パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

漢字の勉強(こんなんで良いのだろうか?)

2020年11月06日 10時02分14秒 | 子どもたちのこと

昨日は木曜日
木曜日は外国にルーツのある3年生以上の子の勉強の手伝い
男の子2人(3年と4年)を見ているが、いつもなかなか集中してできない
「30分やったら絵を描かせてげる」
勉強が終わったら褒美(?)があるとちらつかせて、まずは宿題をするようにした

昨日の宿題はふたりとも漢字の書き取り
漢字をノート1ページに書き写して、とにかく覚えるようにするものだ
そこで違和感を覚えたのが3年生の子のノート(いつも何故こんなふうにするのだろうと思う)
彼が書き終えたページはページ全体に赤で大きく丸が描かれている
間違っているところは赤が入れてある(これは良いとして)

昨日は「消」「都」「美」「助」の漢字を、一列1に書くようになっていた
送り仮名がなく、単に一文字だけを書いて覚えるようになっている
そこで「消」の文字さして、
「これなんて読むか知ってる?」
と聞くと
「わからない」

助け舟に4年生の落ち着きはないが、まずまず宿題を真面目にやってる子にも聞いてみた
「けすだよ、ほら火を、、、、」
流石に4年生はちゃんと知っている
彼はポルトガル語で3年生に、多分消すの意味を伝えた
3年の彼は納得した様子
次に「美はなんて読む?」
と聞いてみると、やはり先程と同じ答え

またもや4年生の子の力を借りた
「うつくしい」
4年生の彼は彼らの言葉でジャスチャーも交えながらその意味を伝えた
今度も納得した様子

そこで、宿題の内容を変更した
ただ一文字を書き写すのではなく
「消す」「美しい」「助ける」「都(みやこ)」などと
と送り仮名と、漢字の横にふりがなを書かせることにした

「でも、、、、」
今度は子どもが困った顔をする
それは先生が「やってきなさい」と言われたことと違うことをすることへの不安感だ(多分)
その不安はわかる、しかし、ただの図形を書き写すだけじゃ意味がない
「良いから、僕が言うように書いて」
いつもとは違って少し強制的に書かせる
書き順も違うが、その都度直させて書かせる
不安を覚えながら彼は感じと送り仮名・ふりがなを書く
一通り終わると、今度は
「こう書いてみな!」
と「消火」「美人」「都会」と書いてふりがなも横に書いた
こうすると「火を消す」イメージが浮かんだようだ

都会の会の字を見て
「運動会の会だ」
そうつぶやいた
「そう、よく気がついたね、、じゃあ、都会って意味分かる?」
「僕たちの住んでる新城は田舎、もっと人口の多いところが都会」
ところが人口の意味が伝わらない
そこで「クラスは何人いる?」「家族は何人?」
「新城は何人いるのかな?そういう数のことを人口っていうんだよ」
「新城は4万人ちょっと、豊橋は35万人くらい、名古屋は200万人くらい}
数が多くなると子どもたちの顔が興味津々となる
「なら、東京は?」
「一千万人くらいかな」
「ええっ?日本はどのくらい?」
「1億3000万くらい」
「ええっ!じゃあアメリカは?」
「約3億人」
「それならブラジルは?」(やはりこの国のことは気になるらしい)
ブラジルの人口は知らないのでこれらを聞いていたスタッフが助け舟を出した
「約2億人だよ」
「もっと多いのが中国で14億人」
宿題とは話がそれてしまったが、少しばかり熱気のある時間となった

そんなこんなで違うことをやらされ、不安と不満げな3年生の宿題もこうして終わった
でも、つくづく感じたのは意味がわからないまま文字を書かせるのは、
本当に子の子たちに有効なんだろうか?ということ
確かに個人差があって、問題なく理解していく子どもたちもいる
しかし、目の前の彼は意味もわからずに努力を強いられれている
それはほんとに彼らのための教育になっているのだろうか、、、

先生の都合やら事情もあるだろうが、頼むからこの子たちの身にもなって
どういう教え方が良いのか、、真に考えて欲しいと思う

新城市はこういう子たちのためにプレ教育が行われることになっているが
早く機能するようにしてほしいと真から思う

9月の新城市の教育委員会の定期会議の議事録にはプレ教育にはこのように
書かれていた

○では、続きまして(6)日本語初期指導教室開室についてということで、学校教育課、お願いします。

○学校教育課長3月、4月、5月の休校に伴って、日本語をまだ習得できていない外国人児童生徒の日本語習得に向けた支援をしたいということで、日本語初期指導教室を開室させていただきます。具体的には、新城小学校に1人の指導員、千郷小学校に1人の指導員を配置します。そして週4日、いずれも午前中、2時間目、3時間目、4時間目、3時間の授業を特別に取り出して日本語初期指導教室で学習を行うという形を取らせていただきます。10月最初の週からスタートさせていただく計画であります。よろしくお願いします。

