銃殺に抗議
ナチ軍の侵略はすさまじいものがあった。備蓄していた食料品はもちろん、港湾施設、クレーンにいたるまでドイツに持ち去られてしまった。オランダ国民は、文字通り塗炭の苦しみにあえいでいた。そのことが、ドイツへの深い恨みへと変わっていった。
一方、長く戦争の緊張感にさらされたナチ軍人の多くが、酒におぼれるようになってきた。酔った兵士が、数多く運河に突き落とされて死んでいった。その数は、落下傘部隊の戦死者より多いのではないかとうわさされるまでになってきた。
侵略統治に協力しようとしないオランダ人に対して、ナチ軍は次々と無差別な銃殺刑を行うようになって来た。サボタージュや軍事妨害行動を先導する犯人が見つからないことに腹を立てたナチは、ロッテルダムの指導的人物五名の銃殺刑を発表した。
「なんということだ。この人たちは私の友人ではないか。」
新聞でそれらの人々の氏名を見た晃は、おおいに憤慨した。許せない。その当時、ロッテルダムの日本名誉総領事はファン・フリート氏であった。意を決した晃は、フリート氏に会いに出かけた。
「フリートさん。お願いがあります。銃殺が発表された、商工会議所会頭、船会社社長など五名の身代わりになりたいのです。彼らは私の友人たちです。代わりに私が銃殺されますので、彼らの助命をハーグにいるナチ軍司令官に伝えていただけないでしょうか。これまでロッテルダムでお世話になった日本人として、ナチ軍のこのような無謀を許すことはどうしても出来ないのです。」
と訴えた。そこには、「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂ふ山桜かな」の心境があった。爆撃でいつ死ぬかもしれない自分の命を役立てたい。
フリート氏は、しばらく瞑想していた。
「ありがとう、晃さん。オランダ国民一千万人あまりの中で、誰一人そのようなことを言う人がいない。恥ずかしいことだ。ましてや、貴方は異国人であり、しかもわがオランダの敵国人でもある。その貴方が、友人であるオランダ人のために身代わりになろうとしている。なんというありがたい申し出であることか。」
と涙ながらに語った。
つづく
第二次世界大戦勃発に遭遇する
1939年9月、英国とフランスがドイツに宣戦布告した。
「ヒットラーが攻めてくるわ。」
ラウラが悲痛な声で叫んだ。
オランダ、ルクセンブルク、ベルギーのいわゆるベネルクス3国は中立を宣言していたが、ナチの軍隊はそのようなことは意にも介していなかった。1940年5月、3日間から5日間の猶予をもってオランダに降伏を求めてきていた。晃とラウラは、その時、ロッテルダムにいた。予告された3日間の以内にオランダは降伏しなかったので、最初の大規模な空爆がロッテルダムに対してなされた。その結果、市内の3分の一が消失し、目抜き通りの繁華街は灰燼と化してしまった。
「オランダは、これからどうなるのだろう。」
晃は、呆然として一面の火の海を眺めていた。数え切れないくらいの無辜の民が犠牲となっていた。混乱と恐怖が、体の底からわきあがってきた。4日目になってもオランダは降伏しなかった。ヒットラーは、ハーグ、アムステルダムと順次爆撃する旨を通告してきた。こうしてオランダ政府の内閣は、5日目についに降伏を受諾した。
ドイツの落下傘部隊と陸上部隊が続々と進行してきた。彼らは占領したオランダの西海岸より、V2遠距離砲弾をロンドンの中心部に向けて発射し始めた。戦線はベルギーからフランス北部へと拡大され、世の中はまさに修羅の巷となってきた。ドイツ軍が占領したオランダ領の中でも、ロッテルダムには石油基地、魚油のタンク、造船所、食料品倉庫があったので、連合軍の爆撃機がたびたび来襲し爆撃を行った。その結果、住民は戦々恐々たる生活を送るようになった。一方、ドイツ軍の高射砲が四方八方から敵機めがけて発射されるので、両陣営による仕掛け花火のような光景が毎夜続いた。
晃は、他の市民と一緒に防空壕へ避難していたが、爆撃があまりにも頻繁であり、次第にあきらめの境地に到達してきた。
「もう逃げるのは止めだ。」
そう悟った晃は、ラウラと子供たちを避難させ、一人書斎にこもって勉学に励むようになった。法華経、観音経、般若心経を読破し、老子の道教を英語と蘭語に翻訳し、旧約聖書や新約聖書を読み漁った。そしてついに「永遠のカレンダー」と題した宗教哲学書をオランダ語で出版してしまった。まさに、万経帰一の心境に達したのだ。晃が41歳のときだった。まことに不思議な男である。
