パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

少し知ってると全面的には信じないかも

2020年11月11日 08時33分21秒 | あれこれ考えること

知らないことは、知っていると思われる人に聞くしかない
ただ誰に聞くかは問題で、人は聞く相手の正しい選択ができるのだろうか

今年はベートーヴェン生誕250年で、昨日テレビ番組でクイズを混じえて
彼の音楽の話をしていた
よく知られた誰でも知っているエピソードはさておき、知らないと思われる
少しばかり専門的な事柄は、素人は専門家の説明を一方的に信じるしかない
だが、少しばかり彼の音楽に馴染みのある自分としてはちょいと頷けないところもあった

確かに概ねそういうことだな!と思われる説明はしていた
楽器に対するベートーヴェンの関与とか、メトロノームの使用とか、
依頼された仕事として作曲をしたのではなく、自発的な(内的な)衝動に導かれた
「芸術家」としての存在を確立したとかはそのとおりだ

しかしもう少し本質的なところは、(ベートーヴェンが達した音楽的な境地は)
その説明とは違う気がした(個人個人の音楽的嗜好が違うからかもしれないが)
解説者はその説明をするために誰でも知っている曲を取り上げた
だがへそ曲がりな自分は、その取り上げられた曲が本当にベートーヴェンの本質に
迫っているものかと疑問を持った

彼の場合、なんと言っても後期の音楽の内向的、幻想的な部分を取り上げないと
人としてのベートーヴェンの達した境地は説明できないのではないか
と思ってしまう
それは第九の「みんなが兄弟になる」といったシラー歌詞を音楽に取り上げて
人類愛に満ちた音楽を作曲したとする説明では物足りないのだ(自分にとっては)

ベートーヴェンの凄さは、絶えざる進化のような気がする
わかりやすい人類愛云々よりも、自分が一生を捧げた音楽の表現方法の追求と
その内容こそが心を打つ(自分にとっては)

個人的な思い込みがあるとしても、多少なりともベートーヴェンの音楽に親しんでいるものは
誰にでも分かるような説明には少し違和感をおぼえることがあるということ

だがこうしたことは、このようなベートヴェンに関することに限らず
多くの場所で起きているのではないか
最近ではアメリカの大統領選挙の解説、日本学術会議の解説については
良く知らない一般人はテレビの解説者(有名なわかりやすい説明をする人)の
解説を無条件に信じている
この方も概ね妥当なことを解説されるが、時々首をかしげる時もあった(自分の得ている情報と比べると)
要は、多少なりとも知っている事柄については無条件に信じることはなく批判的な見方ができ
自分の考えとの比較ができるということ

この意味で本当は自分で独自に情報を仕入れて自分の考え方を持つのが良いと思われるが
その情報の仕入先も現実には何らかの編集をされたなかから選ばざるを得ない
(ネットでニュースとして取り上げられた時点である種の選択・編集が起きている)
だからこそ敢えて相反する立場の意見を収集することが必要と思われるが
これが面倒で、結局は関心のない人はわかりやすい単純化された理解で満足してしまう

多くの意見とか空気とかに左右されやすいのが日本人の特質か
それともオルテガの言う大衆の傾向か
それはわからないが、できれば個人個人が自分の判断とか意見をもち
それを言葉にする癖(習慣)ができればいいと思ったりする

ということで、独断と偏見に満ちた思い込み

コメント
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