DALAI_KUMA

いかに楽しく人生を過ごすか、これが生きるうえで、もっとも大切なことです。ただし、人に迷惑をかけないこと。

湖の鎮魂歌(119)

2013-12-04 10:54:11 | ButsuButsu


今関信子さんの著書「琵琶湖のカルテ」の中に私の解説がある。

あまり解説らしくない文章だが、結構あちこちで参照され、受験参考書にも掲載されている。

一部は以前ご紹介したと思うのだが、ここに全文を掲載しておく。

何かの参考になれば幸甚である。

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びわ湖 徒然(つれづれ)

 紀元前(きげんぜん)五百年ごろに中国で活躍した、孔子(こうし)という人の教えをまとめた書物がある。その本の名を「論語(ろんご)」という。この本の中に、「知者(ちしゃ)は水を楽しみ、仁者(じんしゃ)は山を楽しむ」という一節がある。 知識の豊富な人は、刻々と変わる水のように世の中で機敏に生きることを楽しいと感じる。一方、徳の高い人は、山のようにゆったりとして生きることを好む、という教えである。どちらがよい生き方なのかについて、孔子は答えていないが、どちらかを選ぶという問題ではない気もする。

 私は、大学時代に登山クラブに属し、南米のアンデスにある五七〇〇m峰の初登攀(しょとうはん)までやりとげた。青春時代に、思い切り山を楽しんでしまったわけだが、後悔はしていない。今は、生涯の仕事として、湖の研究に明け暮れている。琵琶湖上に調査船を浮かべ、最先端の水中ロボット「淡探(たんたん)」が写し出す湖底の映像を見ながら、自然環境を知る面白さに浸っている。

 このように、私は、実体験として山と水の両方を楽しんできたが、まだ知者にも仁者にも到達していない。どうも、水を楽しむ人が知者で、山を楽しむ人が仁者というわけでもないようだ。けれど、欲張りかもしれないが、できることなら、知識と仁徳の両方を備えたいものだと思っている。もし、知者が「変えること」を求め、仁者が「変えないこと」を求める者とするならば、環境問題はまさにその両方を必要としているからである。

 環境問題とはなんだろうか。よく、環境の保全と言われる。国語辞典には、「保全とは、保護して安全であるようにすること。」と書いてある。つまり、人間が管理して安全な状態にすること、を意味している。一方、土木用語解説では、「保全とは、資源として利用することを前提として人手を加えること。」となっている。同じ言葉でも、見方や立場が違うと、こんなにまでも異なった解釈になってしまう。ただ、どちらも人の手が加わるという点では同じである。つまり、環境保全とは、人の手を加えて、人間の生活に有害な環境を、より安全な環境に変えることである、と言える。

 では、環境問題の解決は、環境保全と同じと言えるのであろうか。答えは、「ノー」である。私たちは、環境問題を、もっと広い意味でとらえている。地球上の動植物全体を含めた、自然としての環境を対象としている。だから、人間にとって不都合な環境でも、他の動植物にとって都合がよければ、変えないこともありうる。逆に、人間にとってよい環境でも、自然にとって悪い環境なら、変えていく必要がある。だからこそ、環境問題の解決には、知者と仁者、知識と仁徳が必要である。

 知識は「知る」ことから始まる。知らないから、知ろうとするのである。このことから知恵(ちえ)の源(データベース)ができる。科学の基本も、実はここにある。科学とは、自然の法則を知ろうとすることであり、その得られた知識を活用して人間の暮らしを便利にしていくものが技術である。知識を得た人(知者)が、それを利用したいと思うのは、自然の流れだ。およそ五百万年まえに地球上に誕生した人類にとって、知識こそ進化と生存を可能にした最大の武器であった。

 一方、知識を得たことで失ったものもたくさんあった。農林水産業の発達は、自然の動植物を改変させてきた。鉱工業の発展は、自然環境に大きな影響を与えてきた。「変える」ということは、「得る」ということだが、その結果、古きよきものを「失う」ことにもなった。現在問題になっている、地球(ちきゅう)温暖化(おんだんか)もそのひとつである。石炭や石油という化石燃料の利用を覚えた人類は、大気中に多大な二酸化炭素を排出してきた。このような、温暖化ガスといわれる気体の増加によって、地球の平均気温は、過去百年間に一℃上昇した。二十一世紀中には、最大で四℃上昇するといわれている。「変えた」事に対する、自然の反応である。

 人類の進化は、自然との闘いでもあったが、一方、人類は自然の恵みの中で生かされてもきた。それは、「変わらないもの」に対する順応でもある。私たちは自然を可能な限り破壊したくないと思っている。この「変えないこと」は仁者の道である。仁者は、仁徳という教えでもって人や自然と向き合ってきた。仁徳とは、他人に対する思いやりである。思いやりがあれば他人が嫌がることをすることはない。これは相手が自然でも同じである。

 びわ湖について語ろう。過去数十年にわたる私たちの生活様式の変化は、びわ湖に大きなストレスを与えてきた。その履歴(りれき)がびわ湖の湖底にある。湖底の泥は、私たちが出したさまざまな物質で汚染され、富栄養化(湖に栄養が多く流れ込んで、植物プランクトンが大量に発生する状態)と地球温暖化によって、環境が大きく変わってきた。もっとも大きな変化は、湖底付近の溶存酸素濃度の減少である。

 酸素がなくなるということは、びわ湖にとって大きな変化をもたらす。生き物が住めなくなるだけでなく、水質(すいしつ)も悪化する。湖底泥に含まれている窒素やリンだけでなく、ヒ素やマンガン、硫化水素といった毒物も溶け出してくる。そして、もっとも懸念されることは生態系そのものが大きく変わってしまうことである。びわ湖の水をすくって飲めた時代は終わってしまった。さまざまに複合的な物質が浮遊するびわ湖の水。水道水への直接的な影響は小さいが、そこで生活をする生物にとっては、深刻な問題である。人間が「変えてしまった」びわ湖の環境をどうすればよいのだろうか。

 初めに、知者と仁者のことについて触れた。傍観者として、現状を見ないふりをするのか。積極的に知ろうとするのか。意見の分かれるところである。過去を懐かしみ、生物を憐れんでも仕方のないことだろう。なぜなら、すでに「変わってしまった」のだから。びわ湖にある竹生島や多景島、沖の白石、どこへ行ってもブラックバスとブルーギルの天下である。湖底泥の中は、いたるところ無酸素状態で、現状では回復する見込みはほとんどない。すべて、人間のなしてきたことの「結果」である。

 知ることから始めたいと思う。仁者の心を以(も)って、知者としてふるまおう。知らなければ、目前に迫る危機を回避することはできない。可能な限り多くの情報を得て、最善の方法を考えよう。改めるべきところは改めて、残すべきところは残そう。知ったかぶりはやめよう。目で見て、手で触って、心で感じよう。そういう姿勢が環境問題の解決につながる。

 昔、人々は、びわ湖を恐れていた。びわ湖は、多くの恵みをもたらしたけれど、それ以上の危難ももたらした。だから、とても怖い存在だったのだと思う。そのことがびわ湖の自然を守ってきた。今、私たちはあまりにも馴れすぎてしまった。びわ湖はきれいであることが当然であると思い込んでいる。水洗トイレはきれいになったかもしれないが、流されたものが行き着く先はびわ湖の底であることを忘れてはいけない。びわ湖の環境はテーブル上での議論ではなく、自然を知ることによってのみ守られる。
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12月3日(火)のつぶやき

2013-12-04 05:14:08 | 物語
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