発見記録

フランスの歴史と文学

シムノンのいる文学史 

2007-02-13 10:38:57 | インポート

?La place de Simenon est l’une des énigmes que résoudra l’histoire littéraire future.?
シムノンの位置は、未来の文学史が解くはずの謎の一つである。

ガエタン・ピコンGaëtan Piconの?Panorama de la nouvelle littérature française?(1949)には邦訳(『現代フランス文学の展望』白井浩司訳    三笠書房  1954)がある。

死の年に刊行された改訂新版(1976, Gallimard)で、シムノンはそれほど大きな扱いを受けていない。
現代小説が変貌を遂げる中、その流れの外でも多くの注目すべき作品が書かれているとピコンは言う。?Elles s’inscrivent dans le sens d’une littérature traditionnelle ; elles ne mettent pas fondamentalement le roman en question.?(それらは方向としては伝統的文学の枠に入る。それらは小説を根底から問題化するものではない。)
それらの作についてこの本では多くを語らないとしても、そこに必ずしも価値判断は含まれないと断わった上で、「伝統的作家」を「バルザック系」と「スタンダール系」に分類する。
小説というジャンルのあらゆる手を駆使して、虚構でありながら現実に似た世界を創造する「バルザック系」の小説では、「想像力と社会観察、打ち明け話confidenceと心理学」が同じ権利で混じりあう。
「スタンダール系」の作家にとって小説とは「彼らが書くことに味わう愉しみに開かれた空間」un espace ouvert au plaisir qu’ils prennent à écrire である。読者の側も、何より文章を味わい愉しむことになる。
?Il y a les romanciers qui cherchent à faire sortir un monde d’eux-mêmes, et ceux qui cherchent à faire entendre leur accent.Il y a des romans de romanciers, et des romans d’écrivains.?
(自分の内部から一つの世界を生み出そうとする作家〔バルザック系〕と、自分だけの美しい音色(ねいろ)を響かせようととする作家〔スタンダール系〕がいる。小説家の小説があり、文章家の小説がある。)
前者の例としてまずシムノンの名が挙がる。独創inventionよりも雰囲気atmosphèreが大きな場所を占める、量abondanceが創造的多様性の錯覚を与える、手厳しい評ばかり目立ち、最後に? Simenon est aujourd’hui le type du génie romanesque innocent.? (シムノンは今日無邪気な小説の天才の典型である)

次にアルベール・コーエン以下同じ系の作家を見て行くが、まず?Du côté des romanciers, des ?vrais romanciers,...?(さて小説家、≪本格作家≫の方では
)とつまりシムノンはこのグループの中でも別扱い。「小説家」の筆頭に挙げざるを得ないが、留保つき。

小説家と文章家の区別は、シムノン生誕百年を機に書かれたFrançois Nourissier, Ecrivain ou romancier ? (Le Figaro Littéraire, 9/1/03 2005.11.10 今年のゴンクール賞に一部を引いた)にも見られる。
ジッドがシムノンを今日もっとも偉大な作家と讃えたのはあまりにも有名だが、それがromancierへの賛辞であることに気づくには時間がかかった。

フランスでのシムノンの論じられ方を通して、前提とされる枠組み、ある種の格付け(それらは不動のものではないだろう)が、少しずつ見えてくる。

シムノンは文体を持たない、単調で平板な文章しか書けないと否定する声があり、いや間違いなくシムノンの文体は存在すると、真面目な議論の対象になりえるのだということ。("style Simenon" 検索結果) そこにはおなじみの「『異邦人』と白いエクリチュール」という話に劣らず考えさせるものがある。


再考・シムノンとジッド

2007-02-09 22:17:13 | インポート

シムノンとジッドの書簡集については以前にも()書きました。最近再読、再考が多くて、もっと新ネタをやるべきかとも思うのですが―

ジッドを先生 Maîtreと仰ぐシムノンだが、実はジッドの作品を(読もうとはしたが)読めなかった。シムノン自身が後にそう書いている。≪Essayé de lire Gide, dont je devais devenir l'ami. N'ai pas pu. Ne le lui ai jamais dit.≫(ジッドを読もうとした、友人になろうとしていた。読めなかった。そのことは決して言わなかった) (Quand j’étais vieux, 5 décembre 1960)
(今手元に本がない、フェルナンデスの序文から孫引き。ジッドは1951年没)

しかしシムノンは本当にジッドを読ま(読め)なかったのか。
1946年9月12日の手紙でシムノンは、

Je ne vous parle jamais de vos œuvres dans mes lettres, vous le savez. Et je crois que je serais longtemps avant d’avoir l’outrecuidance de le faire. Je voudrais que vous compreniez pourquoi. J’ai toujours été- et je suis toujours - ahuri par les gens qui déclarent que quelqu’un est un être de génie - et qui, sachant qu’ils ne le sont pas eux-mêmes, se mêlent de le juger.On ne juge pas ce qui vous dépassent. On essaie,simplement, humblement, de comprendre, et de s’incorporer ce qu’on est capable de s’incorporer, en se disant que le reste viendra plus tard - peut-être- si on en est digne. J’en suis là pour vous. Si je ne vous ai jamais parlé de votre œuvre, c’est que chaque fois que je l’ai lue, j’ai découvert que la fois précédente je n’avais rien ou peu compris. Pourquoi n’en serait-il pas de même par la suite ? Donc, tout ce que je pourrais dire est outrecuidant, sauf pour le Journal - ( et encore ! ) qui paraît plus simple. Mais est-il plus simple ?