つづく
独占から公平へ
第一次世界大戦後、ドイツは多額の戦争賠償金を負わされ、深刻なインフレにあえいでいた。そのことがヒットラーの登場を促し、やがて第二次世界大戦に突入していくことは周知の事実である。勝者は既得権を振りかざし、敗者は隷属に困窮する。古い昔から変わりもしない歴史が繰り返されている。
晃が関わる貿易の世界でも同じことが言えた。東洋から欧州に輸出される大豆・落花生・大豆油・魚油なとの油脂原料品にはロンドン契約が適用され、かならずロンドンの仲買人を通すことが強要されていた。
このことを回避するために、ロッテルダムに住む日本の副名誉領事であるファン・フリート氏から、直接欧州へ売り込むことを提言された。もし直接販売できれば、多額の利益を上げるだけでなく、英国以外の欧州の国々にとって大いに歓迎されることが予想された。「なんとかしたい。」と晃は思った。
そこで、ドイツのケルン、デュッセルドルフ、クレイフトなどにある大豆の消費地、油工場の視察に出かけた。確かにドイツのインフレはひどかった。列車や船代は、一等に乗っても日本円で400円以下だった。ビールを注文してすぐに代金を払わないと、50万マルク単位で値が上がったと言われた時代であった。10数年間働いた女中さんが、結婚用にこつこつと貯めた給金でハンカチ一枚しか買えなかったという悲話もあった。何とかして助けて欲しいというドイツ国民の願いを身にしみて感じた。
早速、欧州大陸に油脂原料品を直接売るべく努力を開始した。そのためにベルギー人の実業家ラッセル氏と共同出資して組合を作ろうと考えた。そのためには資本がいる。再び船に乗って日本に帰り、父親のつてを頼り出資者探しに奔走した。しかし、結局うまくいかなかった。
一つには、欧州大陸銀行の信用状開設経費が英国銀行より高く、しかも取引ごとに多額の保証金が要求されたことと、
二つには、英国の銀行に比べて、日本の貿易金融や外国為替を専門とする横浜正金銀行(後の東京銀行)が海外戦略にあまりにも消極的であったこと、などがあげられた。
失意の下にロッテルダムに帰った晃のもとに、ヒットラーがドイツ向けの原料品をロンドン経由しないで直接取引するように法令化したとのニュースが飛び込んできた。続いて、三井物産と三菱商事がそれぞれハンブルグとベルリンに現地法人を設立したため、ロンドンにある企業との競争が激化してきた。このような貿易摩擦が、やがて始まる第二次世界大戦のきっかけとなったのである。
こうして、公平でありたいという善意の気持ちは、独占したいという利己的な潮流に押しつぶされたのであった。
つづく
一視同仁の愛
1924年、25歳の晃はロンドンにいた。思うところがあって、日々、大英博物館の図書室に通っていた。彼が座って作業をしている席は、かのカール・マルクスが、19世紀中ごろ30年間通って資本論を書いた同じ席であった。そこで晃は、油脂国際取引のための基本条項であるロンドン契約もしくはリバプール契約に関して、調べごとをしていた。これは、欧州へ輸出されるすべての油脂原料がこの契約に基づいて執行されている現状の打破にかかわるものであった。この契約があることで、英国は、いかなる場合でも1%の手数料を手に入れることができた。仮に、積載船が沈没して積み荷がすべて失われても、英国の仲買人は利益を得ていたのである。国際的不平等といえた。
博物館からの帰り道、ロンドン郊外へ向かうバスに乗った。車内はひどく込み合っていたが、とつぜん老齢の英国紳士が立ち上がって、晃に席を譲ろうとした。
「どうぞ、お座りください。」
「ありがとうございます。しかし、私は25歳でまだとても若いので、座らなくても大丈夫です。」
「遠慮なさらないでください、この地はあなたにとっては異国の空です。さぞ不慣れなこともあるでしょう。ただ、その代り、あなたにお願いしたいことがあります。もし我が国の同胞が、あなたの国で困っていたら、ぜひ面倒を見ていただけないでしょうか。」
「もちろんです。」
晃は、かの紳士の暖かい申し出を受け入れることにした。たかがバスの席ひとつ、されどその席が、大きな結果をもたらすこともある。
ロッテルダムに帰って、この話を妻のラウラにした。すると彼女は、興味ある話を聞かせてくれた。
