出版され、話題を呼びました。
『ナチスを売った男』と題されたこの本を書いたのは、元イギリス諜報部員のクリストファー・クライトン。
当時イギリス首相チャーチルの関心事は、ナチスがヨーロッパの敗戦国から略奪した莫大な財産にありました。
ナチスの指導者たちが隠匿した現金、ゴールド、宝石、美術品、財産証書を連合国がいかに奪還するか―チャーチルの指示を受けた英国情報部のデズモンド・モートン長官は、1945年1月21日に極秘作戦『ジェームズ・ボンド作戦』(JB作戦)を立案します。
ちなみにこの作戦の総指揮は
イアン・フレミング中佐で、あのジェームズ・ボンドの生みの親であり、007の主人公の名前の由来はこの作戦名からきています。
以下に目次を記します。
◆第1章/接触…ナチス外相の密使
◆第2章/背景…諜報員の誕生
◆第3章/指令…ヒトラーの財宝
◆第4章/犠牲…工作員パトリシア
◆第5章/着任…バーダムの侵入者
◆第6章/標的…党員番号60508
◆第7章/乱心…フォーキナーの秘密
◆第8章/再会…売国奴の紳士協定
◆第9章/水路…先遣隊潜入
◆第10章/廃墟…第三帝国の惨状
◆第11章/偽装…ボルマンの替え玉
◆第12章/新人…アイクの代理人
◆第13章/降下…ピグレットの小屋
◆第14章/拉致…カナリスの書類
◆第15章/脱出…戦火のベルリン
◆第16章/帰還…同志ナターシャ大佐
◆第17章/救出…切り離し作戦
◆第18章/謀略…モートンのメモ
この本がただの創作ではないと思われるリアルなシーンを、いくつかご紹介します。
■ベルリン脱出について
「移動手段はカヤックまたは軍用カヌーに最適なため、計画初期の段階から、作戦は水上を中心に行なうことに決まった。つまり、拉致班はシュプレー川とハーフェル川づたいに西(下流)にこっそり去ることができる。それから巨大なエルベ川を北西に進み、前進中の連合国軍と合流する。我々には、こうした作業をこなすことのできる人材も機材も経験もあった」
「脱出の際の服装だが、フレミングとブラビノフ、私は次のような格好をすることにしていた。ウルスラの防水ジャケットとズボンを改造したものに、ソビエトの特殊諜報部の記章を付ける。ただし帽子と外套はナチスのSSのものにする。地下壕の周辺では、この出で立ちで、正体がばれる可能性を最小限に食い止められる。いったんカヌーに乗り込んだら、もしくはソ連軍に遭遇したら、外套を脱ぎ捨てればよい。雑嚢の中には、兵卒に変装するときのために、海軍の制服(英国もしくは米国のもの)とドイツ国防軍の制服も入っていた」
■逃亡中のボルマンの様子について
「事前の打ち合わせでは、ボルマンは屈強で冷徹な謀略家に見えたが、今ここで敵の手中にいる一個人としてのボルマンは、非の打ちどころのない振舞いをしていた。不服も漏らさないし、癇癪(かんしゃく)を起こすこともない。私は一緒のカヤックに乗っているため、彼に接する機会がいちばんあるが、従順なだけでなく、協力的で勇ましく、かつ強靭な肉体の持ち主であった。驚くほどの腕力である。私の二倍近くあるかもしれない。私の覚えている限り、海軍の新兵で、ボルマンほど速くカヤックをこげる者はいなかった。障害物を越えての強行軍でもへこたれなかったし、判断力も確かだった。これなら、いかに海兵隊の鬼軍曹でもケチのつけようがない。いつしか我々は、彼にも何かと仕事を任すようになった」
■バーダムでの尋問について
「バーダムで、ボルマンは数ヶ月にわたり、秘密情報について集中的に尋問を受けた。800枚にもおよぶ報告書の各ページには、ボルマン本人と尋問担当官の頭文字が署名されている。この貴重な歴史的文書(バーダム文書)には、ボルマンの1920年代から1945年までの個人史とナチ党についての供述が記録されている」
「この供述の結果、彼とヒトラーの関係について興味深い事実が明らかになった。尋問開始当初、ボルマンはヒトラーを“総統”と呼び、指導者としてそれ相当の敬意を払っていた。ところが尋問が進むうち、“あの馬鹿なじじい”といった、もっとひどい言い方をするようになった」
