発見記録

フランスの歴史と文学

コクトーの逃亡 入会演説・ビュフォンの場合

2007-01-05 10:23:15 | インポート

(…) Jeune ou vieux cela n’a plus la moindre importance. J’ai sauté le mur, je suis libre.
若いか年寄りか、それはもう、まったくどうでもいい。ぼくは壁を飛び越えた、ぼくは自由だ。
(ジャン・コクトー 1956年12月25日の日記 アスリーヌのブログ"Cocteau, un 25 décembre…"から)

前年にはフランスばかりか、ベルギーのAcadémie royale de Langue et de Littérature française de Belgique 外国人会員に選ばれたコクトーだが、それらの出来事もすでに遠く、現実のことと思えない。あの演説(12/22)は「大人たち」を欺くために、子どもが演じた策術の一つだった。
(…) et je me demande si les autres s’en aperçoivent, s’ils savent qu’ils ont été dupes d’un fantôme, qu’ils ont apprivoisé du vent.
ぼくは不審に思う、他の人たちは気がついているのか、幽霊にだまされたこと、彼らが飼いならしたのが風であることを知っているのか。

アカデミーで、コクトーは会員の務めをどの程度まじめに果たしたのか。居眠りの伝統を持つこの場所に、Pierre-Antoine LEBRUN (1785-1873 詩人・劇作家)は特製の小さな枕を持参して来た。
入会演説でコクトーがタロー兄弟に贈った讃辞は型破りだが、彼らの小説『作家の情熱』を再評価するジュリアン・バーンズ("Soul Brothers." The Guardian, 5 November 2005 )は、コクトーに手厳しい。ちゃんとした讃辞をコクトーが「回避」したせいで、歓迎演説のアンドレ・モーロワが、タローの業績について異例の補足をすることになった。バーンズはそこに人気者コクトーの傲り、先人への無礼を感じるようだ。
亡くなった先人(番号つきの「椅子」fauteuilが一つ空席になる)の礼讃を行なうという演説の「型」が、いつできたものかは知らない。しかし少なくとも一例、ビュフォンの演説Discours sur le styleには、サンス大司教Jean-Joseph LANGUET de GERGY (1677-1753 Élu en 1721 au fauteuil 1)の名前さえ出てこない。
「文体とは思考に与える秩序と運動に他なりません」(" Le style n’est que l’ordre et le mouvement qu’on met dans ses pensées.")すでに科学アカデミーの会員でもあるビュフォンの文体観は建築学的で、「プラン」を重んじる。文体とは決して単なる飾り、才気や個性を見せびらかす道具ではない。十分に考え抜かれ(「話すように」書かれた文は×である)、それゆえに明快で、筋が通り、自然な美しさを具えた文章こそビュフォンの理想である。

自分の考えは皆様の著作に汲んだものですと一応は敬意を表しながら、その場にいる文人の文体批判を平気でやる。名指しこそしないがヴォルテールやモンテスキュー、マリヴォーが槍玉に上がる。この点はBuffon, "Discours sur le style"(Editions Climats、1992)の注解を参照。コクトーと流儀こそ違うが、こんなところにも演劇的面白さを感じる。