お作についてあれこれ手紙で申し上げるなど決してしません、それは先生もご承知です。そういう僭越な真似は当分いたしません。理由をわかっていただければよいのですが。私はいつも―そして今も、誰かを天才だと明言し、自分は天才でないことを知りながら、その天才を批評したがる人たちには、唖然とさせられてきました。自分を越えた者を批評することはできません。ただ素朴に、慎ましく、理解をし、吸収できるものは吸収するだけです。後は、時が熟すれば―たぶん―もしも私にその資格があれば、そんなふうに思いつつ。私は現在、先生に関しましては、そういう段階なのです。お作について何も申し上げたことがないのは、読むたびに前に読んだ時は何も、あるいはほとんど理解できていなかったと気づくからです。同じことがまた起こらないと言えるでしょうか?ですから何を申しましても僭越になりそうです、例外は『日記』で(それだってどうだか!)より単純に思えるのです。でも本当により単純でしょうか?

カイヨワとポーランの書簡集に見られる、フェルナンデスが「知的同職組合」compagnonnage intellectuelと呼ぶような関係は、シムノンとジッドの間には成り立ちようがなかった。何か尋常でない、一方的なシムノンの謙虚さ。

いつか、時がくれば。私に資格があれば。1930年代に作家として出発した時の、推理物から段階を踏んで、いつか本物の小説を書きたいという抱負、そこにもゆっくりと熟していく「時」の感覚があった。

ベルギーの少年時代にはデュマを愛読した。サルトルへの反感が感じられる言葉。ジッドだけではなく、NRFの作家の本とは、ある時期まで無縁だったとしても、不思議ではない。しかし上の手紙で、『テセウス』Théséeを読むことに「わが人生で最良の二時間を過ごした」と書いているのも嘘なのか?

「小説家と文学者」Le romancier et l’homme de lettresと題したフェルナンデスの序文は、アレクサンドル・デュマやシムノンの評価がフランスでは不等に低いことから話を始める。フェルナンデスがデュマを語ったdumaspere.comのインタビューと並べると、一つの方向性が感じられる。小説家シムノンと文学者ジッド、「フランス文学史上これ以上奇抜で奇妙で興奮させる出会いはない」 一石を投じるため論争的に書かれた文章で、シムノンの告白「読めなかった」は確かに対照を鮮やかにし、効果的である。


「ポンピエ」と消防士 官展派絵画の復権

2007-02-05 22:39:47 | インポート

国見弥一さんのTB「ブグローの官能の美の徒(ただ)ならず」へのお返しです。

ブグローのような「官展派」の絵を「ポンピエ」と呼ぶことがある。まずは意味を確認。
Wikipédiaの?Peinture académique?によれば

アカデミック様式はまた「ポンピエ」とも称されるが、第二帝政期の絵画の主流を成す。歴史的主題の偏愛と、オリエンタリズムを特徴とする。アカデミック絵画はダヴィッドやアングルの新古典主義に主題、様式また技法(グラッシglacis〔地の絵具に薄い透明な絵具で上塗りをして光彩を与え、色調を整える〕)の面で借用を行なう。この芸術はまた当時のブルジョワ的モラリスムと、いささか偽善的なエロティスム感覚を借り受けている。
「ポンピエ」(ロベール辞典によれば1888年初出)の名称は恐らく、当時の大作(grandes compositions)のある人物が被った光る鉄兜が、消防士(sapeur-pompier)を思わせたことへの暗示。「ポンペイ風」Pompéinのもじりとする説も。最後に、この語はpompe(華美、仰々しさ)pompeux(形容詞形)を連想させる。

「グラッシ」の注釈は辞書の定義の合成。怪しいのでGoogle「油絵 グラッシ」検索結果

鉄兜の消防士 参考に―オルセー美術館のクールベ『火事場に駆けつける消防士』(

ジェロームはイタリア滞在中、古代美術に熱中する。ナポリの美術館でポンペイから出土した剣闘士の甲冑に出会い、作品の霊感元としたという。ジェロームとその一派が「ポンペイ風」と呼ばれたとすれば、これに由来するものか。(Jean-Léon Gérôme Biography
剣闘士を描いたジェロームの作品。?Pollice Verso?(下ろした親指 殺せという合図)
http://www.phxart.org/collection/verso.asp 
?Ave imperator, morituri te salutant!?(帝よ、死なんとする者らが貴方に礼を送る)
http://penelope.uchicago.edu/~grout/encyclopaedia_romana/gladiators/ave.html

