あるマーケティングプロデューサー日記

ビジネスを通じて出会った人々、新しい世界、成功事例などを日々綴っていきたいと思います。

読み応え満点の『CIA秘録』

2009-04-01 10:19:38 | インテリジェンスの歴史
最近一気に読んだ本が、この『CIA秘録』の上下巻です。

“噂・伝聞一切なし。機密解除文書5万点を使って書かれた ”というフレーズのこの本は、ニューヨーク・タイムズの記者が、5万点以上の機密解除文書、CIA元長官を含む計300人以上のインタビューを敢行し、書き上げたものです。

昨年度の全米図書賞を受賞したこの本の中には、歴史的な貴重な事実もかなり含まれています。

興味深かった部分を、一部抜粋します。

◆第12章「別のやり方でやった」自民党への秘密献金

占領日本を支配したダグラス・マッカーサー元帥は、CIAをそう草創のころから嫌い、信用していなかった。1947年から50年まで、東京のCIA支局を極力小さく弱体にして、活動の自由も制限していた。元帥には独自のスパイ網があったのだ。広島、長崎に原爆を投下した直後から構築し始めたものだった。CIAはこのスパイ網を、元帥から受け継ぐことになったが、これはいわば毒のもられた遺贈品だった。

マッカーサーを軍事諜報面で補佐していたのはチャールズ・ウィロビー少将だった。ウィロビーの政治的立場は、米陸軍の将官の間では最も右寄りだった。ウィロビーは1945年9月、最初の日本人スパイをリクルートすることで、戦後日本の諜報機関を牛耳ることになった。この日本人スパイは、戦争終結時に参謀本部第二部長で諜報責任者だった有末精三である。

有末精三中将は1945年の夏、戦勝国に提出するための諜報関係資料を秘密裏に集めていた。それが、敗戦後自分自身の身を守ることになると考えていたのだった。多くの高位にある軍人同輩と同じように、戦争犯罪人として起訴される可能性もあった。が、有末はかつての敵の秘密工作員となることを自ら申し出たのである。それはドイツのラインハルト・ゲーレン将軍がたどったのと同じ道だった。ウィロビーの最初の指示は、日本の共産主義者に対する隠密工作を計画し、実施せよというものだった。有末はこれを受けて、参謀次長の河辺虎四郎に協力を求め、河辺は高級指揮官のチーム編成にとりかかった。

1948年、アメリカの政治戦争の生みの親であるジョージ・ケナンは、日本については政治の改革より経済の復興がより重要であり、実際問題としても、実現が容易であると感じていた。ケナンはマッカーサーの政策に対して疑問を呈していた。日本の産業を解体し、解体した機材を戦時賠償のために中国に送る、共産主義者がいまにも中国を制覇しようとしているときに、そうした措置をとることにどういう理屈があるのか、とケナンは問いかけた。ケナンの力によって、アメリカの対日政策は1948年末までには急転換を遂げた。日本の当局者に対する戦争犯罪訴追の脅威と占領の懲罰的な性格は、緩和され始めた。これで、ウィロビー指揮下の日本人スパイにとっては仕事がやりやすくなった。

ウィロビーはその時の冬、暗号名「タケマツ」という正式な計画を発足させた。この計画は、二つの部分に分かれていた。「タケ」は海外の情報収集を目的とするもの、「マツ」は日本国内の共産主義者が対象だった。河辺はウィロビーにおそよ一千万円を要求し、それを手にした。スパイを北朝鮮、満州、サハリン、千島に潜入させること、中国、朝鮮、ロシアの軍事通信を傍受すること、それに中国本土に侵攻して制覇したいという中国国民党の夢を支持し、台湾に日本人の有志を送り込むこと、などを約束した。


この他にもケネディ政権の内幕など、生々しい真実が明かされています。

いろんな賞も受賞しているようで、なかなかの力作だと思います。

ドイツ空軍首脳不和の影響

2008-03-29 23:50:09 | インテリジェンスの歴史
引き続き、第二次世界大戦ブックスから。ドイツ空軍の首脳陣の複雑な人間関係を引きづりながら、開戦に突入していきます。(※写真は、大戦が近づくにつれ軍用機の量産に拍車がかかる軍需工場)

◆首脳部の不和

まず、平和だった最後の2年間に、ドイツ空軍首脳部に起こった変化に、目を向けてみよう。

既に述べたように、1936年、ケッセリンクはウェーバーの死後、空軍総参謀長の地位についたが、直属の上官であるミルヒとの軋轢が、次第に大きくなっていった。1年後、ケッセリンクはゲーリングに辞表を出した。ケッセリンクは第三航空軍司令官に転出し、彼の後には、前空軍人事局長ハンス-ユルゲン・シュツンプ少将が就任した。

しかし、総参謀長に就任したシュツンプは、任務が極めて容易ならぬものであるのを知った。絶え間ない拡張政策のために、とどまることを知らぬ組織の変革が必要であったが、そのために部下を十分掌握する時間がなかった。(※中略)

一方ミルヒ自身も、ヒトラーからあまりに大きい信頼と寵愛を受けていたので、ゲーリングから睨まれていた。ゲーリングは、ミルヒこそ空軍の指導者として手ごわい競争相手である、と見ていたのである。ミルヒは私(筆者/アルフレッド・プライス―1936年生まれ。英空軍将校として主としてジェット爆撃機で2,700時間の飛行経験の持ち主で、新進の航空戦史家として定評がある)に次のように話したことがある。

「ナチ党員のある人たちは、空軍の真の総帥は私であって、ゲーリングではないと言い始めていた。彼らがそう言ったのは、特に私に好意を持ったわけではなく、ゲーリングを憎んでいたからだ」

ゲーリングは、疑心暗鬼の恐怖にかられたので、ミルヒの側近にスパイを入れたり、またミルヒの持つ権限のいくつかを取り上げることによって報復した。このため、ミルヒは空軍総司令部の幕僚部門、および技術、人事両部門への直接の支配権をアッという間に失ってしまった。(※中略)

かくて戦争の前夜、ドイツ空軍のトップにいた四人の男―ゲーリング、ミルヒ、ウーデット、イエショネク―は、それぞれが任務を果たすのに不適格か、あるいは力がないという状況であった。(※中略)

このような状態にも関わらず、ミルヒとウェーバーが樹立した空軍の基礎は、戦争直前に発生したこうした分裂の危機に対し、まだしっかりしていた。しかしその後、この爆発寸前の首脳陣の対立が、敵による外側からの圧迫と重なり合った時、ドイツ空軍の指導力の貧困さは、重大な結果をもたらすことになった。

なぜなら、ドイツ空軍は、その首脳部に指導されることもなく、単に管理されるだけで、戦争に突入していったからである。


◆首脳陣の不和、新型機に影響

空軍総帥部が、このようにバラバラなために、やがて大きなミスが生じた。中でも最大のミスの一つは、Do17とHe111以後の全ての爆撃機は急降下爆撃が出来なくてはならない、というイエショネクの下した決定であった。この決定がもたらした諸問題は、後で次第に明らかになるはずである。しかしまず、その背後にある原因について考えてみよう。

高性能爆弾による爆撃効果を増大させるには、二つの方法がある。

その一つは、大量の爆弾を投下するために、大型機を使用するか、あるいは小型機をたくさん使用するかである。

もう一つは、爆弾の浪費を少なくするために、爆撃精度を向上させることである。

事実、爆撃精度をわずかに改善するだけで、効果は非常に増大するのである。戦前のドイツの標準型水平爆撃照準器、ゲルツ219照準器は、性能の悪いお粗末な計測器であった。

このような照準器を使って、水平爆撃機で針の先ほどの目標を破壊するには、多量の爆弾を投下しなければならなかった。ところが、Ju87急降下爆撃機は―この機種はスペイン内乱で実戦効果が認められた―極めて正確に攻撃できる、恐るべき能力があることを実証した。

こういうわけで、ドイツ空軍部内には、長距離用急降下爆撃機の熱烈な支持者が育っていた。(※中略)


