言の葉収集

思ったこと、感じたこと、出逢ったこと
いろいろ気ままに書きたいと思っています。

告知の壁

2007-02-28 18:45:42 | 出来事
本日の日経新聞、「金融取材メモ」より。

「がん特約」に告知の壁

と題されたコラムには興味深い事が書いてあった。
がんや急性心筋梗塞、脳卒中になった際に支払われる「三大疾病保険金特約」で、商品の構造自体が問題になっているという。
医師から「告知」をされないとその保険金は支払われない。また家族に告知をしても本人に知られないよう隠す場合もあり、つまりは請求を保留している格好になる。

がんについてはここ数年一部の例外を除いて告知が当たり前になったと書かれているが、商品が発売された1990年代前半は2割から3割程度の告知だったと言う。
おそらく多大な請求漏れが埋もれている事だろう。そこに契約者の意思は反映されない。

難しい問題である。保険会社が診断書からがんの可能性を判断しうかつに案内すれば、本人への告知になってしまう。
過去に大手生保の営業職員が告知を受けていない患者に保険金支払いに必要な書類に捺印を迫り、問題になったケースもあるという。

現在では住宅ローンも契約者(被保険者)の死亡だけではなく、三大疾病にも対応してきており、がんになれば支払いを免除するといった特約も用意されているらしい。
死亡保障よりも医療、がんなどのニーズが上回るご時勢、保険会社も画期的な支払い方法を考え出さないといけないのかもしれない。

錯覚

2007-02-27 18:01:38 | Weblog
ネタもないので、今日は友人に教えてもらったページを紹介したいと思う。

「錯覚」、見事にそれを体験できるのが、ここ

女性のシルエットが回転しているだけのページだが、しばらく見ているといつの間にか反対方向に回転している。
いや、回転方向も上がっている脚もずっと同じである。つまりそういう錯覚にとらわれるのだ。
人によって錯覚する時間に差があるみたいで、自分の場合約1分少々で錯覚に陥る。
なんとも不思議な感覚である。

※乗り物酔いとかされる方は、やめといたほうがいいかもしれません。

現実もいろいろな場面で錯覚をしているのだろう。
どうせなら「いい錯覚」、「プラスの錯覚」をして過ごしたいものだ。

宣言

2007-02-26 21:33:08 | Weblog
朝からバタバタと仕事をこなす。
先日の葬儀や入院の見舞いがあったりしたので、溜まっている雑務に追われているところへ、月末の仕事が追い討ちを掛ける。
なんとも「昨日の仕事」ばかりで「明日の仕事」ができていない。これではいかんのだが…。
最近はずっとこんな調子だ、来月はぜひとも「明日の仕事」を週2のペースで実行したい、いや、実行する。
やればできるのだ、やらないだけだ。意識して行動あるのみ。

またこんなことを書くと、「前向きやなあ」と京都の友人に冷やかされるのだが、要は自分で叱咤しているのだ、結局。

月末に向けて

2007-02-25 19:56:03 | Weblog
今日は寒い一日となった。最近ずっと暖かかったので特にそう感じたのだが、それでもこの時期としては当たり前の気温なのかもしれない。
知人のブログでは、3月末に咲くはずの山桜の開花が写真とともに紹介されていた。

そんな暖かかった2月ももう残りわずかとなった。28日までなので、営業日は明日を入れてあと3日しかない。
うーん、怒涛の3日間となりそうだ。さあモードを変えて月末ラッシュだ。気合を入れていこう。

葬式を終えて

2007-02-24 18:28:11 | 出来事
友人の父の葬式も無事終えた。
この地では故人の長男の同級生が動くのが慣例であり、次男の父の場合は長男の同級生をサポートをする程度である。

今まで何度かは次男の父を見送ったが、今回は初めて喪主である長男が同級生であったため戸惑うことも多かった。
そして、初めて同級生の父を送った儀式でいろいろなことを学んだ。
それは、この地での葬式は、都会では考えられない人と人の繋がりが成す儀式であるということ。
亡くなった人の同級生や友人、隣組の面々、そして故人の息子の同級生など、血縁ではない人々が裏方に回り葬儀の進行やサポート、そして女性は食事の準備や片付けなど、全ての作業をこなしていく。

我々の地の先人達はずっとそうやってきたのだ。これはすごい事なんだと改めて認識した。
いつまで続くのかは分からないが、少なくとも我々の世代で終わらせる訳にはいかない。田舎町の数少ない貴重な財産である。

お通夜

2007-02-23 22:03:27 | 出来事
あいにくの朝からの雨は、お通夜の準備には不都合であったが、それでもなんとか団結力で乗り切った。
受付のテントを設営する際、このメンバーで同一作業を行うのは小学校以来だと言い合いながら、友人の父を送る為の共同作業は進み、お通夜でも慣例どおり我々同級生が受付をこなした。

