パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

幸せの定義

2006年04月30日 19時49分21秒 | Weblog
少なくとも一日に一回は、
家族(恋人)と向かい合って(ここが肝心)食事できることを
幸せの具体的な形、求めるべき姿と定義したいと思う。

語り始めると、幸せとは人それぞれで
人の数だけある等ということになってしまうので
今の日本の状況を前提にしたところという限定条件を付ければ
実は、求めるべき姿は
こんな小さな事なのではないだろうか?

大きな家に住む、
豪華な車がある、
ブランド品もたくさん持っている
しかし、家族とすれ違いで顔を合わせることができないとするなら
それは幸せなのだろうか?

何かを買うためにお金が必要で
お金を得るために、家族との時間を犠牲にして働く、
しかし、今の時代あまり贅沢をしなければ、
たいがいの人は暮らしていける。
だから、犠牲にすべきは
家族との時間ではなく、
お金を稼ぐための時間ではないのか。

勿論、この考えは非現実的だったり、理想的すぎるかもしれない。

しかし、最近頻繁に起きてしまう、若者たちの悲しい事件は
精神的に窒息しそうなのに、我慢を要求され
感情を小出しに、解放することができない日々の連続が
引き起こしているのではないだろうか。

それは、最近の若者は我慢が足りないというのとは少し違う。
我慢が足りないのは、
実は、長いものには巻かれろと
知ったかぶりの我慢を、いやいやながらしている
(それはそれで立派でもあるけれど)
人々ではないのか?

変なことには、やっぱり変だと、言わなければ
いけないのじゃないのだろうか?

まずは、小さなことから、
つまり、家族の顔(恋人の顔)を見ながら
食事する時間を確保する、
世の中は、実はこんなことから
よい方に変わっていくのではないのだろうか?

うーん!甘い?

しかし、甘くて結構!
これこそが
Love&Peaceだ

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