◆次期爆撃機の開発に失敗

1938~1939年になると、新しい中型と大型の爆撃機が、試験飛行の段階に達した。それは15トンのドルニエDo217と、30トンのハインケルHe177であった。このニ機種は、製作工程の中間で、急降下攻撃ができるように修正することが決定された。しかし初めの飛行テストで、両機ともこの目的には極めて不適格なことが、すぐに実証されてしまった。

急降下から機体を引き落とす時に加わる加重があまりにも強すぎて、機体構造が、正規の操縦に耐え切れないことがわかったのである。(※中略)


ドイツ空軍首脳の反目し合う人間関係と、スペイン内乱での成功体験の呪縛が、この後に暗い影を落とし始めるにはまだ時間がかかります。ただ強いリーダーシップを発揮できない組織の脆弱性が、その後じわじわと戦局に影響してくるのを読んでいると、いつの時代でも優秀な人材とリーダーシップが重要なんだということを感じさせてくれます。

スペイン内乱での実践訓練

2008-03-24 23:02:06 | インテリジェンスの歴史
再び、第二次世界大戦ブックスからです。まだ創立したてのドイツ空軍が実践力をつける格好の練習台となったのが、スペイン内乱でした。


◆スペイン内乱での実践訓練

それは、スペイン共産主義共和政府に反抗するフランコ将軍の国家主義党軍を支援する、という形で行われた。

その時ドイツ空軍は、はじめわずか20機のユンカースJu52爆撃機と6機のハインケルHe51戦闘機を出動させたに過ぎなかったが、それでもこの貧弱な航空部隊は大きな功績をあげたのである。

フランコ将軍にとっては、彼に忠節な軍隊をモロッコ(北アフリカ)からスペイン本土へ移動させることが絶対必要であった。1日に4往復、一機が1回に25人の完全武装した兵員を運ぶユンカースJu52部隊は、短期間におよそ1万人の戦闘要員を移動させた。

このような大規模な空輸作戦が行われたのは史上初めてであり、不安定だったフランコ将軍の地位を固めるのに十分役立った。

しかし、その後まもなく、フランコの反乱部隊はさらに多くの救援が必要だということがわかった。そこで数ヶ月にわたり、ドイツ空軍派遣部隊の増強が続けられ、11月にはその名も「コンドル」軍団と名づけられ、約200機の勢力となった。その約半数はユンカースJu52爆撃機とハインケルHe51戦闘機で、残りは偵察機、地上襲撃機および輸送機であった。

初めの数ヶ月、この部隊はほとんど成果を上げることができなかったが、それは、人民戦線軍に使用されていた近代的なソ連製ポリカルポフ・イー16単葉戦闘機に対して、He51戦闘機が劣っていたためであった。(※中略)

スペインの上空で、ドイツ戦闘機隊は、みずからの戦術をあみだすために自由にふるまうことができた。かれらはまず、イタリア空軍がもちいている翼と翼とがふれあうほどの密集隊形飛行からはじめた。(※中略)


◆新隊形と新戦術

結局、ウェルナー・メルダース中尉があみだした、散開した「四つ指」隊形が、火力の集中と行動の自由性とに、もっとも合理的であることがわかった。(※中略)

スペインでの経験は、ドイツ空軍の将来の方針に重要な影響をもたらしたが、その一つは、戦闘機としては旧式になったHe51を、地上襲撃機として活用する方法を見つけたことである。(※中略)

He51は9機以下で密集隊形をつくり、約150メートルの低空で侵入する。編隊長が激しく機首を振るのを合図に、パイロットはいっせいに搭載物を投下する。この戦術は殆どの場合、成功した。なぜなら、この時代には、空からの攻撃は地上軍に恐怖心を与える効果があり、兵士達は飛行機の姿が見えると、抵抗するどころではなかったからである。

コンドル軍団の参謀長ウォルフラム・フライヘル・フォン・リヒトホーフェン大佐(第一次大戦のエースのいとこ)が、この新戦法の開拓者であった。(※写真はスペインから凱旋したコンドル軍団を閲兵するゲーリング:後ろにウォルフラム・フォン・リヒトホーフェン大佐が見える)


スペインの内乱に介入することで、新生ドイツ空軍は実践訓練を積み、装備だけではなく、戦術の確立と優秀なパイロットの養成という目的を達します。短期的には周辺諸外国と比較しても十分な戦闘遂行能力を保持していましたが、長期的には重大な欠陥が生じていたのです。

新ドイツ空軍の三首脳

2008-03-16 20:29:47 | インテリジェンスの歴史
今日は、新ドイツ空軍の指導層を見ていきたいと思います。

◆新空軍の三首脳

ここで、新ドイツ空軍の指導的地位を占めた人達に焦点を当ててみよう。

空軍総司令官はヘルマン・ゲーリングで、彼は実力があり、精力にあふれた政治的指導者でもあり、力量と信望は頂点に達しつつあった。しかもナチ党の創設以来、ヒットラーの最も親密な友人であり側近でもあったから、彼の地位はゆるぎないものであった。また、20機撃墜という第一次大戦の戦闘機乗りのエースという声望を持ち、こと航空に関しては“権威”であると自負していた。

しかしゲーリングは、1918年以後、飛行機から遠ざかっていた歳月の間に航空界に生じた大変化をほとんど理解できず、新しい航空時代から取り残されていた。ところが、とりわけ自己顕示欲の強いゲーリングは、何事も新空軍に結びつけて、自分で処理しようとする傾向があった。彼は、どんな任務でも、空軍が関係せずに遂行されるのを許さなかった。その上、部下の忠告を聞くことも嫌がった。

それにも関わらず、ゲーリングは、その政治的影響力を利用して、例えば資材の配分については、陸海軍よりも空軍の優先権を確保した。こうした強引さと非妥協的性格から、彼は、陸海軍の総司令官とは永久に仲たがいしたままであった。

ゲーリング直属の部下は、エアハルト・ミルヒ次官である(※写真/ニュルンベルク裁判で、弁護を担当する兄ヴェルナーと接見するエアハルト・ミルヒ ウィキペディアより抜粋)。ミルヒは、疲れを知らぬ有能な活動家であり、同時に健康な実務家であった。

空軍に入る前は、国策航空会社ルフトハンザの支配人だったので、航空機の運用について、詳しい知識を身につけており、ミルヒがいよいよ空軍を建設することになった時、これが大変役に立った。

ミルヒに続く地位にいたのは、空軍作戦部長ワルター・ウェーバー大将である。歩兵出身だが、新空軍に転じたウェーバーは、ナチズムの熱心な信奉者であった。

ウェーバーは、自分の職務に非常な熱意をもってぶつかった。46歳で飛行機の操縦を学び、部下達と一緒に、新しく発見した技術に熱中した。彼は極めて優れた空軍参謀で、新生の空軍が避けられぬ生みの苦しみを、和らげるのに尽力した。

その上如才なさと、必要な時には縁の下の力持ちになるのを厭わぬ性格なので、ウェーバーは、ゲーリングともミルヒともうまくやり、その地位を保つことができた。

この三人のもとで、ドイツ空軍は急速に発展していったのである。


どんな組織でも、その創立時には創業メンバーのチームワークが重要です。新ドイツ空軍をベンチャー企業に例えると、この3人が創業メンバーと言えるでしょう。初期の売上が確保され、インフラも整い、いよいよ成長期に入っていく過程を、次回は見ていきたいと思います。

ヒトラー、空軍建設を推進

2008-03-15 15:11:28 | インテリジェンスの歴史
再び、第二次世界大戦ブックスからドイツ空軍の歴史について。

ヒトラーが国内の権力を完全に掌握した後、どのようにドイツ空軍を建設していったのか。その辺を今回は、見ていきたいと思います。


◆ヒトラー、空軍建設を推進

しかしヒトラーは、“ドイツ生活圏の拡張”という目標を達成するためには、強力な空軍を保有することが重要な条件であると考えていた。そこで新政府が発足すると殆ど同時に、軍事航空の発展に拍車がかけられた。ヒトラーの代理人であるヘルマン・ゲーリングが、まず航空大臣兼空軍総司令官に就任した。

