1.神々の峰に抱かれて
がたがたと座席がゆれて、20人ほどの乗客を乗せた双発機が、小石混じりの滑走路に降り立った。
窓の外は、まるで月世界ように、砂と石だけから構成された殺伐とした情景だった。
ここは、ネパールにあるアンナプルナ峰とダウラギリ峰にはさまれた、標高2743mのジョムソンという村である。
二人の日本人が、ゆっくりと席をたった。
一人は、長髪で、ほりの深い顔つきをした男で、名前を門田毅といった。
しっかりとした足取りで先にタラップを降り立った門田は、後から降りてくるもう一人の男を見てぶっきらぼうに言った。
「熊さん、ここがジョムソンですよ。」
長い間の約束だった。
いつか二人でヒマラヤへ行こうと誓ってから、すでに15年近くの歳月が流れていた。
熊さんと呼ばれた男は、本名を熊谷といった。
熊谷が、京都大学の大学院博士課程に在籍した頃、門田は京大山岳部から山歩会に移ってきた。
もっと自由に山に登りたい、というのが彼の願いだった。
その当時の山歩会には、そんな自由な雰囲気があった。
自分の責任で、自分のスタイルで、登りたいところへ行く。
より高く、より強く、天馬のように、空の青と白い峰が溶け合うところまで登りつめたい、といった若くて純粋な欲望がA地下BOXにはみなぎっていた。
1978年に、熊谷は山歩会の遠征隊7名を指揮し、南アメリカのアンデス山群にあるP29峰という未登頂の山を征服した。
標高は5,700mであった。
今でも、自分たちが世界で初めて登った峰があるということは、登山を志した者の勲章だと思っている。
アンデスからの帰国後、さまざまな理由から山歩会での過酷な登山を断念した熊谷が、最後の山行に選んだのは積雪期剣岳北方稜線だった。
彼は、山歩会を卒業するときにはこのコースを踏破しようと心に決めていた。
その時のメンバーは、熊谷、中西章、門田、豊島の四人だった。
当時、全員が20代の若いクライマー達だったので、雪山のラッセルや氷壁の登攀は少しも苦にならなかった。
途中で吹き荒れた風雪を凌ぐために、小窓尾根に雪洞をほってビバークしたのがついこの間のように思い起こされる。
あの当時、門田ほどタフで信頼できるザイルパートナーはそんなにいなかった。
そう、あれから15年。
今では、二人とも生命をかけるような登山に耐えうる生活をしていなかったので、ヒマラヤの高峰登頂という野心は持ち合わせていなかった。
ただ、せめてヒマールの峰々にいだかれながらのトレッキングくらいはしたい、と思っての小旅行だった。
ヒマラヤ、なんと美しい言葉の響きなのだろう。
それは登山を志す人間が一度は訪れてみたいと願う、神々が住みたもう山々である。
そんなチャンスがやっとやってきたのである。
門田は、ネパールの自然を愛し、ネパール人の奥さんをもらい、ネパールのいなかに住んでいた。
そして、日本の海外協力の仕事をしながら、日本から来るさまざまな人々のお世話をしていた。
なぜ、彼がそんなにネパールに惹かれたのか。
不慮の事故で故人となった今となってはよくわからないが、ひょっとしたら、一緒にヒマラヤへ行こうと言った熊谷の言葉を、門田はずっと覚えていたのかもしれない。
門田が世話をした日本人の中に、京都大学の教授がいた。
京都大学生態学研究センターの中西正己である。
中西は、ポカラ湖沼群での淡水水産事業の指導のために、国際協力事業団の依頼を受けてたびたびネパールを訪れていた。
中西は、ポカラに来るたびに門田が寄宿するモナリザホテルに泊まり、夜になると門田とアプリコットブランディーを飲み交わした。
その席で、熊谷のことが話題になった。
中西と熊谷は、琵琶湖の研究を通じてお互いに親密な付き合いをしていた。
ポカラの酒の席で、門田と中西は、偶然にも熊谷が二人の共通の友人であることを知り、大いに話が盛り上がった。
ネパールに熊谷を呼ぶ、という話がこのときスタートした。
こうして熊谷と門田の約束が、現実となったのである。