「ロッテルダム港のそばに、子沢山の靴修理屋さんがいるのだけれど、日本人の船員さんを世話しているのですって。なんでも南米に向けて出航した貨物船に乗り遅れた人で、次の航海までここで待っているらしいの。おかみさんの話だと、同じくらいの年の息子さんが南アフリカへ行く貨物船に乗っているらしくて、とても他人事とは思えなくて世話をしているらしいのよ。日本人の船員さんに良くしておけば、きっと神様が息子さんをお守りくださるって言っていたわ。」
一視同仁というのはこのことか、と晃は思った。古くて新しいもの、それは人と人とをつなぐ愛であり、何げない普段の生活の中に生かされてこそ、持続するものなのだろう。
つづく
大正時代の英国
ニューヨークを出た船が、英国のリバプールに着いたのは1週間後だった。ここからロンドンへは列車で移動することにした。
「荷物が多いので、預けましょうよ。」とラウラが言うので、3個の大型カバンをチッキにすることとした。駅員に聞くと、「後ろに連結した貨物車両に自分で積み込んでください。」と言われてしまった。預り証も受取証もない。客が勝手に積み込んで、勝手に降ろしていく。
「本当に大丈夫かな。」
ラウラは「大丈夫よ。」と言うが、晃は心配でならなかった。
列車が止まるごとに小走りに降りては、荷物の確認に出かけた。いい加減疲れた頃にロンドンに着いた。荷物を取りに行くと、少し元の位置はずれていたが、確かにカバンは積み込んだ車両にそのままあった。晃は、英国人を少しでも疑った自分が恥ずかしかった。当時の日本内地鉄道では、考えられなかったことだったからである。
晃は、同じような出来事を、英国のハル港から列車で3時間ほど行った所にあるスカンソープという小さな町のホテルで経験した。
「新聞が欲しいのだけれど。」とコンシェルジュに聞くと、「入り口に積んでありますから、自分でお金をおいて好きな新聞を持っていってください。」と言われた。確認に行くと、新聞の横の小皿の中に小銭が入っていた。
日本という国で、現代のような道徳観がいつごろ形成されたのかは明らかではない。少なくとも、1924年大正13年頃は、あまり道徳的ではなかったようだ。当時を振り返って、「衝撃的な経験でした。」と晃は語っている。
「日本人は世界にまれに見る、礼節をわきまえた民族である。」と記述したのは、16世紀に日本へキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエルだと言われている。また、明治の教育者、新渡戸稲造は、日本人の道徳の根底には武士道があると語っている。しかし、考えてみるに、道徳観というのは時代によって変節しているし、一貫したものではなかったのかもしれない。常に軌道修正する教育がなければ、人間は簡単に堕落するようである。
つづく
人種差別待遇に奮発
ジャワを離れてから3年たった。オランダのビジネスも軌道に乗ってきたので、ラウラと正式に結婚することにした。アキラが23歳、ラウラ20歳の年だった。
ラウラの父親が神父をしているジャワで式を挙げ、晃の父親がいる沼津で披露宴を行った。それからあわただしく太平洋を船でアメリカにわたり、サンフランシスコから大陸横断鉄道に乗車した。ニューヨークでビジネスを済ませ、やっとロンドン行きの船に乗った。ハネムーンがビジネス旅行になったので、ラウラは機嫌が悪かった。せっかくだからと奮発して、キュナード・ライン社の豪華客船「アルバニア号」の乗客となった。
「すばらしい船だわ」とラウラの気分が変わってきたので、晃はホッとした。
毎夕、晩餐の後、美しい音楽が奏でられ、ダンスが催された。白人のカップルは踊りを楽しんでいたが、どうも気に入らないことがあった。晃とラウラの食事の席は、いつも大きな食堂の片隅にセッティングされた。抗議をしたが、満席を理由に変えてもらえなかった。
「あなたが有色人種だからだわ。」
ラウラの皮肉が、晃の心に重くのりかかった。「そうではないだろう。」と思いたがったが、厳然たる差別があった。鬱々とした気持ちで、毎日、船内の図書室にこもって、オランダ語と英語の比較文法書を執筆した。ラウラの機嫌は、ますます悪くなっていった。
「口惜しいな。」
当時、有色人種への差別はいたるところにあったが、こういった特権階級の場では露骨だった。今に見ろ、白人など何するものか。晃の心に強い反発心がわきあがってきた。
ちなみに、キュナード・ライン社は英国の有名な客船会社で、クイーン・エリザベス号やクイーン・メリー号、クイーン・ビクトリア号といった客船の運用をしている。現在ではこのような差別はないと思うが、1924年大正13年の頃は、有色人種に対するあきらかな差別待遇があった。