しかしゲーリングはナチ党の重要な幹部でもあったので、空軍に専念できる時間はほとんどなかった。そこで、この新設の空軍を鍛える仕事は、次官のエアハルト・ミルヒの肩にかかったのである。

ミルヒは、巨大な仕事に立ち向かった。

その仕事を遂行するために、ナチ政権の完全な支持と、合理的に使用できる資金と資材を受けることができた。ミルヒは、極秘のうちに新しい飛行学校や飛行場や生産工場の建設を命じた。また多くの航空機製造会社に、大量の航空機を発注した。

ミルヒの要求はあまりにも膨大なので、全航空機工業界に波紋を呼び起こした。一例をあげると、1933年初頭、ドイツの航空機製造会社の大手の一つであるユンカース社の能力は、ユンカースJu52輸送機を年間わずか18機生産する程度であったが、ミルヒは、2年以内に200機を完成させるように発注した。他の会社も同じような発注を受け、新工場を建設するための気前の良い政府援助を受けたのである。


◆新型機での訓練に重点

ミルヒがはじめて大規模な生産命令を出した新型戦闘機は、ハインケルHe51で、これは最高時速330キロを出す複葉機で、7.9ミリ機関銃二挺を装備していた(※写真参照/ドイツ空軍が正体をあらわすまでは、民間航空機の標識をつけていた)。※中略

しかしミルヒとしては、これらの飛行機はたんに暫定的なもので、生産ラインを開発するのに役立たせ、搭乗員に合理的な新型航空機の経験を与えるつもりだったのである。※中略

ミルヒの狙いは、新しい時代の戦闘用航空機が実用化されたとき、ドイツが、それを受け入れる能力を持つことであった。

この目標に合わせて、新空軍が最初に力を注いだのは訓練であり、発注された飛行機の半数は、フォッケウルフFW44、アラドAr66などの練習機であった。

1935年(昭和10年)3月になると、ドイツはかねてから秘密にしていた空軍は、もはや世界に誇示するにたる強力なものだと考えた。今や空軍は、各機種合わせて1888機の飛行機と、2万人の将兵を持っていた。華やかな航空ページェントが繰り返し開かれるうちに、極度に専門化された飛行クラブや警察航空組織が、一つ一つ新空軍に編入されていった。これらのページェントには、ヒトラーも出席していた。

国外では、ドイツ空軍の発展は、容易ならぬものと疑惑の目で見られ、この新しい脅威に対して、ヨーロッパ諸国は軍備を拡充し始めた。軍備競争が、開始されたのである。


ドイツ空軍は、ゲーリングの下で次官エアハルト・ミルヒという有能な実務者が存分に腕をふるい、潤沢な資金と資材を活用しながらインフラを構築していったのです。

第一次世界大戦後のドイツ空軍の“事業承継”が、その後どのようなプロセスをたどっていったのか。

明日は、その空軍内の首脳陣模様を書きたいと思います。

ドイツ空軍の誕生

2008-03-13 23:00:10 | インテリジェンスの歴史
この本で面白かった箇所の一つに、“いかにしてドイツ空軍は誕生し、強大になっていったのか”というテーマがあります。

その部分を、ちょっとここでご紹介したいと思います。

◆人・技術・戦争で大空軍に

第一次大戦のベルサイユ条約は、ドイツ国民に最後の屈辱的結末をもたらしたものであるが、この条約によって、ドイツは空軍力を持つことを一切禁止されてしまった。1922年までは、民間航空機の製作さえも禁止された。

しかしその後、民間航空機のほうは、上昇限度、速度および馬力などにある程度の制限付きで、製作を認められることになった。※中略

1924年、参謀総長ハンス・フォン・ゼークト陸軍大将は、自分が推薦したエルンスト・ブランデルク大尉を運輸省航空局長の地位にすえることに成功した。そこで、高度に中央集権化されたドイツ民間航空組織と軍との協力関係が確立し、それ以来ドイツの民間航空は、軍の利益を考慮しながら、大きく発展することになった。

◆民間航空から新空軍建設

時が経つにつれて、パイロットとしての現役将校の訓練に関するベルサイユ条約の制限は次第に緩和された。1926年には、陸軍で年に最高10人までのパイロットを養成することが許された。これは、表向きは気象上のデータを集めるためと、もう一つは、警察が必要とする場合に、空中からの支援に備えるため、という理由であった。

航空機製作の制限も緩和されて、1926年までには小規模であったが、効率良い航空機産業が既に存在していた。後に、空軍のため航空機の大量生産を受け持った殆ど全ての工場が、この時までに生まれていた。

ドルニエ社、フォッケウルフ社、ハインケル社、ユンカース社である。その頃ウィリー・メッサーシュミットという若い設計者は、ババリア航空機会社で、スポーツ用飛行機の設計に取り組んでいた。

いくつかの財政不健全な航空輸送会社が合併して、新しい国策航空会社ルフトハンザが生まれた。これは政府の後援をえたエアラインである。既にいくつかの小さな航空会社は、東ヨーロッパの国々への定期航空路を開いていた。

ルフトハンザ航空は、かつて、ドイツの敵であった諸国と数回にわたる交渉を重ねて、西ヨーロッパへの航空路を開くことを許された。この会社は、夜間および全天候飛行の技術を開発し、さらに改良も加えて、技術的には世界で最も進んだ航空会社の一つになったのである。

ルフトハンザの誕生後間もなく、軍の航空要員の小さな核が、この国策航空会社の中に生まれた。これらの軍の搭乗員達は、ルフトハンザの4箇所の飛行学校で訓練を受けたが、ベルサイユ条約の条項に対して、表向きでも従うとなると、ドイツ国内で戦術的訓練をするのは難しかった。そこで彼らは、より高度な軍事的飛行技術を習得するために、ソ連に行った。

◆ソ連で航空要員を訓練

1926年、ソ連政府と締結した秘密協定により、ドイツ人の戦闘機、爆撃機、偵察機の搭乗員は、モスクワから約350キロ南方のリペクツの軍用飛行場を使用することを許され、国籍表示のない、緑と金色に塗られたオランダ製のフォッカーD13に乗って、将来の航空戦に対する技術を熱心に学んだ。

有名なハインケルHe45および46偵察機、アラドAr68戦闘機、ドルニエDo11爆撃機など、新しいドイツ軍用機の試作機や搭載兵器の実験を進めていたのは、このりぺツクにおいてであった。※中略

しかし1920年代の後半、ドイツは全航空兵力についてわずかな予算しかなかったので、ソ連で訓練された航空要員は、極めて少なかった。やがて本国に帰ったこれらの陸軍将校達は、より進歩した、より制約のない空軍力を育てるべく、強い関心を持ち続けたのである。

アドルフ・ヒトラーが、1933年ドイツの全支配権を手に入れた時は、ちょうどこのような状態であった。軍事航空力の素地は既に存在していたが、“威力あるもの”とみなされるには、ほど遠いものであった(※写真は1935年4月20日、第134戦闘航空団がドイツ空軍に編入された時、式典に出席したヒトラーとゲーリング空軍司令官)」

ドイツ空軍の起源が、ルフトハンザ航空の一部だったという事実は、実に興味深いものがあります。今日大企業として知られている企業の中にも、こういった戦時における国策から生まれたものは、かなりありそうですね。

第二次世界大戦ブックス発見

2008-03-12 23:02:03 | インテリジェンスの歴史
中学生の頃、近所の図書館で見つけ夢中になって読んだ本の一つに『第二次世界大戦ブックス』があります。

1970年に出版された名シリーズで、熱中された人も多いと思います。この本の大きな特徴は、元軍事関係者がその高度な専門性と豊富な客観的事実をベースに様々な軍事的局面を分析し、解きほぐしてくれるところです。