○職務代理者以前にもこのお話が出てきたかなと思うのですが、新城小学校と千郷小学校にそういう教室を設けると。そこを利用されるのは、小学生だけではないのですね。

○学校教育課長今のところ、授業についていけないとか、あるいは日本人の友達との意思疎通に困るというのがやはり小学生に多いようですが、最初、差し当たっては小学生のみということで対応させていただきたいと思っております。

でもこの活動はまだ行われていないみたい(?)
子どもにとって大事な時間はどんどん流れていく、大人がのんびりしてる余裕はない、、
と焦りを覚えてしまう

コメント (2)
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ほっこりする形を見に出かけた

2020年11月03日 08時22分02秒 | 徒然なるままに

どこかでその形から得られるほっこりした気持ちを求めていたのかもしれない
文化の日の昨日、巣ごもり状態が続いていたのでちょっとしたドライブにでかけた
行き先は、以前訪れたことのある浜松市の「ぬくもりの森」
今回は一人でいくことにした






なんとなく緩い感じで、ホッとする
どことなくガウディを思い浮かべる
曲線の多いフォルムが、それだけでほっこりする気持ちにさせるのは何故なんだろう

このほっこりした感じは、京都のぴんと張り詰めた印象を与えるお寺さんとは違う
お寺さんでも奈良のお寺さんはどこか鷹揚な伸びやかな感じがするが
京都のそれは庭の細部、石を敷き詰めた道、建物自体も「美は細部に宿る」
を実践しているかのよう
京都の張り詰めた空間もいいが、時々こうした欠点の多そうなものを見ると
「それで良いのだ」と思ったりする

外見だけでなく、家の中もいい感じで


室内の真ん中に木が堂々と鎮座している
不意にワルキューレの1幕のノートゥングが刺されたままになっている木のことを思い浮かべた
生き物が身近にある、、というのは良いものだ

スマホで撮影したのはこの他に




この場所、自宅から1時間位のところ、わざわざ高速道路を使わなくても
同じくらいの時間で来ることができたが、ナビに頼ったら290円の高速道路の料金を
支払うことに

それで帰りは、下の道を通った(龍潭寺に寄って、引佐から新城へ)
つくづく自分の住んでいる三河と遠州は近いものだと実感

それにしても行政単位の県というのは、思いのほか人の心に見えない壁を
作ってしまうのかもしれない
(これだけ近いのに、無条件に愛知県のスポーツチームを応援してしまう)

やはり、たまには外に出ないとあかんな!

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最後のページまでたどり着いた「近代の虚妄」

2020年11月03日 08時22分02秒 | 

最近はどうも雑な速読しかできていない!と反省を込めて
最後のページまでたどり着いたのが「近代の虚妄」

前半は興味津々で進んでいったが、真ん中くらいからよくわからない状態になった
ただそれは、何かと格闘している状態で、例えばゲームで色々体験しているとか
登山の途中で苦しんでいるみたいなもので、終わってしまえばそれなりに
充実感を感じたのだった

この本では小説にあるような登場人物に感情移入するのと似た経験を味わった
その登場人物は人間だ
正確に言えば西洋人としての人間だ
その人間の試行錯誤の取り組み、考えたこと、その結果等が、読んでいる自分の
内的経験として再現されているような気がした

西洋人の発想、物事を事細かに分析し積み上げる物事を突き詰めた考え方
そしてそれを確実にするための検証
それは広く一般化できるようなものと思われたために世界に広がっている
ただし、ここでよく考える人たちはつまずいてしまった
価値基準、あるいは判断基準となるものが本当に存在するのか
と考えた人が出てきてしまった(ニヒリズム)
昔はおおらなか理性、次は神の存在、そして現代は実証可能な(あるいは再現可能な)
科学が判断基準になっているが、この進んだ科学を元にした判断基準さえ
実験時の観察者の結果に与える影響等の問題が問題とされて
科学は結局のところ都合の良いツール(道具)の域を超えられないのではないか
そう考えることも可能になってきた