つづく
発展の陰に
1923年大正12年2月20日、東京駅前に「丸ノ内ビルヂング」が完成した。地上8階建て、地下1階建ての本格的な高層建築であった。
晃は早速、近代化した東京の絵葉書を買って、オランダへのお土産とした。やっと日本も欧米並みになった気がしてうれしかった。
「ヨングさん、この絵葉書を見てください。これで日本も欧米の仲間入りです。」と、ロッテルダムのヨング名誉領事に差し出した。ところが、ヨング氏の反応は鈍かった。
「アキラさん、私は20歳ころに長崎出島へ行きました。日本人は、蒸気船にびっくりしていました。さっそく幕府から軍艦の注文がオランダに来ました。進水式には、榎本さんらが引き取りに来ました。陣笠をかぶり、日本の刀を差した侍が珍しくて、子供たちがついてまわりました。その時、一人の侍が折りたたんだ紙を道端に捨てました。子供は、お菓子でも入っているのかと思って、喜んだ紙を拾ってあけました。びっくりしましたね。鼻をかんだ紙だったのです。立派なビルディングもいいですが、大切なのはそれを使う人の心です。」
晃は、とても恥ずかしかった。確かに、江戸末期、日本には公衆道徳はなく、ごみを捨てたり道端で平気で小用をしたりして、外国人のひんしゅくを買ったことは伝え聞いていた。しかし、大正12年の今になっても、山川はおろか公道にでもところ構わずごみを捨てる習慣は改善されていない。
一方、オランダ人は、たばこの火つけに使ったマッチの軸を残らず家に持ち帰り、暖炉で燃やしている。公徳心とは何か、それを思い知らされた気がした。はなやかな外観は、それを支える美徳があってこそ価値があるのだということを、ヨング氏から教えられた気がした。
ちなみに、丸ノ内ビルヂングは、同年9月1日起こった関東大震災によって外壁や構造などに損害を受けたが、大きな被害はなく被災者救援の拠点の一つとなった。その後、大改修して1926年に営業が再開された。
つづく
世渡りの要領
「アキラさん、このせっけん、日本で売れませんか。」
共同経営者のリックがそう聞いてきた。彼は、ベルギー人で、ブラッセルにせっけん工場を持っていた。1922年、日本に一時帰国する私に託そうと、見本として化粧せっけんを一ダース持参していた。
「うーん、売れるかどうかわからないけど、とりあえず預かるよ。もし売れなかったら、お土産にするからね。それでいいのなら。」
そう言って、晃は化粧せっけんをカバンにしまいこんだ。オランダからマルセイユまで国際列車で移動し、そこから日本行の船に乗る予定だった。
オランダを出て直ぐに、ベルギーの国境に着いた。ベルギー税関の係員が、せっけんにかかる輸入税を払うようにと言い出した。トランジットだから払う必要はないのではないかと主張したが、なかなか聞いてもらえない。そうこうするうちに、列車の出発時刻が迫ってきた。しかたなく、晃は英国ポンドで税金を支払った。当時、ベルギーはインフレだったので、おつりに大量のコインを手渡されてしまった。
「まったく、ひどい目にあったよ。」
帰国後、日本の外務省の知人に愚痴ったら、
「晃さんが世慣れていないからですよ。少し税関吏に袖の下を渡せば、うまく処理してくれたのに。」
と教えられた。なるほど、と思ったが、ベルギー産のせっけんがオランダに輸入され、再びベルギーを通過する際に輸入税を要求される不合理さや、輸入税とワイロの多寡を考えると、すっきりしない印象が残った。ちなみに、フランスでは課税されずに、何事もなく通過できた。
そういえば、と晃は思い起こした。ジャワにいたとき、日本船からもらった味噌一樽を正式に通関手続きした際に、「肥料なら税金はいらない。」とオランダの税関吏が粋な計らいをしてくれたことがあった。それ以来、ジャワでは、味噌は肥料で無税として取り扱われた。本当に糞便だと思っていたのだろうか。
満州から輸入した大豆や落花生が、途中の港で荷役の際に大量に抜き取られるという話を、貨物船の船長から聞いたこともあった。このような荷抜きは、マルセイユやジェノバ、アントワープでよく起こるが、ロンドン、ロッテルダム、ハンブルグなどでは少ないようだ。船長らは、宗教との関連を指摘していたが、本当だろうか。若くて正直者の晃には、この世の中には理解できないことが多かった。
「いったい何が世渡り上手なのだろうか。」
つづく