そんな本を、偶然オフィスの近所の古本屋で資料探しをしている時に見つけました。

このブログでは、この貴重な文献の面白い部分をできるだけ紹介していきたいと思います。

まず1回目は、『ドイツ空軍-ヨーロッパ上空、敵なし』です。

「はじめに」の章で書かれている、元ドイツ空軍中将アドルフ・ガーラントの指摘は秀逸です。

「第二次世界大戦中のドイツ空軍の活動を、簡単に説明するのは、容易なことではない。もしこの説明を、200ページあまりの本書に圧縮するとすれば、ドイツ空軍の重要な戦略的、戦術的概念と、戦争そのものの輪郭とを、記述する程度になってしまうであろう。

しかし、著者のアルフレッド・プライス英空軍大尉は、この歴史にとどめるべき重要な問題を、ゆたかな学識と適切な資料にもとづいて、よくまとめている。時には、冷酷ともみえる記述のなかに、筆者の体験による説明を随所に取り入れて、味わいぶかく魅力的な著作にしている。おそらく本書は、戦争の流れをよく知らない読者にも、あざやかな映像を、心に浮かばせるであろう。

ドイツ空軍のめざましい立ち上がりから、ヒトラーの電撃戦を可能にした初期の壮大な成功、そして、ついにはフランスにおける戦闘の終結まで、それはドイツ空軍の長い苦しみの歴史であった。

著者は、栄光から破滅へと、ドイツ空軍のたどった道が、上層部の指導力の欠如や指導者間の陰謀によるものかどうかの疑問はそのままにしているが、この問題を注意深く処理している。

著者は、ドイツ空軍の運命を左右したのは、その不死身と言われる神話を打ち砕き、経験豊かな優秀な搭乗員を多数失わせた英本土航空決戦(バトルオブブリテン)にほかならない、とみている。英本土航空決戦の結果に対する著者の評価は、基本的な原因のカギを明らかに見過ごしているけれども、次の二つの観点から見れば正しいと言える。

第一には、ドイツ空軍はドゥヘットの言葉を借りれば、“戦術空軍であって、戦略空軍ではなかった”こと。事実、ドイツ空軍は戦略空軍として使用された時は確実に失敗しているからだ。第二には、のちには航空司令官となるべき飛行隊の隊長や指揮官の多くが、“英本土航空決戦”で戦死してしまったからである。

著者は客観的で偏見のない説明を加えて、この本を魅力的なものにしている。
※中略

著者が述べている作戦行動は、技術の進歩と現代の核戦略理論にてらしてみれば、比較的古めかしい点はあるにしても、それは今なお生きている歴史の一コマであり、少なくとも、人々の関心を呼び起こすに足るものである。

その上本書は、さらに詳細な研究と批評的評価をうながす数多くの示唆を与えている。おそらく若いドイツの歴史家の何人かは、ここから、論議の筋道を拾い上げるに違いない。それは、極めて望ましいことである」

元ドイツ空軍中将という軍トップクラスの人物の言葉だけに、この言葉は説得力に満ちており、読む気にさせるには十分な迫力があります。

事実物語『ヒトラーの贋札』

2008-01-27 14:29:52 | インテリジェンスの歴史
“事実は小説よりも奇なり”―これを地でいっているのが、強制収容所でナチス・ドイツの贋札作りに関わったアドルフ・ブルガー著『ヒトラーの贋札』です。

史上最大の紙幣偽造作戦、「ベルンハルト作戦」。強制収容所に収容されていたユダヤ人の中で、印刷業、製紙業に従事していた職人でドイツ語に堪能な人間が選ばれ、偽造紙幣業務に従事させられた実在の事件です。

1942年9月、ザクセンハウゼンに集められた印刷業者、銅板画家、銀行で重要な地位についていた者、最新技術の教育を受けた者など計26人は、親衛隊少佐ベルンハルト・クリューガーの指揮下で、イギリスポンドの贋札の製造を開始します。

この製造集団は、2年後には144人にまで膨れ上がります。写真製版で作られた刷板は銅板画部門に送られ、銅板画家が電需版に描かれた点や線を一つ残らず正確に彫ったのです。

印刷が終わると、紙は断裁部門と検査部門に引き渡されました。検査担当官は全員銀行で働いたことのある囚人ばかりで、下から強い光を当てて一枚一枚、丹念にチェックしました。

面白いのは、ここで終わらないことです。偽造紙幣は、印刷された後4つのカテゴリーに分類されました。

◆第1カテゴリー/あらゆる点で完璧なもの
◆第2カテゴリー/ミスはあるが、ほとんど肉眼では見分けのつかないもの
◆第3カテゴリー/印刷ミスがはっきり認められるもの
         →イギリス通貨の信頼を落とすためにイギリス上空から配布
◆第4カテゴリー/明らかな失敗作で廃棄処分

ここで選別された紙幣は使用済みと見せかけるために、汚してから皺をつけ、500枚ごとにまとめて帳簿に記録されました。

しかも、イギリス人のクセまで反映させていました。イギリス人はお金をピンで止めてそのままポケットに入れる習慣があったので、偽造工房にも紙幣に安全ピンで止めた痕をつける特別なグループがあったのです。

完成した紙幣は、数百ポンドにのぼりました。これらの製造量は、偽造工房の班長だった元レジスタンスの人間が命がけで監視の目を逃れて、紙幣の製造量とその搬出量を逐一記録していたため、戦後正確に把握できたのです。

本書は、映画『ヒトラーの贋札』(ドイツ・オーストリア合作)の原案本でもあります。事実に基づいた精緻な構成と記述には、ただただ圧倒されます。

自分の命が明日にはないかも知れないという極限状況での、したたかな計画と勇気ある数々の行動。そこには、学ばされるものが数多くあります。

プロが示すインテリジェンス交渉術の実例

2007-08-19 00:03:02 | インテリジェンスの歴史
こんばんは。

前回に引き続き、今月の文芸春秋からもう一つ。『自壊する帝国』で有名な元外務省外務事務官佐藤優氏の『インテリジェンス交渉術』という記事が、非常に面白かったのでご紹介します。

ビジネスマン必見と謳っているだけあって、世界外交の駆け引きの実態が生々しく語られています。以下引用します。

筆者が現役時代、ロシアにおける情報収集活動で重視したのは、失脚した要人である。ソ連時代に共産党政治局員や中央委員を務めた人々は、「権力の文法」がわかる。従って、筆者が別のところで入手した情報をあてて分析や評価について質すと、旧権力の中枢にいた人々は実に正確で深い分析を提示してくれた。

筆者の印象では、これらの人々は現政権に対する反発から協力してくれたというよりも、重要な政局の問題について意見を求められるのが嬉しいのである。

かつて権力の中枢にいて、5分の面会時間を捻出することにも苦労していた人々が、突然仕事を奪われると、形容しがたい寂しさに襲われる。この寂しさを利用することも、インテリジェンス交渉術においては重要だ。

(※中略)

人間にとって一番大切な価値は生命だ。当時、北方領土の病院は、メスの代わりにカミソリを使い、手術に工業用のノコギリが使われ、医薬品もほとんどないという悲惨な状態だった。そこに日本がレントゲン施設や病院を寄贈し、「住民の生命を守ってくれるのは、モスクワやユジノサハリンスクではなく東京だ」という雰囲気を醸し出した。しかし、日本外務省はそこに“毒”を入れておいた。

日本政府の立場としては、北方四島はロシアに不法占拠された状態である。従って、ロシアの不法占拠を追認したり、強化することにつながるインフラ整備は行えない。そこで、病院やレントゲン施設にしても、あえてプレハブ施設にした。ロシア側が図に乗って、日本の利益に反する行動をとったらいつでも解体、撤去するという含みをもたせたのだ。

病院、レントゲン施設を供与した後、現地の対日感情は目に見えて好転した。日本外務省は更に知恵を働かせた。北方四島のライフラインを本格的に日本が握ることを考えたのである。(※中略)

