パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

時々思う「どうでもいいこと?」

2014年08月24日 05時43分19秒 | あれこれ考えること
時々思うことがある
記憶や知識はどこに保存されるのだろう
脳の地図上のことではない
そしてその物理量は現実にどこに存在するのだろう

ある刺激は脳のある場所を活性化させて
微弱な電流が流れるという
ニューロンが伸びたり作成されたりすることが
記憶につながる現象なのだが
それがどんな記憶かは分からない

一般に記憶や知識は文書化されて
そこに残っているとされる
しかし、その文章を読んで解釈する力のない人は
その文章は記憶でも知識でも何でもない

例えば古文書
古い言葉を知っていて、読むことが出来て
尚且つ必要とされる知識がある人には
その古文書は記録とか記憶のきっかけの一部となる

しかし、古文書の知識のない人は
それらを前にしても、脳に微弱な電流さえ流れないに違いない
目の前にあるのはある物質だけ

つまり記憶とか知識の存在とは
ある刺激に対する反応のようなもので
脳の中で起こる中にしか存在しない
そしてその物理量は残念ながら計測できないし
その内容は分からない

同じものを見ても同じものを見ているという事実は確かだが
同じように見えているかは分からない
例えば色もそうだ
右目と左目を片方ずつである景色を見ると
その色彩は微妙に違う
視覚に関する組織、網膜の僅かな違いが引き起こすのだろうが
同じ人間の中でさえそうなのだから
他人ではもっと違うと想像しても不思議ではない

ただ厳密な意味ではなくアバウトの部分では
みんな同じように(色を)感じているということは言えそう

音楽を聴く時、多くの人が一緒に聴いたとしても
そのジャンルの音楽に慣れているか慣れていないかで
聞き取る情報量が全然違う
例えば同じくらいの経験者であったとしても
生きている過程が違うので、やっぱり感じることの違いは存在する
それらは全て脳の中で起きている微弱な電流のなせる技

しかし、その中にもやはりある種の共通というしかないような
感情や印象を持つことがある
それは一体何なんだろう

こんなことは普通に考えれば当たり前の現象
でも少しまじめに考えたりすると極めて不思議なこと
もっともこの不思議を感じることが
生きていく上で必要かどうかは大いに疑問だが

ところで本を読む時(黙読)最初は確かに頭の中で声がする
そのうちに声の存在は忘れて内容に集中することができるが
この最初の声は(音質)は何なんだろう
普段の自分の体を通しての声とはどうも違うみたいだし
音色があるようなないような、、、

ま、どうでもいいことだけれど


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