斎場でのお別れのシーンはいつ見ても悲しいものだが、今回は特に気丈に挨拶する友人の姿に、同級生それぞれが自分の姿を映していたのではないだろうか。
もうそんな年なのである…。自分の置かれている環境や現実をつくづく思い知らされた気がする。

写真の「おじちゃん」はとてもいい笑顔でこっちを見ていた。

同級生

2007-02-22 20:56:57 | 出来事
今日も暖かい1日だった。午後からは事務所のストーブも一休み。本当に気持ち悪いくらいのポカポカ陽気だ。

昨日の夜、友人から電話があり、お父さんが亡くなったのとのこと。
小さい頃からよく知っているおじさんで、先日病院で会った時にはあんなに元気だったのだが…

昨日、葬儀の事について書いたが、実はこの地方(私が生まれ育った町)には奇妙な風習がある。
葬儀場の設営、葬儀の際の受付など諸々を喪主(亡くなった人の長男)の小学校の同級生が仕切るのである。
斎場での番人も同級生がする。遺族は一度自宅へと帰り、そこには喪主の同級生だけが残るのだ。

この事を話すと皆驚くのだが、自分達は当たり前のようにそれを見てきたし、また自分達もそれに倣うのが自然の流れだと思っている。
こんな地域だから、小さい時から「同級生は大事にせないかん」「いざとなったら同級生や」「友達は宝だ」と親から教え込まれるのだ。
本当にこの地の同級生の繋がりは友達以上で、兄弟にも似た感覚がある。それは僕らよりも上の年代になればなるほど強く固く結ばれている。
最近はこの風習を誇りに思えるようになってきた。

先日のセミナーの先生にもこの奇妙な風習を話すと、びっくりされて「聞いた事が無い」と目を丸くされていた。
明日は同級生の為に同級生が朝7時に集まることになっている。

葬送事情

2007-02-21 16:25:58 | 出来事
先週の土曜日のFPセミナーについて。

テーマは、現代葬送事情~自分らしい最後~

個人的に興味があったのでいち早く参加を申し込んだところ、なるほど興味深い話がたくさん聞けた。

まず、レジュメに「日本における死の状況」とあり、日本人がどこで亡くなるか(1955年から2000年まで)折れ線グラフで表している。
1955年には自宅で亡くなる人が80%近くあったのだが、2000年では13.4%に激減している。対して病院でなくなる人は1955年には20%弱、そして2000年には83.9%と自宅での終末とまったく逆のデータがそこにあった。ほとんどの人が人生の終焉を病院で迎えるのだ。当然まだデータは出ていないが、2006年は85%を超えているのではないだろうか。

ところで、現在東京の方では、2割~3割くらいの割合で葬儀も何もしない人たちがいるという。それを「直葬」と呼ぶのだそうだ。
こんな田舎町に住んでいると信じられないことだが、これからはもっとその割合が増えてくるのだろう。

また、驚いたのは、旦那と同じ墓には入らずに、実の親と一緒の墓に入るという女性も増えてきているらしいという事実。
そこには深刻な嫁姑問題も絡んでおり、なかなかこれからの墓地事情も複雑になっていくことだろう。

そして、火葬率が99%のこの国で、土葬が一番多い県が三重県だという意外な情報も得た。

こんなサービス

2007-02-20 20:10:46 | 出来事
先日、鈴鹿回生病院に付き添いで行った時の話。

受付を済ませ、待合室で待っていた際に、ふと目に留まった案内。
「携帯をお持ちの方は、番号をご記入くだされば、順番が来たらご連絡いたします」と確かこんなことが書かれていた。

これは素晴らしいサービスである。待合室以外で診察を待つことが出来るのだ。
早速尋ねてみたらその通りの返事、番号を記入して患者とともにレストランへと向かった。

このサービスの良さは、

○携帯電話が繋がる場所で待つことが出来る。
○買い物や食事など自由な時間に充てることが出来る。
○病気(風邪やインフルエンザ等)の感染予防。
等である。これは助かる。

以前母親がこの病院に入院した際も、看護師さんが病室まで荷物を持ってくださった。
もうホテル並みである。
どの業界も顧客サービスが鍵を握るのは書くまでも無いことか。

ライヴを終えて

2007-02-19 08:24:17 | 出来事
昨日のライヴ、なかなか良かった。
とあるホールを借り切って、参加者は30名ほどいただろうか。心地よい時間がゆっくりと流れた。

沖縄風の音楽を歌う若者達の声に感動し、また諸先輩による懐かしい曲もたくさん聞かせてもらった。

我がバンドはと言うと…
全体的には大変良かったのだが、自分のパートであるハーモニーと演奏をトチッてしまった。やはり恐れていた事が…。

まあ思い切りやれた感があるので「悔い」は残っていないが、「反省」はたっぷりとあった。