狡猾な日本外務省のロシア屋たちはここに目をつけた。人道名目で、ディーゼル発電機を供与する。ただし、発電容量は民生用ぎりぎりで産業には使えないようにする。しかもロシア製ではなくメンテナンスが難しい日本製にし、重油も日本が供給する。そうすれば、日本が北方領土のライフラインを握ることができると考えた。そもそも外交の世界に純粋な人道など存在しない。常に「人道」は名目で、自国の保全、機会があれば増進を狙っているのだ。

しかし、その狙いを公言すれば、ロシアは「そんな人道支援はいらない」と断ってくる。事実ロシアは、日本の狙いに気付き、「電力支援は歓迎するが、ぜひ地熱発電にして欲しい」と言ってきた。確かに国後島、択捉島は火山島なので地熱発電が可能だ。地熱発電だと、一旦施設を設置したら、ロシアは電力を自由に得ることができる。それは現地のライフラインを握るという日本の戦略に合致しない。

そこで日本の外務省は、エリツィン大統領から「ディーゼル発電機がいい」という言質をとることにした。クレムリンに「エリツィン大統領との関係を強化するためには北方四島にインフラ整備を行わないという従来の方針を覆し、ディーゼル発電機を供与するという腹を日本政府は固めた」という情報を事前に流し、その上で、1999年4月の静岡県伊東市川奈で行われた首脳会談で、橋本首相から「ディーゼル発電機でどうか」と水を向けてもらい、エリツィン大統領から「それでいい。ありがとう」という言質をとったのである。

この発言を盾に日本側は、「エリツィン大統領がディーゼル発電機と言っているのに、あなたはそれに反対するのか」というと誰もが黙った。ロシアでは大統領の発言は絶対だ。

ここには、プロフェッショナルのやり方の一例が示されています。感情論ではなく、徹底した機能論で推し進めていく。正確な情勢分析とそれに基づく戦略。この場合の最終GOALは、“日本の国益”です。

上記の事例は民間のビジネスシーンに置き換えると、元有名企業の社長を顧問に迎えたり、ライセンス供給での駆け引き等、似た状況はたくさんあります。そこの“原理を読み取る”ことができ、“有効な手を打てる”ことが、交渉術で勝つための重要なファクターなのではないでしょうか。

秘密尋問所 トレイシー収容所

2007-08-12 12:17:21 | インテリジェンスの歴史
こんにちは。

この時期になると,いろんなメディアで終戦特集が組まれます。

先日もNHKスペシャルで、『秘密尋問所トレイシー~日本人捕虜が語った機密情報~』を放送していました。

イージス艦のミサイル情報が日本側から漏れ、アメリカ軍の最新戦闘機の供給停止問題にまで発展している昨今、やはり情報戦の優劣が勝敗を決する現実を、日本はもっと歴史から学ぶ必要があるような気がします。

そういう意味では今回のNHKスペシャルの企画は非常にタイムリーで、かつ内容も充実していました。アメリカは物量だけでなく、情報戦でも日本を圧倒していたことがよくわかります。

サンフランシスコ郊外にあったトレイシー収容所。

そこはアメリカ軍でも一部の者しか知らされていなかった特殊施設で、太平洋戦争で捕虜になった日本人から機密情報を入手し、戦争の遂行及び終戦工作に活用していました。以下ポイントを列挙します。

■アメリカ軍は捕虜による情報収集を非常に重視していた
■捕虜を捕らえるとすぐ情報将校や日系二世の兵士が尋問を行っていた
■太平洋戦争でアメリカ軍の捕虜になった日本兵は約1万人
■前線で尋問され、より高度な機密情報を持つ2,000人の日本兵が移送された
■得られた機密情報の記録は、計1万ページを超える
■日本軍の暗号のルールも尋問によって入手されていた
■戦艦の装備も全て捕虜のスケッチで入手されていた
■日本国内の基地や石油備蓄所、工場についてもスケッチで入手されていた
■トレイシーで得られた情報は、アメリカ海軍諜報部と陸軍諜報部に送られ、国務省や戦時情報局、戦略情報局(※後のCIA)にも送られた
■日本海軍の捕虜に対する尋問マニュアルには、レーダー、機雷や魚雷、戦闘機、潜水艦などの兵器データを収集するように指示され、質問リストまで作成されていた
例、魚雷をいくつ積んでいたか
例、爆薬の重さはどれくらいか
■日本語の質問書も作成され、質問を正しく理解させる仕組みまで作っていた
■アメリカ軍がトレイシーで集めた日本の艦船の情報は、30隻を越える
■トレイシーはかつて温泉リゾートで、第二次世界大戦時にアメリカ軍が接収した
■尋問は一日20人に行われ、捕虜部屋は二人一組だった
■戦陣訓に縛られた口の堅い日本人捕虜に対しては、様々な手が打たれた
例、日本人が祝日としていた紀元節には宴会を開き、酒を与えた
例、二十歳を迎えた捕虜には誕生日パーティーを開き、アイスクリームとコーラを与え、トランプで遊んだ
■トレイシーでは40人の尋問官が働き、総勢100人を超えていた
■一番求められたのは“情報の正確性”で、確認が取れるまで何度もチェックされた
■部屋での捕虜同士の会話を盗聴し、尋問に活用していた
■名古屋の三菱重工業の工場では、日本の戦闘機の32%が作られていると分析していた
■名古屋出身の捕虜にB29撃墜能力を持つ雷電の組み立て場所まで聞き出していた
■上記の情報を元に、サイパン発のB2990機が名古屋の工場を効果的に爆撃した
■硫黄島での戦いで捕虜になった日本人には、“どうすれば日本は降伏するか”を優先事項として全員に尋問した
■トレイシーにいた尋問官は戦後戦略爆撃調査団として来日し、名古屋の三菱重工業の工場をはじめ爆撃の成果を調査した
■さらに政治家や財界人、一般市民4,000人に尋問を行い、爆撃の効果を分析した

秘密尋問所の膨大な記録は、アメリカ国立公文書館に保管されていました。ファイルの所在は殆ど知られておらず、今回の取材で明らかになったそうです。

アングロサクソンは歴史上、戦争に負けたことがないという話を聞いたことがありますが、彼らの強さの理由の一つはこういった情報戦略に非常に強いということがあると思います。

トヨタVS日産の情報戦の内幕

2007-07-02 00:05:10 | インテリジェンスの歴史
こんばんは。

読売新聞特別取材班著の『トヨタ伝』という一冊の本があります。

従業員数7万人、年間生産台数700万台、経常利益1兆円、50年間赤字なし…。創業70年を目前にした、世界に冠たる“常勝企業”の内幕とは。―そんなコピーで綴られたこの本は、多数の取材を通じてトヨタの強さのメカニズムを浮き彫りにしています。

産業立国日本が世界に誇るガリバー企業トヨタ。そこでも、熾烈な情報戦が繰り広げられていました。その一部を、ここにご紹介します。

◆情報戦

「日産は、サニーを売り出す前に負けていた」

そう証言するトヨタの元役員がいる。カローラを開発しているころ、トヨタ自販や自工の首脳は、日産の大衆車開発状況をかなりの確度でつかんでいたというのである。

当時トヨタ自工の技術担当役員のもとには、「情報報告書」という表題の極秘文書が定期的に届けられていた。それには、ライバルの日産を中心に、他社の新車開発状況や販売体制などの驚くべき情報が詳細に記されていた。

長谷川らがカローラの開発を急いでいた1964年11月26日の「情報報告書」には、<日産がパブリカ対向車の部品納入を指示>と記されていた。

系列会社に対して、パブリカ対向車の部品を生産し、納入するように指示した、というのである。さらに、大阪で日産の販売店が新設され、パブリカを売っていたトヨタ系列販売店の幹部がそこに引き抜かれた、ともあった。