「ポンピエ」という言葉を知ったのは確か阿部良雄氏の『西欧との対話』(河出書房新社 1972)で、ダリが1967年に催した展覧会「メソニエ頌」Hommage à Meissonierの話から

ダリの逆説をどこまで真に受けてよいものか、ということはとにかく、「近代芸術」の諸冒険が正当(あるいはそれ以上)の評価を受けるようになったのと並行してかつての王座から引きずりおろされた官展派大家―「ポンピエ」たちの復権をはかる試み―もっと極端には、セザンヌの代わりにドゥターユを師表の位置につけようという試みは、それ自体まじめな論議の対象になり得るものだと思います。あの時はガエタン・ピコン氏の真正面からの反論、「近代絵画」と呼ばれるものは、画家自身にとっても未知な何物かを追求する芸術であって、既知のものとしての技法(メチエ)によって既知のものとしての題材(シュジェ)を再現するだけのポンピエ芸術と同日の談ではない、という反論が出てきたようなわけでした。(p.156 原文では傍点による強調)

ドゥターユDetaille, Jean-Baptiste-Edouard (1848-1912)は特に戦争画で知られる。普仏戦争には志願して遊撃歩兵と。「普仏戦争のエピソード パリ攻防時、ある森での砲兵隊の戦い」(

「早朝、橋を守る遊撃隊が急襲を受ける」(

主題も思ったより多様で、ポンピエと一絡げにしていいものか(レッテルというのは大雑把になりがちだが) どうかすれば近代派に劣らずモダン(?)な印象を受ける。
固定した近代美術観から少しずつ自由になる、それは私だけが経験してきたことではないだろう。その過程では迷いや葛藤もあった。瀧口修造訳のダリ『異説・近代藝術論』に衝撃を受けていたから、阿部氏の上に引いた一節も真剣に、何か大事件のリポートのように読んだのだった。

(2/8追記)阿部良雄氏は先月亡くなられていたのを知りました。ご冥福をお祈りします。


Eric Holderの短編?La Chinoise?

2007-02-03 09:59:34 | インポート

Eric Holderの短編「中国女性」?La Chinoise?(?Nouvelles du Nord et d’ailleurs?, Le Dilettante 1998)
語り手はある日、ふと回り道をしてRue Gérard(地図 Place d’Italieの南西)に向かう。
通りから、昔と変わらないホテルの、二階のあの部屋の窓を見る、そのニ階上には、自分のいた部屋。

Aix-en-Provenceで暮らした頃、四肢麻痺の中国人女性の介護に雇われた。もう一人の介護役Annaと、気難しい女性の世話に取り組む。「57キロの赤ん坊」のように抱えあげ、庭に連れていってやると彼女は喜ぶ。両親が買った車に女性を乗せ、彼の運転でマルセイユまでドライブ。
事故で体の自由を失うまで彼女が住んでいたパリまで、誰が言い出すともなく旅行の話が持ち上がる。プランを練った。5月の朝、不安げな両親を残して出発。

ホテルには親戚が詰めかけ、鳥かごのような騒がしさ。事故の直前に出会ったというヴェトナム人との混血の美青年も現れる。チャイナタウンでの彼女の、生き生きとした表情。

しかし付ききりの語り手は、つぶやき始める、?Oû fuir ??(どこに逃げよう?)
ここまで深く関わるつもりはなかった。彼女にとって欠かせない人間なのが、ふいに息苦しくなる。

夏の朝、プロヴァンスのカランク(入り江)で泳ぎたくなった「私」は、ホテルに彼女を置いて姿を消したのだった。

女性の両親はベトナムの華僑だったらしい。1957年にゴ・ディン・ジェム大統領がベトナムの中国人に帰化を強いる法を発令、多くの中国人がフランスに逃れてきた。

この短編集は15篇から成る。あらすじだけを取り出し語り直すことが、この話などはやりやすい。もちろん要約で落ちてしまう部分はあまりにも大きいが。

『バルザックと小さな中国のお針子』(新島 進訳)で、北朝鮮の映画を見てきた青年たちは村人を集め「口頭映画会」をする。重要なのは最後の名せりふ「諺は言う、誠実な心は石にも花咲かせると・・・」である。そこはナレーションの物真似で、忠実にやる。名せりふを、即興的にいつもと違う所に挿んでも構わない。要はつぼを押さえることなのだ。

読み終えたばかりのデュマの小説を仕立て屋に語って聞かせる時は、言葉の密度や「最初の一文の簡素な調子を保つ」ことに注意を払わねばならない。「プロレタリア・リアリズム映画」とは異なる世界だ、そして「語ることで、物語の仕組みや復讐という主題の配置、小説家が張りめぐらせた伏線が手に取るようにわかったのだ」