発見記録

フランスの歴史と文学

ヴェロニック・ヴァスール『パリ・サンテ刑務所』 

2007-02-23 22:00:28 | インポート

ヴェルレーヌやアンリ・ルソー、アポリネール、シャルル・モーラス、モーリス・トレーズ・・・ヴェロニック・ヴァスール『パリ・サンテ刑務所 主任女医7年間の記録』(青木広親訳 集英社 p.55-56)には、投獄された文学者や政治家の名がずらりと並ぶ。「ここには彼らの亡霊が今も徘徊している。壁という壁から、歴史の記憶が滲出しているのだ」

著者は1992年に当直医師、翌年から2000年まで主任医師を務めた。採用テストの日、先輩医師の話に「とんでもない場所にきてしまったものだ」と思う。実際、建てられた時「衛生管理の鑑(かがみ)」だった刑務所は老朽化し、雑居房のマットレスはノミだらけ、「共和国の恥辱」と化していた。心臓病や糖尿病などは専門医が診察するが1800人の受刑者(1992年の数字)に対して週1度。コンクリートの上でサッカーをやれば怪我人続出。麻薬の密売。マリファナを混ぜた薬を乱用して死ぬHIV感染者。暴力、自殺、自傷行為。文学や「歴史の記憶」どころではない。カフカ『審判』を上演して受刑者に見せたというが、どういう神経だろう。

モーリス・パポンがここに来るのは1999年11月13日。「彼は、VIP区域で以前ボネ知事が使っていた、刑務所にひとつしかない《上等》な居房に収容された」 この区域の独房にだけは緊急用の呼び出しスイッチがある。
同じ頃、フレーヌ病院に送られていた重症の高齢者二人が「通常の監禁に耐えられる」とされ、戻ってくる。一人は二日後、独房で死んでいるのを発見される。
著者はパポンについては特別印象を記していない。本書の出版も間近い。積極的にメディアに顔を出し囚人の生活改善を訴えていた著者は、この頃からそれこそ「渦中に身を投じ」ることになる。

やはり大戦中親独義勇軍 la Miliceを指揮、一度はポンピドゥーに恩赦を受けながら「人道に対する罪」に問われたポール・トゥヴィエPaul Touvierは、1994年に終身刑を宣告された。著者は「邪険に扱ってやろうとこころに決め」トゥヴィエと対面した。「だが心労で容色が衰え、しかもきわめて礼儀正しい老人を前にして一体何ができるだろう?」 トゥヴィエはその後フレーヌ病院に送致され息を引き取る。

フレーヌ刑務所(地図)は男性拘置所(定員48名の地域医療=心理学施設le service médico-psychologique régionalを持つ)、女性拘置所と国立の医療施設l'EPSNF  (l’établissement public de santé national de Fresnes ベッド数101)からなり、医療刑務所の性格を持つ。(prison.eu.orgの記事 また日本の法務省の行刑改革会議・海外視察結果報告書 (PDF))

1994年1月18日の法は「これまで刑務当局が行ってきた囚人の医療を公共病院施設が引き継ぐことを原則として可能にする内容だった」(本書p.118)各刑務所は最寄の病院(サンテ刑務所ならコシャン病院 地図)と提携する。

医師は刑務当局の職員でなくなる。著者は病院医師として資格を得るため、勉強のやり直しを迫られる。しかし刑務所への守秘義務から解放された医師は、「人間の尊厳に対するすべての侵害を告発する絶対的な義務を負う」ことになったのだ(p.236)