シムノンとジッドの書簡集については以前にも(→)書きました。最近再読、再考が多くて、もっと新ネタをやるべきかとも思うのですが―
ジッドを先生 Maîtreと仰ぐシムノンだが、実はジッドの作品を(読もうとはしたが)読めなかった。シムノン自身が後にそう書いている。≪Essayé de lire Gide, dont je devais devenir l'ami. N'ai pas pu. Ne le lui ai jamais dit.≫(ジッドを読もうとした、友人になろうとしていた。読めなかった。そのことは決して言わなかった) (Quand j’étais vieux, 5 décembre 1960)
(今手元に本がない、フェルナンデスの序文から孫引き。ジッドは1951年没)
しかしシムノンは本当にジッドを読ま(読め)なかったのか。
1946年9月12日の手紙でシムノンは、
Je ne vous parle jamais de vos œuvres dans mes lettres, vous le savez. Et je crois que je serais longtemps avant d’avoir l’outrecuidance de le faire. Je voudrais que vous compreniez pourquoi. J’ai toujours été- et je suis toujours - ahuri par les gens qui déclarent que quelqu’un est un être de génie - et qui, sachant qu’ils ne le sont pas eux-mêmes, se mêlent de le juger.On ne juge pas ce qui vous dépassent. On essaie,simplement, humblement, de comprendre, et de s’incorporer ce qu’on est capable de s’incorporer, en se disant que le reste viendra plus tard - peut-être- si on en est digne. J’en suis là pour vous. Si je ne vous ai jamais parlé de votre œuvre, c’est que chaque fois que je l’ai lue, j’ai découvert que la fois précédente je n’avais rien ou peu compris. Pourquoi n’en serait-il pas de même par la suite ? Donc, tout ce que je pourrais dire est outrecuidant, sauf pour le Journal - ( et encore ! ) qui paraît plus simple. Mais est-il plus simple ?
お作についてあれこれ手紙で申し上げるなど決してしません、それは先生もご承知です。そういう僭越な真似は当分いたしません。理由をわかっていただければよいのですが。私はいつも―そして今も、誰かを天才だと明言し、自分は天才でないことを知りながら、その天才を批評したがる人たちには、唖然とさせられてきました。自分を越えた者を批評することはできません。ただ素朴に、慎ましく、理解をし、吸収できるものは吸収するだけです。後は、時が熟すれば―たぶん―もしも私にその資格があれば、そんなふうに思いつつ。私は現在、先生に関しましては、そういう段階なのです。お作について何も申し上げたことがないのは、読むたびに前に読んだ時は何も、あるいはほとんど理解できていなかったと気づくからです。同じことがまた起こらないと言えるでしょうか?ですから何を申しましても僭越になりそうです、例外は『日記』で(それだってどうだか!)より単純に思えるのです。でも本当により単純でしょうか?
カイヨワとポーランの書簡集に見られる、フェルナンデスが「知的同職組合」compagnonnage intellectuelと呼ぶような関係は、シムノンとジッドの間には成り立ちようがなかった。何か尋常でない、一方的なシムノンの謙虚さ。
いつか、時がくれば。私に資格があれば。1930年代に作家として出発した時の、推理物から段階を踏んで、いつか本物の小説を書きたいという抱負、そこにもゆっくりと熟していく「時」の感覚があった。
ベルギーの少年時代にはデュマを愛読した。サルトルへの反感が感じられる言葉。ジッドだけではなく、NRFの作家の本とは、ある時期まで無縁だったとしても、不思議ではない。しかし上の手紙で、『テセウス』Théséeを読むことに「わが人生で最良の二時間を過ごした」と書いているのも嘘なのか?
「小説家と文学者」Le romancier et l’homme de lettresと題したフェルナンデスの序文は、アレクサンドル・デュマやシムノンの評価がフランスでは不等に低いことから話を始める。フェルナンデスがデュマを語ったdumaspere.comのインタビューと並べると、一つの方向性が感じられる。小説家シムノンと文学者ジッド、「フランス文学史上これ以上奇抜で奇妙で興奮させる出会いはない」 一石を投じるため論争的に書かれた文章で、シムノンの告白「読めなかった」は確かに対照を鮮やかにし、効果的である。