「ボルマンは、1945年3月の時点で、この戦争に勝ち目はないことに気づいていた。その事実に直面しようとしないのは、権力を掌握しているあの男だけだ。冷静で計算高いボルマンは、いつそのような事態になっても、最後までヒトラーを利用しようと決心していたのである」
■ボルマンの隠匿工作について
「ボルマンがMセクションの担当者から尋問を受けている間、ヨーロッパのいたるところで彼を捜索する動きが展開していた。(中略)彼が発見されるのを阻止するためには、外見や態度から声までも、可能な限り変えなければならない。この問題について何回か話し合った後、モートンはふたたび形成外科医のアーチー・マッキンドーに依頼することにした。(中略)何回も手術を重ねたおかげで、ボルマンの容姿には微妙ではあるが見事な変化が生じた。耳の形は変えられ、唇は厚みを増した。手の甲は皮膚を移植され体毛が薄くなり、指紋も変えられた。鼻は少し削られて低くなり、額の傷は長く延長された」
■目的の達成部分について
「スーザンによると、2人の協力のおかげで“めざましい”成果が得られたという。手配中のナチ党員たちの行方が明らかになり、膨大な現金や宝石や金が回収されるなど、大きな収穫が得られた。自由世界の金融や経済を支配して第三帝国亡命政府を樹立しようという企みも阻止することができた」
■英国に滞在したボルマン
「1945年から1965年にかけて、ボルマンは英国で暮らした。しかしその間、ブラジルやアルゼンチンなどの南米諸国や他の地域に出かけた。そのときは必ずMセクションやCIA(OSSの後を受けて設立された)の監視付きであった」
■ソ連の追求と南米への逃避
そして1956年4月初め、ソ連指導者ブルガーニンとフルシチョフの公式訪問の直前、スーザンはアンソニー・イーデン首相に呼びつけられ、英国がボルマンをかくまっているという疑惑のおかげで厄介なことになっていると強い調子で叱責された。(中略)
1956年4月29日、ボルマンは護衛つきでアルゼンチンに飛び、そこでふたたびブラビノフと会った。しかしそのころには、彼の健康は悪化していた。まだ55歳であったが、世に知られずどこかで落ち着いて暮らしたいと願った。結局、パラグアイを安住の地と定めてひっそりと暮らし、長い闘病生活の末、1959年2月にこの世を去った。
ボルマンは地元の墓地に埋葬されたが、しばらくしてCIA、パラグアイ政府、ドイツ諜報機関との密約により、彼の遺体は掘り起こされ、ベルリンに送り返された。そしてユラップ・フェアグラウンドの砂に新たに埋葬され、それが1972年にうまい具合に発見されたというわけである」
■チャーチルの情報公開許可と007誕生秘話
「本書に記された物語は、多くの読者にとって信じ難いものであろう。私に言えるのは、半世紀以上も前に起き、(その性格上)ほとんど記録の残されていない作戦について真実を書き残すために、全力を尽くしたということだけである。私の文学的な創作力は限られていることもお断わりしておく。ストーリーを作り上げることなどできはしなかった。また、私には、ここに含まれた詳細な技術的情報の収集能力もなかった。それどころか、私は自分自身の記憶や、本書で語られている出来事の直後に私と私の同僚が作成した公式記録に頼らざるをえなかったのだ。
諜報担当士官としての私の仕事は、第二次世界大戦中はもちろん、その後も最高度の機密保持が要求された。この物語を公表することについて、私はサー・ウィンストン・チャーチルからもマウントバッテン卿からも書面による許可をもらっている。ただし、両人からは、それは自分の死後にしてほしいと念を押された。
また同時に、私のかつての同僚たちの生命を危険にさらすようなことはしてはならないとも命じられた。その後イアン・フレミングからも、私に、この物語の公表を促す手紙をもらったが、そのなかで彼は、大成功をおさめたジェームズ・ボンド小説の発想の源は実はこの共同作戦にあったことを明かしている」
少し長くなりましたが、戦後のナチスの財宝の行方は格好の小説のテーマなだけに、“事実は小説より奇なり”を地でいくこの本の中身は、かなりリアルで面白いと思います。
そういう意味では以前書いたベレゾフスキーは、“現代版ボルマン”といったところでしょうか(笑)。