ライバル社の情報は、トヨタ自販が中心となって、関連企業や工場、販売店から幅広く集められ、分析が加えられた後、役員や技術陣に届けられて、対応策が練られた。

約20日後の12月15日付の「情報報告書」にも興味深い情報が盛られた。報告書の一行目には<日産自動車 800cc乗用車 本格的発売準備か>とあった。

<12月18日、日産自動車と、(関係会社の)愛知機械工業で緊急の合同首脳会議が開かれた模様である>
<昭和40(1965)年4月目標で生産販売の体制の準備をする>
<自社開発の800ccエンジンを基本とし、愛知機械工業で生産する。但し、材料はすべて日産負担>(※中略)

油断はできない。情報を時系列に並べ、日産が何を考え、どう対応しようとしているのか、そして開発、販売能力をつかむことに意味があるのだ。情報報告書には、日産の工場や部品を作る関係企業の生産能力や販売店会議の会議内容、そして、日産が岡三証券を通じて、名古屋に本社を置く愛知機械工業の株を大量に購入し、資本参加したことも記してあった。

そしてついに、トヨタは、日産が800ccと平行して、サニーへとつながる1000cc車の開発を検討していることをつかむ。サニーの宣伝が始まった当初、トヨタ技術陣がさほど驚かなかった理由はそこにもある。(※中略)

ただこつこつとモノづくりをしているだけではないのである。スマートな日産に対して、貪欲で格好をつけないトヨタは、あらゆる所から組織的に情報をかき集め、諜報戦で優位に立っていた。

その上マスコミの操作に長けていた。

カローラの発売に合わせて、サンデー毎日に情報を提供し、カラーグラビアと、「新車カローラの秘密」と題する7ページの内幕物語を掲載させている。この11月6日号の表紙は、カローラ設計スタッフの写真である。

トヨタの元役員は「情報なくして、企業の進歩はありませんよ」とこともなげに言う。

「カローラの登場で日産の技術陣が驚いたとしたら、そのほうがどうかしてる。日産のカク秘設計図なんか見る必要もなかった。日本のメーカーだけでなく、トヨタは世界の企業の情報を集めています。スパイなんてものじゃない。それは企業にとって当然のことだ。情報を取ったうえで、技術力の戦いがあるんです」

日本は戦争に負けましたが、戦後の経済戦争、少なくとも自動車産業では勝利を収めつつあるようです。その大きな要因の一つは、上記のトヨタの元役員の言葉にもあるように情報戦略の認識度の違いでしょう。

自動車産業という技術の粋が集結する産業で世界的勝利を収めつつあるトヨタには、いろんな勝利の法則がまだまだ隠れている気がします。

ヒトラーの側近No,1の隠された戦後

2007-06-12 06:04:35 | インテリジェンスの歴史
おはようございます。

マルチン・ボルマンという人物がいます。

1945年11月、ナチス・ドイツの戦争責任を追及するために連合軍が開いた「ニュルンベルク裁判」は、起訴されたA級戦犯22名のうち、ヘルマン・ゲーリング(執行前日に自殺)やヨアヒム・フォン・リッペンドロップなど半数の11名が絞首刑を受けるという厳しい内容でした。

絞首刑を受けたリストの中でただ1人だけ逮捕を逃れ、死刑執行も免れた大物、それがマルチン・ボルマンです。

敗戦直前までナチスの副総統であり、総統秘書長、ナチ党官房長として絶大な権力を振るっていた彼の首にはあちこちから賞金をかけられ、ヨーロッパのいたるところで彼を捜索する動きが展開されましたが、その存在を明らかにすることはできませんでした。

そしてその謎に対する答えを明示した一冊の本が1997年出版され、話題を呼びました。

『ナチスを売った男』と題されたこの本を書いたのは、元イギリス諜報部員のクリストファー・クライトン。

当時イギリス首相チャーチルの関心事は、ナチスがヨーロッパの敗戦国から略奪した莫大な財産にありました。

ナチスの指導者たちが隠匿した現金、ゴールド、宝石、美術品、財産証書を連合国がいかに奪還するか―チャーチルの指示を受けた英国情報部のデズモンド・モートン長官は、1945年1月21日に極秘作戦『ジェームズ・ボンド作戦』(JB作戦)を立案します。

ちなみにこの作戦の総指揮はイアン・フレミング中佐で、あのジェームズ・ボンドの生みの親であり、007の主人公の名前の由来はこの作戦名からきています。

以下に目次を記します。

◆第1章/接触…ナチス外相の密使
◆第2章/背景…諜報員の誕生
◆第3章/指令…ヒトラーの財宝
◆第4章/犠牲…工作員パトリシア
◆第5章/着任…バーダムの侵入者
◆第6章/標的…党員番号60508
◆第7章/乱心…フォーキナーの秘密
◆第8章/再会…売国奴の紳士協定
◆第9章/水路…先遣隊潜入
◆第10章/廃墟…第三帝国の惨状
◆第11章/偽装…ボルマンの替え玉
◆第12章/新人…アイクの代理人
◆第13章/降下…ピグレットの小屋
◆第14章/拉致…カナリスの書類
◆第15章/脱出…戦火のベルリン
◆第16章/帰還…同志ナターシャ大佐
◆第17章/救出…切り離し作戦
◆第18章/謀略…モートンのメモ

この本がただの創作ではないと思われるリアルなシーンを、いくつかご紹介します。

■ベルリン脱出について

「移動手段はカヤックまたは軍用カヌーに最適なため、計画初期の段階から、作戦は水上を中心に行なうことに決まった。つまり、拉致班はシュプレー川とハーフェル川づたいに西(下流)にこっそり去ることができる。それから巨大なエルベ川を北西に進み、前進中の連合国軍と合流する。我々には、こうした作業をこなすことのできる人材も機材も経験もあった」

「脱出の際の服装だが、フレミングとブラビノフ、私は次のような格好をすることにしていた。ウルスラの防水ジャケットとズボンを改造したものに、ソビエトの特殊諜報部の記章を付ける。ただし帽子と外套はナチスのSSのものにする。地下壕の周辺では、この出で立ちで、正体がばれる可能性を最小限に食い止められる。いったんカヌーに乗り込んだら、もしくはソ連軍に遭遇したら、外套を脱ぎ捨てればよい。雑嚢の中には、兵卒に変装するときのために、海軍の制服(英国もしくは米国のもの)とドイツ国防軍の制服も入っていた」

■逃亡中のボルマンの様子について

「事前の打ち合わせでは、ボルマンは屈強で冷徹な謀略家に見えたが、今ここで敵の手中にいる一個人としてのボルマンは、非の打ちどころのない振舞いをしていた。不服も漏らさないし、癇癪(かんしゃく)を起こすこともない。私は一緒のカヤックに乗っているため、彼に接する機会がいちばんあるが、従順なだけでなく、協力的で勇ましく、かつ強靭な肉体の持ち主であった。驚くほどの腕力である。私の二倍近くあるかもしれない。私の覚えている限り、海軍の新兵で、ボルマンほど速くカヤックをこげる者はいなかった。障害物を越えての強行軍でもへこたれなかったし、判断力も確かだった。これなら、いかに海兵隊の鬼軍曹でもケチのつけようがない。いつしか我々は、彼にも何かと仕事を任すようになった」

■バーダムでの尋問について

「バーダムで、ボルマンは数ヶ月にわたり、秘密情報について集中的に尋問を受けた。800枚にもおよぶ報告書の各ページには、ボルマン本人と尋問担当官の頭文字が署名されている。この貴重な歴史的文書(バーダム文書)には、ボルマンの1920年代から1945年までの個人史とナチ党についての供述が記録されている」

「この供述の結果、彼とヒトラーの関係について興味深い事実が明らかになった。尋問開始当初、ボルマンはヒトラーを“総統”と呼び、指導者としてそれ相当の敬意を払っていた。ところが尋問が進むうち、“あの馬鹿なじじい”といった、もっとひどい言い方をするようになった」