このあたり(この本に書かれた)理屈は正直言って慣れていないので、よくわからなかった
特に苦手なニーチェの言い分は、相性が悪いのかどうもストンと心に落ちることがない
だがニーチェのあとを引き継いだハイデガーの言わんとすることは、なんとなく分かる
ものごとを理解するというのは、左脳をつかった把握の仕方では満足できず感情を伴う
把握の仕方をしない限り真にその人のなかに落とし込まれない気がする

この感情を伴う理解の仕方は、人が育ってきた環境に影響される
それを地政学的というひともいるかも知れない
西洋人と東洋人である自分たち日本人は、深いところで感じ方に違いがある
理路整然とした西洋人の体系すら、色即是空とか無の概念をなんとなく受け入れている
日本人の感覚からすると、どこか違和感を感じるものがあるかもしれない
ということで、著者は本の最後に日本人の西田幾多郎を取り上げている
しかし残念なことに、これが難しい
ニーチェよりも理解困難とさえ思えてくる

要は、400ページを超えた大作を読んでも人に説明できるほど理解はできなかった
ということ
でも、読んでいてワクワクしたり、納得したり、そうかなと思ったり
それなりに苦労したのが面白かった
読書体験は、心にあるいは身体に何か刻まれるものだと思うが
この本はその内容を上手く説明できないとしても、
たしかに何かが残っていると感じられるので
パソコンに記録している読んだ本の評価には「優」をつけておいた

この本は「人が選ぶ本」ではなくて、「本が読む人を選ぶ」類の本かもしれない
でも、できれば、こういう本がベストセラーになって欲しい
そうなれば今の日本はもう少し変わる気がする

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いとこ同士の関係は、、

2020年11月02日 09時50分10秒 | あれこれ考えること

ツイッターで国文学の研究をしている方を偶然にフォローした
きっかけは藤原道長の
「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
の解釈が、以前は慢心しているような意味合いだったのが
戦前になって融和の意味合いがあるとの別の解釈が出てきて
教科書にもそのようになってきて、その姿勢はあの不幸な戦争になんらかの
影響を与えたのではないか、、と心配しているひとだった

正直なところ専門家ではないので解釈はよくわからないが
こうした論争のある問題については、じっくり専門家同士も
議論を重ねることが必要だと思われる
しかしながら、現代の風潮を反映して、この方はSNS上でしつこい嫌がらせを
受ける身になったようだ

この方の専門分野は(得意とするのは)清少納言らしい
昨年、読んでよかったのが紫式部の源氏物語だったが、そのライバルの清少納言
それで今度は清少納言についてもちょいとググってみた

紫式部の仕えたのは藤原道長の娘の藤原障子
一方清少納言が仕えたのは、藤原道長の兄弟(藤原道隆)の子の藤原定子
この二人はいとこ同士で、ふたりとも一条天皇の奥さんということになる
一条天皇の愛を競って仲違いしていた、、、と想像しやすいし
その下で働いているスタッフ同士も仲が悪いと想像できそうだが
いとこ同士はそんなに険悪な仲ではなかったらしい

藤原定子は清少納言に対して優しい接し方をしていたようで
枕草子にも一部そのエピソードが書かれているとか
だが第三子を生んだあと、24歳のの若さで亡くなってしまった
それを機に清少納言はこの職を離れたらしい

歴史の教科書には源氏物語、枕草子、紫式部、清少納言とバラバラに出てくるが
こうした背景を知ってくるとこの世界の興味は深まる
同時代に同じ様な才能の持ち主が現れるというのは、割合あることで
偶然というよりは必然性があるとさえ思えてしまう

空海と最澄も同時代の僧で、彼らは仲が良かったのか?
と気になるところだが、外野の多くが期待しそうな(?)仲違いは
ないことは無かったようだ
弟子が空海のところに修行に行ったら最澄のところに戻ってこなかったとか
空海が貸した本を最澄が返してくれなかったとか、、
人間同士の中ではありそうな事柄が、やはりこの人たちの間でもあったようだ

先程のいとこ同士の仲の良さとかライバル同士の気持ちとか
そうしたものを、偉い人の話ではなく一人の人間のありそうな話と
見ていくことは、歴史が身近になるような気がする

最近、ちょいと真面目な本に取り組んでいるがこの手のどこか世間離れした本も、
気持ちを落ち着かせるためには必要かもしれない(自分にとっては)

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