トケイソウ

妙なものをみつけるのがうまい、と、よく笑われるけれど
きれいな色やかたちに引き寄せられてしまうのだから仕方ない。

子どものころ、たとえば小学1年生になりたてのわたしは、
周囲のスピードにとてもついて行かれない、のんびりとぼけた子どもで、
ゆきのり君もどうやらまたそのようだった。

ずいぶんあとで知ったのだけれど、
通った幼稚園はモンテッソーリ教育を当時から取り入れていて、
なるほどわたしたちは狙い通りに成長していたらしい(笑)。

そんなわけで、妙に気があう(というかスピードに乗りきれない)二人は、
自然に遊び(というかのんびり行動)友達になっていた。

新しい家族がきたよ、と、誘われて遊びに行くたびに
巨大な秋田犬が「ばう」としっぽを振って迎えてくれたり、
籠でリスが頬を膨らませていたり、砂入りバケツにアリジゴクがいたりする。
水槽には亀やメダカ、金魚や熱帯魚がいて、ノソノソふらふらと寄ってくる。
お庭に出れば、季節のあらゆる花が溢れ、彼のおうちはとにかく楽しかった。

ゆきのり君は穏やかな子で、本物のお坊ちゃまだった。
自慢するではなく、生きものについて彼の知るところを
ほんわか楽しそうに話してくれる。

ひまわりの種は人間も食べられるらしい、と、
リスの餌をポリポリ食べて具合が悪くなったり
(火を通さないといけないらしい)、
アリジゴクは死ぬと砂になるんだ、と、
砂だけになったバケツを囲んでしょんぼりしたり
(ウスバカゲロウに羽化したらしい)、
男の人の骨は少ないのか!と感心したり
(神父さまからアダムの肋骨で作られた女の話を聞いた)、
二人にとっては、知っている限りの全てが真実だった。

次第にそれぞれ周囲のペースや新しい友達になじんで(子どもの適応力)
大人になった今は笑えるような話もあるのだけれど、
この頃に感じた発見のまぶしいときめきが今も忘れられず
日々キョロキョロしているのかもしれない(笑)。

「知る」ということは、その成長の段階にある自分が
見聞きして感じたことのどこまでをつないで信じるか、
ということのような気もする。(ザックリした言い方だけれども)

この夏一番綺麗だったのは、
職場に咲いた、小さな品種のトケイソウだった。

    

丸い蕾の、その棘の先もさらに小球をつけており、球の集合がかわいらしい。
3cmほどの花はとても複雑なつくりをしていて、
どのパーツも眺めるほどに不思議でときめく。
何より、緑、白、黄色、薄紫の絶妙な分量バランスがみずみずしく、
真赤に実が熟すというのも、なんて素敵なセルフプロデュース!

    

今ではもう、その形が種を保存する何かしらの理由があるとは知りつつ、
何かをみつけて、神様は相当な芸術家だと感心してしまうのは
就学前後の経験が、少しだけ目を醒ますからのようだ。

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