「ボルマンは、1945年3月の時点で、この戦争に勝ち目はないことに気づいていた。その事実に直面しようとしないのは、権力を掌握しているあの男だけだ。冷静で計算高いボルマンは、いつそのような事態になっても、最後までヒトラーを利用しようと決心していたのである」

■ボルマンの隠匿工作について

「ボルマンがMセクションの担当者から尋問を受けている間、ヨーロッパのいたるところで彼を捜索する動きが展開していた。(中略)彼が発見されるのを阻止するためには、外見や態度から声までも、可能な限り変えなければならない。この問題について何回か話し合った後、モートンはふたたび形成外科医のアーチー・マッキンドーに依頼することにした。(中略)何回も手術を重ねたおかげで、ボルマンの容姿には微妙ではあるが見事な変化が生じた。耳の形は変えられ、唇は厚みを増した。手の甲は皮膚を移植され体毛が薄くなり、指紋も変えられた。鼻は少し削られて低くなり、額の傷は長く延長された」

■目的の達成部分について

「スーザンによると、2人の協力のおかげで“めざましい”成果が得られたという。手配中のナチ党員たちの行方が明らかになり、膨大な現金や宝石や金が回収されるなど、大きな収穫が得られた。自由世界の金融や経済を支配して第三帝国亡命政府を樹立しようという企みも阻止することができた」

■英国に滞在したボルマン

「1945年から1965年にかけて、ボルマンは英国で暮らした。しかしその間、ブラジルやアルゼンチンなどの南米諸国や他の地域に出かけた。そのときは必ずMセクションやCIA(OSSの後を受けて設立された)の監視付きであった」

■ソ連の追求と南米への逃避

そして1956年4月初め、ソ連指導者ブルガーニンとフルシチョフの公式訪問の直前、スーザンはアンソニー・イーデン首相に呼びつけられ、英国がボルマンをかくまっているという疑惑のおかげで厄介なことになっていると強い調子で叱責された。(中略)

1956年4月29日、ボルマンは護衛つきでアルゼンチンに飛び、そこでふたたびブラビノフと会った。しかしそのころには、彼の健康は悪化していた。まだ55歳であったが、世に知られずどこかで落ち着いて暮らしたいと願った。結局、パラグアイを安住の地と定めてひっそりと暮らし、長い闘病生活の末、1959年2月にこの世を去った。

ボルマンは地元の墓地に埋葬されたが、しばらくしてCIA、パラグアイ政府、ドイツ諜報機関との密約により、彼の遺体は掘り起こされ、ベルリンに送り返された。そしてユラップ・フェアグラウンドの砂に新たに埋葬され、それが1972年にうまい具合に発見されたというわけである」

■チャーチルの情報公開許可と007誕生秘話

「本書に記された物語は、多くの読者にとって信じ難いものであろう。私に言えるのは、半世紀以上も前に起き、(その性格上)ほとんど記録の残されていない作戦について真実を書き残すために、全力を尽くしたということだけである。私の文学的な創作力は限られていることもお断わりしておく。ストーリーを作り上げることなどできはしなかった。また、私には、ここに含まれた詳細な技術的情報の収集能力もなかった。それどころか、私は自分自身の記憶や、本書で語られている出来事の直後に私と私の同僚が作成した公式記録に頼らざるをえなかったのだ。

諜報担当士官としての私の仕事は、第二次世界大戦中はもちろん、その後も最高度の機密保持が要求された。この物語を公表することについて、私はサー・ウィンストン・チャーチルからもマウントバッテン卿からも書面による許可をもらっている。ただし、両人からは、それは自分の死後にしてほしいと念を押された。

また同時に、私のかつての同僚たちの生命を危険にさらすようなことはしてはならないとも命じられた。その後イアン・フレミングからも、私に、この物語の公表を促す手紙をもらったが、そのなかで彼は、大成功をおさめたジェームズ・ボンド小説の発想の源は実はこの共同作戦にあったことを明かしている」

少し長くなりましたが、戦後のナチスの財宝の行方は格好の小説のテーマなだけに、“事実は小説より奇なり”を地でいくこの本の中身は、かなりリアルで面白いと思います。

そういう意味では以前書いたベレゾフスキーは、“現代版ボルマン”といったところでしょうか(笑)。

世界の歴史を変えた『ゾルゲ事件』

2007-06-10 22:35:12 | インテリジェンスの歴史
こんばんは。

インテリジェンスの歴史の中でインパクトがトップクラスの事件と言えば、やはり『ゾルゲ事件』でしょう。ドイツ人とロシア人の間に生まれたリヒャルト・ゾルゲ(※写真右)という一人の男のもたらした情報が、世界の歴史を変えたと言っても過言ではありません。

当時の状況をちょっと振り返ってみましょう。

当時の日本軍内部では、太平洋戦争の方針を巡って「北方進出論」を唱える陸軍と、「南方進出論」を唱える海軍とが対立している状況でした。結果、政府は御前会議を開催し、最終的に南方進出の道を選択することになります。

一方でヨーロッパ全土を支配下に収めたナチス・ドイツは、ソ連への侵略を開始、独ソ戦に突入しました。ドイツ軍は強力な戦車部隊を中心に破竹の勝利を収め、たちまち首都モスクワに迫ります。スターリンは東はドイツ、西は日本から挟み撃ちされる恐怖に怯える状況に追い込まれてしまいます。

その時スターリンの元に、日本に潜入しているゾルゲからの一本の電報が届きます。

「日本は南方進出を最終決定。日本にソ連攻撃の意図なし」

ゾルゲが当時南満州鉄道調査部の嘱託だった尾崎秀実(※写真左)から入手したこの情報によって、ソ連は日本戦用に配置していた軍隊をドイツ戦向けに振りわけ、スターリングラードでの激戦の末、ドイツ軍を敗走させ、第二次世界大戦における流れを決定付けさせたのです。

一方日本では特高警察当局によりゾルゲ・尾崎のスパイ行為の全容が解明され、1941年10月、2人は逮捕されます。そして1944年11月7日、ソ連にとって記念すべきロシア革命の日に処刑台の露と消えました。

1941年スパイ活動が摘発された時、彼の情報が当時のソ連の戦略を左右する極めて重大な情報だったにも関わらず、ソ連政府は何一つ手を打ちませんでした。しかし処刑後20年経った1964年、突如として「ソビエト連邦英雄」の称号が贈られ、彼の肖像をあしらった記念切手まで発行されたのです。

その背景には、ソ連政府はゾルゲの業績に関心があったわけではなく、過去50年間政策の頼みの綱だったスパイ活動という分野につき、国民に対し人気をあおり、魅力的なものにする必要があり、ゾルゲはその格好の口実だったという見方があります。

先日イギリスの情報機関が職員の求人広告を新聞の全面広告で展開したというニュースが流れましたが、いつの時代も“優秀な人材の確保”が組織の趨勢を決定づけるというのは、普遍的な真理なのでしょう。

ちなみに篠田監督の『スパイ・ゾルゲ』でも描かれている通り、ゾルゲはハンブルク大学で最優秀の評価を得るほど聡明で、かなり女性にもてたことでも有名です。

しかし日本で活動していた9年間もの間、彼は女性を諜報活動に活用することは一切ありませんでした。ゾルゲはその点について、興味深い言葉を獄中で残しています。

「女性は、まったくスパイ活動に向いていない。政治問題などは全然理解できないし、女性から満足すべき情報を得られたこともない。役に立たないことがわかっていたから、女性を仲間に入れようとは思わなかった」

CIAの基礎を作った男 アレン・ダレス

2007-06-09 21:48:33 | インテリジェンスの歴史
こんばんは。

世界のインテリジェンスを語る上で、超大国アメリカの諜報機関CIAを立ち上げたアレン・ダレスを抜きにして語ることはできません。

このふてぶてしい顔こそ、いかにも諜報機関のボスって感じでいいですね(笑)。こういう顔の人物じゃないと、国と国との闘いには勝てない気がします。(パイプといいこの雰囲気は日本の宰相吉田茂に通じるものがあります)しかも、こう見えてもちゃんとプリンストン大を出ていたりします。

