コスモポリタンの恋
「さて、ここまでは、先生の貴重な人生遍歴の序章でした。」
俊一は、そう前置きをして、しばらく沈黙した。
「先生の名前は、鳥沢晃。私の人生の師と言っても良いと思います。彼が歩んだ波乱万丈の人生は、明治・大正・昭和をつなぐ、日本史いや世界史の裏側ともいえるものです。その当時、権威に屈せず、自己を磨き、冷静な分析力を信じ、国際的に生きた日本人の生き様を、今の人々に思い出して欲しいのです。だからこそ、この文章をまとめる決心をしました。日本にも、こんな人がいたことを多くの人に知って欲しいのです。」
いよいよ、先生こと、鳥澤晃の波乱万丈の人生譚のはじまりです。
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「ラウラ、会社は認めてくれそうにない。」
晃は、宣教師の娘、ラウラに言った。彼らは、しばらく前に婚約していた。堅物の晃が、なぜラウラと愛し合うことになったのか、自分でも良くわからなかった。オランダ語を学ぶために教会に通っていたら、いつのまにかこうなっていた。それは男と女の、自然の流れだったのかもしれない。女性を避けるようにして歩行していた日本男児の晃からは、想像も出来ないことだった。
「どうする、アキラ。私は絶対に結婚したい。」
18歳になったばかりのラウラは、情熱的な女性だった。その気持ちが、純朴な晃の背中を押していた。
東京の三井物産本社から、実家にも二人が婚約したという連絡がいった。400年間続いた沼津の旧家では、当主である養父が断固反対だった。
「何が悲しくて、日本男性が、インドネシアで会ったオランダ女性と結ばれなければならないのだ。」
そんな強い口調の手紙が来た。
父親は、腹を切ってお詫びするとまで言い出していた。
大変なことになったなと思っていたら、やがて、会社から、東京本社への転勤命令が来た。なんとしてもこの婚約を破棄させようということだった。
逆に、このことが晃の気持ちを決めさせた。
「ラウラ、私は会社を辞めようと思う。やめて、オランダで独立して貿易を行い、その上で結婚したい。」
若い二人の決心は固かった。こうして会社に正式に辞表を提出した。
そして、晃はオランダ語の習得により熱心に取り組むと共に、新しく立ち上げるビジネスの準備にとりかかった。
数ヶ月たってからやっと会社も辞表を受理してくれた。
晃は日本に一時帰国することにした。
必死の説得もあって、父親や伯父もやっと結婚を認めてくれた。
さっそく、ヨーロッパに持っていく品物の見本を買い揃えた。陶器や漆器、アンチモニー製品などであった。
興味深いことだが、アンチモニー製品というのは、江戸時代末期に失職した彫り物師が葛飾区で立ち上げた地場産業で、世界中でここにしかない。日本のオリジナルブランドだ。これに目をつけた晃の商才には、先見の明があったと言える。ヨーロッパに輸出されたアンチモニー技術は、やがて宝石入れやオルゴール・ライターなどに取り入れられ、ベルギーなどで有名になっていくのだった。
さて、とうとう、晃は横浜港をエンプレス・オブ・ロシア(ロシアの女王)号に乗って、カナダへ向けて出航した。1920年大正9年11月初旬のことだった。船は約1週間でバンクーバーへ到着した。それからカナダ横断鉄道で東海岸へ向かい、シカゴを経てニューヨークへたどり着いた。今でも大変な旅程であるのに、この当時はもっとつらかったことだろう。しかし、ニューヨークでヨーロッパへ向かう船待ちをする間に、ジャワに輸出する米国硫安の買取り交渉も行っている。
当時、まさに、怖いものなしの若き貿易商であった。
つづく