言葉の旅人

葉🌿を形どって、綾なす色彩に耽溺です。

「北朝鮮」と司馬遼太郎「誇り」

2016年03月09日 | Weblog
 核実験強行、そして自称「人工衛星」打ち上げ、先日の短距離ミサイル発射と物騒過ぎる脅迫を以て援助を強請る北朝鮮。朝鮮半島の分断固定化以降、対抗図式は形を変えさえすれ、歴史が止まったままのようで全く変化が無い。
 司馬遼太郎「風塵抄二」の中に“誇り”として、このような文章がある。

(前略)…以上は前提である。
 この世はさまざまである。国によっては、個人の独立尊厳どころか、国家が個人にのしかかり、すべてを国家に奉仕させようという場合もある。
 人民個々が、自分を〝主体的に〟犠牲にすることによって国家が栄養を与え、国家に名誉を得させようという体制である。
 国家の誇りと名誉がふくらめばふくらむほど、そこに溶けた人民個々は、冥冥の内に至福の境地を得る、というあたり、或る種の新興宗教に似ている。

 「どうです、わが国の兵器工業の発展は素晴らしいでしょう」と、ひとびとが子供っぽい誇りで胸が満ちるときこそ人民にとっての至福である。
 そういう場合、案内人は、
「それらの発展は、すべてあの方のおかげなのです」と、大きな銅像を見上げたりする。
 童話風に言えば、その銅像は、千万の子供っぽい誇りを吸い込んで、毎日大きくなり、雲を衝くばかりになっている。

 「ゲンシバクダンを造って飛ばそうではないか」と、もしこの銅像をその後継者が命じたとすれば、国家の子供っぽさが極に達したときにちがいない。むろん、バクダンを飛ばすミサイルも製造される。

 ときに、人々は餓え、国庫にカネも乏しい。しかし誇りは、窮乏に逆比例する。
 貧乏が極に達したときこそ、誇りの表現として、そのバクダンが要る。
 どこに飛ばすかは、問題では無い。飛ばす能力の誇示こそ、目的である。
 子供っぽい誇りが国家としての威厳に転換できるのは、大量殺戮兵器をもつ以外に無い。四方が---東京も---おそれ、ひれ伏すだろうだからである。

 一大事だが、しかしまわりの国々は、はれもののように膨れあがったその〝国家の威厳〟に対して、あまり攻撃的な騒ぎ方をすべきではない。
 静かにおだやかに、練達の心理学者のように相手の理性の場所をさがすしかない。そのうち、時が解決するにちがいない。
 (一九九四<平成六>年四月四日

 既に二昔以上前、碩学一見識としての見方である。「時が解決するに違いない」の時とはどれくらいの時の流れを考えられたのか、今それを伺いのだが。

 キムイルソン-キムジョンイル-キムジョンウン王朝三代が続いた。この系譜に後々、中興の祖と仰がれる人物が現れるには、国家を国民をいかに幸せに導いたかという歴史を持たない以上望むべくも無い。
 人々を不幸せにするためにあるような存在は、決して解決するための時を待っているものではないと思うのだが。