1950年代から60年代の初頭にかけて、彼の兄ジョン・フォスター・ダレスは国務長官としてアメリカの外交政策を牛耳り、その裏を取り仕切っていたのがCIA長官のアレン・ダレスでした。当時のアイゼンハワー大統領は、ダレス兄弟の繰り人形と言われるほど二人は影響力を持っていたそうです。

まずは、簡単に彼のプロフィールを。

◆アレン・ウェルシュ・ダレス/1893年~1969年 プリンストン大卒。第二次世界大戦中、スイスのベルンで戦略事務局(OSS、CIAの前身)で勤務。OSSのヨーロッパ本部の責任者だった1945年には、日本と終戦工作を行った。戦後ニューヨークで弁護士をしていたが、1950年にW・ベデル・スミス陸軍中将がCIA長官に就任すると、CIA海外作戦部長の地位を得、1951年よりCIA副長官を務めた。1953年、アイゼンハワー政権の発足に伴いCIA長官に就任。CIAが現在の規模にまでなったのは、彼の功績によるところが大きい。

任期中に、イランのモハメッド・モサデグ政権転覆作戦(エイジャックス作戦、1953年 en:Operation Ajax)やグアテマラのアルベネス・グスマン政権転覆作戦(PBSUCCESS作戦、1954年)を指揮し、また国内メディアのコントロールを図るモッキンバード作戦 (en:Operation Mokingbird) を監督した。また、ジュネーヴ協定後の初期段階のヴェトナム介入に関わった。

キューバがフィデル・カストロにより共産化されると、アイゼンハワー政権末期からダレスはピッグズ湾侵攻計画を策定。この計画はケネディ政権に引き継がれ、4月17日に計画は実行されたが、ダレスは実行部隊である亡命キューバ人部隊には米軍の投入を約束し、反対にケネディには米軍の介入なしに作戦を成功できると確約して二枚舌を使ったため、作戦は失敗した。このため1961年11月、ダレスはケネディにより解任された。

1963年11月ケネディが暗殺されると、ウォーレン委員会のメンバーに任命された。ジョンソン政権下では賢人会議のメンバーとなり、アメリカのヴェトナム政策に影響を与えた。1969年にニクソン政権が発足すると、国家安全保障会議のメンバーとなった。
(※フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋)

アレン・ダレスは、自らが編集した著書『ザ・スーパースパイ/歴史を変えた男たち』の中で、自己経験に裏打ちされた貴重な言葉をいくつも残しています。その一部を紹介したいと思います。

○全てのスパイ物語に共通する不変のものが、一つだけある。核ミサイルの時代にあっても、我々が重大な諜報目標を追求するのに依然として欠かせないもの、古風であるかけがいのない要素―それは、「個人」の能力そのものである。

○科学が進歩したおかげで、情報収集者は今日、これまでにない新しい装置を使うことができる。にもかかわらず、その装置を操作をし、入手した情報を判断するのは、結局のところ人間の能力にかかっている。個人の能力というものは、今日の諜報方程式の中で、依然として決定的な構成要素なのである。

○もし一人の諜報員が、こういった二つの資質、つまり人間としての偉大さと任務達成上の偉大さを合わせ持っているなら、それは理想のスパイだということになる。

○私がマタ・ハリの物語を省いたのは、彼女の動機についても、活動の仕方についても、また歴史に照らし合わせる限り、スパイとしての業績についても、何一つ偉大なものを見出しかねるからである。

○このドキュメントを世に送る私の動機を述べるとすれば、われわれの国民生活に占める諜報活動の真の役割と、その国防に対する貢献について、もっと光を当てたいという願いからにほかならない。

“スーパースパイ”の定義を、その人物性と歴史に与えた影響という業績の両面から評価するあたりは、元CIAの運営管理者として面目躍如といったところでしょうか。

実際にアレン・ダレスの部下として働き、諜報マンとしてのダレスを身近に見てきた元CIA長官ウィリアム・ケーシーによると、ダレスの仕事に対する姿勢はプロフェッショナルそのもので、諜報活動に携わるために生まれてきたような人物だったそうです。

常に部下には最高のパフォーマンスを要求し、同時に自分自身に対しても異常なほど厳しい。しかし、その反面、部下達をこの上なく大切にしていたとのこと。諜報界では往々にしてエージェントをいつでも使い捨てにできる道具として扱う傾向がありますが、ダレスに限っては部下やエージェントを決してそのように扱ったことはなく、ひとりひとりをかけがえのない人間として扱ったそうです。

ケネディは、とんでもない相手にケンカを売ってしまったようです…。その代償がこの上なく高くついたのは、歴史の示す通りです。

ジェームズ・ボンドの組織 英秘密情報局SIS

2007-06-02 00:13:58 | インテリジェンスの歴史
こんばんは。

リトビネンコ氏の暗殺事件に絡んで表面化しつつある、イギリスとロシアの諜報戦。その最前線に立つのが、ジェームズ・ボンドで有名な対外諜報機関『秘密情報局SIS(MI6)』です。(※写真はロンドン ボクスオールにあるSIS本部ビル)

その組織形態について興味が涌いたので、ちょっと調べてみました。あの悪名高いKGBと直接対決しているわけですから、かなり高度な組織であることは間違いありません。

ちなみに日本の広告代理店電通は、“電通鬼十則”で有名な3代目社長吉田秀雄氏が公職追放でパージされた高級官僚や満州で活動していた特務機関員を大量に採用し、それが後に大きな成長につながったのは有名な話です。いつの時代も、インテリジェンス活動は優秀な人材によって支えられているのは変りませんね。

組織的には、以下の編成になっているようです。ちなみにSISは組織上は外務省に属しているものの、実際は首相直轄の組織です
(※ワールドインテリジェンスVol.5より抜粋)

・長官
・長官官房
・特別政治行動本部…運用保安班、人物保安班、検査保安班、防諜記録部、情報作戦部
・人事総務部…人事部、訓練部、財務部、中央記録部
・支援本部…技術部、SIS=MI5合同班
・OS本部
・調査本部
・調査本部/欧州部…運用保安班、報告作成班、西欧カバー班、欧州情報要求班
・調査本部/中・東欧部…運用保安班、報告作成班、中・東欧情報要求班、東欧カバー班
・調査本部/中東部…運用保安班、報告作成班、中東情報要求班、中東カバー班、イランカバー班
・調査本部/極東部…運用保安班、報告作成班、極東情報要求班、日本カバー班、インド=パキスタン・カバー班
・調査本部/英国部…運用保安班、英国支局、MI5合同英国班
・調査本部/グローバル・組織担当部…運用保安班、世界的問題班、麻薬密輸問題担当班、中東テロ対策班、アイルランド・テロ対策班、大量破壊兵器担当班
・調査本部/政府通信本部連絡班
・調査本部/技術的情報要求班
・調査本部/経済情報要求班

年間予算はおよそ710億円以上、海外に派遣されるオペレーショナル・オフィサーは外交官の身分でカバーされています。

007は元SISの情報部員だったイアン・フレミングが自己体験をベースに書いたことは有名ですが、SIS職員の多くはケンブリッジ大学やオックスフォード大学卒のエリートで、家柄もたいていは上流階級出身者といわれています。

SISを解雇されたリチャード・トムリンソンという人物が以前、「SIS海外工作員リスト」をネット上で公開し大騒動になったそうですが(笑)、そのリストには百数十名いたらしく、SISの海外支局は世界中にあると推定されています。

またその時の暴露で、SISは有効なプロパガンダを行うために協力的なジャーナリストを管理しているとのこと。日本でも元某民放キー局の幹部(故人)がソ連のエージェントだったのは一部でよく知られている話ですが、そういった構造はこれからも続くでしょう。

こういった知識を持ち、客観的事実の向こう側にある構造や問題を見抜く力こそ、インテリジェンスの本質ではないかと思います。