がたがたと座席がゆれて、20人ほどの乗客を乗せた双発機が、小石混じりの滑走路に降り立った。
窓の外は、まるで月世界ように、砂と石だけから構成された殺伐とした情景だった。
ここは、ネパールにあるアンナプルナ峰とダウラギリ峰にはさまれた、標高2743mのジョムソンという村である。
二人の日本人が、ゆっくりと席をたった。
一人は、長髪で、ほりの深い顔つきをした男で、名前を門田毅といった。
しっかりとした足取りで先にタラップを降り立った門田は、後から降りてくるもう一人の男を見てぶっきらぼうに言った。
「熊さん、ここがジョムソンですよ。」
長い間の約束だった。
いつか二人でヒマラヤへ行こうと誓ってから、すでに15年近くの歳月が流れていた。
熊さんと呼ばれた男は、本名を熊谷といった。
熊谷が、京都大学の大学院博士課程に在籍した頃、門田は京大山岳部から山歩会に移ってきた。
もっと自由に山に登りたい、というのが彼の願いだった。
その当時の山歩会には、そんな自由な雰囲気があった。
自分の責任で、自分のスタイルで、登りたいところへ行く。
より高く、より強く、天馬のように、空の青と白い峰が溶け合うところまで登りつめたい、といった若くて純粋な欲望がA地下BOXにはみなぎっていた。
1978年に、熊谷は山歩会の遠征隊7名を指揮し、南アメリカのアンデス山群にあるP29峰という未登頂の山を征服した。
標高は5,700mであった。
今でも、自分たちが世界で初めて登った峰があるということは、登山を志した者の勲章だと思っている。
アンデスからの帰国後、さまざまな理由から山歩会での過酷な登山を断念した熊谷が、最後の山行に選んだのは積雪期剣岳北方稜線だった。
彼は、山歩会を卒業するときにはこのコースを踏破しようと心に決めていた。
その時のメンバーは、熊谷、中西章、門田、豊島の四人だった。
当時、全員が20代の若いクライマー達だったので、雪山のラッセルや氷壁の登攀は少しも苦にならなかった。
途中で吹き荒れた風雪を凌ぐために、小窓尾根に雪洞をほってビバークしたのがついこの間のように思い起こされる。
あの当時、門田ほどタフで信頼できるザイルパートナーはそんなにいなかった。
そう、あれから15年。
今では、二人とも生命をかけるような登山に耐えうる生活をしていなかったので、ヒマラヤの高峰登頂という野心は持ち合わせていなかった。
ただ、せめてヒマールの峰々にいだかれながらのトレッキングくらいはしたい、と思っての小旅行だった。
ヒマラヤ、なんと美しい言葉の響きなのだろう。
それは登山を志す人間が一度は訪れてみたいと願う、神々が住みたもう山々である。
そんなチャンスがやっとやってきたのである。
門田は、ネパールの自然を愛し、ネパール人の奥さんをもらい、ネパールのいなかに住んでいた。
そして、日本の海外協力の仕事をしながら、日本から来るさまざまな人々のお世話をしていた。
なぜ、彼がそんなにネパールに惹かれたのか。
不慮の事故で故人となった今となってはよくわからないが、ひょっとしたら、一緒にヒマラヤへ行こうと言った熊谷の言葉を、門田はずっと覚えていたのかもしれない。
門田が世話をした日本人の中に、京都大学の教授がいた。
京都大学生態学研究センターの中西正己である。
中西は、ポカラ湖沼群での淡水水産事業の指導のために、国際協力事業団の依頼を受けてたびたびネパールを訪れていた。
中西は、ポカラに来るたびに門田が寄宿するモナリザホテルに泊まり、夜になると門田とアプリコットブランディーを飲み交わした。
その席で、熊谷のことが話題になった。
中西と熊谷は、琵琶湖の研究を通じてお互いに親密な付き合いをしていた。
ポカラの酒の席で、門田と中西は、偶然にも熊谷が二人の共通の友人であることを知り、大いに話が盛り上がった。
ネパールに熊谷を呼ぶ、という話がこのときスタートした。
こうして熊谷と門田の約束が、現実となったのである。