あるマーケティングプロデューサー日記

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ドイツ空軍の誕生

2008-03-13 23:00:10 | インテリジェンスの歴史
この本で面白かった箇所の一つに、“いかにしてドイツ空軍は誕生し、強大になっていったのか”というテーマがあります。

その部分を、ちょっとここでご紹介したいと思います。

◆人・技術・戦争で大空軍に

第一次大戦のベルサイユ条約は、ドイツ国民に最後の屈辱的結末をもたらしたものであるが、この条約によって、ドイツは空軍力を持つことを一切禁止されてしまった。1922年までは、民間航空機の製作さえも禁止された。

しかしその後、民間航空機のほうは、上昇限度、速度および馬力などにある程度の制限付きで、製作を認められることになった。※中略

1924年、参謀総長ハンス・フォン・ゼークト陸軍大将は、自分が推薦したエルンスト・ブランデルク大尉を運輸省航空局長の地位にすえることに成功した。そこで、高度に中央集権化されたドイツ民間航空組織と軍との協力関係が確立し、それ以来ドイツの民間航空は、軍の利益を考慮しながら、大きく発展することになった。

◆民間航空から新空軍建設

時が経つにつれて、パイロットとしての現役将校の訓練に関するベルサイユ条約の制限は次第に緩和された。1926年には、陸軍で年に最高10人までのパイロットを養成することが許された。これは、表向きは気象上のデータを集めるためと、もう一つは、警察が必要とする場合に、空中からの支援に備えるため、という理由であった。

航空機製作の制限も緩和されて、1926年までには小規模であったが、効率良い航空機産業が既に存在していた。後に、空軍のため航空機の大量生産を受け持った殆ど全ての工場が、この時までに生まれていた。

ドルニエ社、フォッケウルフ社、ハインケル社、ユンカース社である。その頃ウィリー・メッサーシュミットという若い設計者は、ババリア航空機会社で、スポーツ用飛行機の設計に取り組んでいた。

いくつかの財政不健全な航空輸送会社が合併して、新しい国策航空会社ルフトハンザが生まれた。これは政府の後援をえたエアラインである。既にいくつかの小さな航空会社は、東ヨーロッパの国々への定期航空路を開いていた。

ルフトハンザ航空は、かつて、ドイツの敵であった諸国と数回にわたる交渉を重ねて、西ヨーロッパへの航空路を開くことを許された。この会社は、夜間および全天候飛行の技術を開発し、さらに改良も加えて、技術的には世界で最も進んだ航空会社の一つになったのである。

ルフトハンザの誕生後間もなく、軍の航空要員の小さな核が、この国策航空会社の中に生まれた。これらの軍の搭乗員達は、ルフトハンザの4箇所の飛行学校で訓練を受けたが、ベルサイユ条約の条項に対して、表向きでも従うとなると、ドイツ国内で戦術的訓練をするのは難しかった。そこで彼らは、より高度な軍事的飛行技術を習得するために、ソ連に行った。

◆ソ連で航空要員を訓練

1926年、ソ連政府と締結した秘密協定により、ドイツ人の戦闘機、爆撃機、偵察機の搭乗員は、モスクワから約350キロ南方のリペクツの軍用飛行場を使用することを許され、国籍表示のない、緑と金色に塗られたオランダ製のフォッカーD13に乗って、将来の航空戦に対する技術を熱心に学んだ。

有名なハインケルHe45および46偵察機、アラドAr68戦闘機、ドルニエDo11爆撃機など、新しいドイツ軍用機の試作機や搭載兵器の実験を進めていたのは、このりぺツクにおいてであった。※中略

しかし1920年代の後半、ドイツは全航空兵力についてわずかな予算しかなかったので、ソ連で訓練された航空要員は、極めて少なかった。やがて本国に帰ったこれらの陸軍将校達は、より進歩した、より制約のない空軍力を育てるべく、強い関心を持ち続けたのである。

アドルフ・ヒトラーが、1933年ドイツの全支配権を手に入れた時は、ちょうどこのような状態であった。軍事航空力の素地は既に存在していたが、“威力あるもの”とみなされるには、ほど遠いものであった(※写真は1935年4月20日、第134戦闘航空団がドイツ空軍に編入された時、式典に出席したヒトラーとゲーリング空軍司令官)」

ドイツ空軍の起源が、ルフトハンザ航空の一部だったという事実は、実に興味深いものがあります。今日大企業として知られている企業の中にも、こういった戦時における国策から生まれたものは、かなりありそうですね。

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