2022-4-29
柴田敏雄Shibata Toshio氏は東京芸術大学大学院油画卒ということで、画家がルーツの写真家です。自然と人工物の共存が作る感性に触れる写真を絵画的に表現していると思います。
以下、ここに展示されていた、柴田敏雄氏と対比させたほうがいい絵画を載せましょう。
ヴァシリー・カンディンスキー
ピエト・モンドリアン
草間彌生
ヴァシリー・カンディンスキーは当方にとって謎の作家さんです。カンディンスキーの作品は世界中のあちらこちらの美術館にポツポツ展示されているものの、その全体像を紹介する展示会に日本で出会ったことがありません。彼の絵とクラシック音楽の同じロシアの作家イーゴリ・ストラビンスキーとは当方の頭の中で共鳴します。当方のクラシック音楽の旅はストラヴィンスキーが入り口であり現在でもそのまま続く特別な人です。この絵のようなカンディンスキーの前期の作品は当方にとって度肝を抜く自然の捉え方なのです。
写真が出来る前の絵画は、現実を図として残す、写真./写実の役割を持っていた。そこに現実的ニーズが加わって、色々な衣が重層していた。これをセザンヌはシンプルに、目の前の現実を、目の前の実体を使って、自分の心の鏡に映った通りに表現するという当たり前のことを当たり前に行った。鈴木理策の方向はそのセザンヌの方向そのものと思われます。
その後、セザンヌが解き放った、自分の心の鏡に映ったものを表現する方向が爆発的に色々な方向に拡大するのです。自分の心の鏡に映ったものをより強く表現する為に、必要なものは強調し、必要でないものは取り除く試みが現在に至るまで続いています。現実を分解し、その人にとって不必要なものを排除し、必要なものを選択して再構成する。分解と再構成です。ミロ、クレー、カンディンスキーの抽象画もしかり、ピカソのキュービズムもしかり。柴田敏雄はこのレベルで写真を作る。時には色を削り、常に写真の情報伝達性を削る。
当方は写真の情報伝達性を削り、色と骨格の形を残す。 違います、違います。自然の中に元々ある、当方の心に響く形と色を見つけ出して、それをありがたくただ写し取るのです。それをそのまま、陶絵画や色立体として形にするのです。
以下、この展示会の階の下にある、別の展示会、<Transformation 越境から生まれるアート>と<石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 ピカソとミロの版画 —教育普及企画—>から当方の好みの展示を少し載せます。
ジョアン・ミロ
ジョアン・ミロ
ジョアン・ミロ
ジョアン・ミロ
ジョアン・ミロ
パウル・クレー
アンリ・マチス
ラウル・デュフィ
バブロ・ピカソ
バブロ・ピカソ
バブロ・ピカソ
このあたりの絵は、当方が絵を習っていた小学校時代に脳神経に染み込んでいる原風景なのです。それぞれが、何を取り上げ強調し、何を削ったか。
当方は何を取り上げ強調し、何を削るか、もっと覚悟をきめ、もっと命がけにならなくては現状を抜け出ることはできません。
展覧会を見終わって、アーティゾン美術館の窓から見える工事現場は、アートに染まった頭から見ると十分アートです。
東京駅から10分にあるアーティゾン美術館は一度訪れてみてはいかがでしょうか。
さて、この流れの次にある現代アート(Contemporary Art)の世界はこれまでの当方の原風景とはかけ離れた恐ろしい世界です。
次回は京都、国際写真展で体験したContemporary PhotographyとContemporary Artの狭間を考察します。
最後にまとめて絵画と写真の狭間を総括します。
柴田敏雄Shibata Toshio氏は東京芸術大学大学院油画卒ということで、画家がルーツの写真家です。自然と人工物の共存が作る感性に触れる写真を絵画的に表現していると思います。
以下、ここに展示されていた、柴田敏雄氏と対比させたほうがいい絵画を載せましょう。
ヴァシリー・カンディンスキー
ピエト・モンドリアン
草間彌生
ヴァシリー・カンディンスキーは当方にとって謎の作家さんです。カンディンスキーの作品は世界中のあちらこちらの美術館にポツポツ展示されているものの、その全体像を紹介する展示会に日本で出会ったことがありません。彼の絵とクラシック音楽の同じロシアの作家イーゴリ・ストラビンスキーとは当方の頭の中で共鳴します。当方のクラシック音楽の旅はストラヴィンスキーが入り口であり現在でもそのまま続く特別な人です。この絵のようなカンディンスキーの前期の作品は当方にとって度肝を抜く自然の捉え方なのです。
写真が出来る前の絵画は、現実を図として残す、写真./写実の役割を持っていた。そこに現実的ニーズが加わって、色々な衣が重層していた。これをセザンヌはシンプルに、目の前の現実を、目の前の実体を使って、自分の心の鏡に映った通りに表現するという当たり前のことを当たり前に行った。鈴木理策の方向はそのセザンヌの方向そのものと思われます。
その後、セザンヌが解き放った、自分の心の鏡に映ったものを表現する方向が爆発的に色々な方向に拡大するのです。自分の心の鏡に映ったものをより強く表現する為に、必要なものは強調し、必要でないものは取り除く試みが現在に至るまで続いています。現実を分解し、その人にとって不必要なものを排除し、必要なものを選択して再構成する。分解と再構成です。ミロ、クレー、カンディンスキーの抽象画もしかり、ピカソのキュービズムもしかり。柴田敏雄はこのレベルで写真を作る。時には色を削り、常に写真の情報伝達性を削る。
当方は写真の情報伝達性を削り、色と骨格の形を残す。 違います、違います。自然の中に元々ある、当方の心に響く形と色を見つけ出して、それをありがたくただ写し取るのです。それをそのまま、陶絵画や色立体として形にするのです。
以下、この展示会の階の下にある、別の展示会、<Transformation 越境から生まれるアート>と<石橋財団コレクション選 特集コーナー展示 ピカソとミロの版画 —教育普及企画—>から当方の好みの展示を少し載せます。
ジョアン・ミロ
ジョアン・ミロ
ジョアン・ミロ
ジョアン・ミロ
ジョアン・ミロ
パウル・クレー
アンリ・マチス
ラウル・デュフィ
バブロ・ピカソ
バブロ・ピカソ
バブロ・ピカソ
このあたりの絵は、当方が絵を習っていた小学校時代に脳神経に染み込んでいる原風景なのです。それぞれが、何を取り上げ強調し、何を削ったか。
当方は何を取り上げ強調し、何を削るか、もっと覚悟をきめ、もっと命がけにならなくては現状を抜け出ることはできません。
展覧会を見終わって、アーティゾン美術館の窓から見える工事現場は、アートに染まった頭から見ると十分アートです。
東京駅から10分にあるアーティゾン美術館は一度訪れてみてはいかがでしょうか。
さて、この流れの次にある現代アート(Contemporary Art)の世界はこれまでの当方の原風景とはかけ離れた恐ろしい世界です。
次回は京都、国際写真展で体験したContemporary PhotographyとContemporary Artの狭間を考察します。
最後にまとめて絵画と写真の狭間を総括します。