「あのお爺さん何時も感心ねぇ」「本当ね」と言いながら私たちはグラウンドゴルフを楽しんでいました。
今日は月に1度の剪定枝の収集日です。
感心なお爺さん、とは足を引き摺りながら、自分が持てる量の剪定枝を何度にも分けて公園の集積場へ運んで来るのです。
「車で持って来れば楽なのに…」
何度目かには「家の人は加勢して遣らないのだろうか?気の毒に…」
「きっと自分で運べる事が嬉しいのかもしれないわよ」
自分にも経験があるのですが、障害者は自分で出来る仕事に喜びを感じて努力しているので、傍が思うほど辛いとは思っていないのではないでしょうか。
中学生の時、校舎の移転があり30分程離れた新校舎へ自分の机と椅子を運ばなくてはならなかったのです。
母は担任に、「足が悪いので…」と頼んだようでしたが特別扱いが嫌で頑張って自分で運び込みました。酷く疲れましたが自分の力で運ぶことが出来た達成感は、健常者には味わうことが出来ないのではないかと思ったのです。
どうぞ障害者を「可哀想な人」と思わないで見守って欲しい、そして助けを求められた時は是非力を貸してあげて欲しいと思いました。
ba-baさんのおっしゃる通りと思います
人間の可能性はそれぞれ違います その範囲で行動する事が大切と思います そして納得しての行動ですのでそっと見守りましょう
健常者には出来て当たり前、何の感動も無いようなことでも、障害者が努力してやっと出来た時、天にも昇るほどの喜びを感じることは、何と幸せ者なんだろうと思うのです。
私の甥も生まれてくる時の先生のミスで
生まれてから身体障害者になって
しまいました。
東京に住んでいますので、中々会う事が
出来ませんが、私が東京に行きました時は
甥の車椅子を私は進んで押していますが
時々醜い物を見るような目で見られるのが
一番悔しいです。
手を貸して下さらなくても暖かい目で
見て欲しいですね。
甥も一人で何でも出来る様に余り家族の
者が手助けしない様にしているようです。
時間が掛かっても自分で遣らせてます。
息子さんが仰る通り、病院通いで使う
お金より元気で遊んぶお金の方が、
息子さんにとっては、安心ですよ。
私の育つ頃は今より偏見の目で見る人が多かったです、福祉を叫ぶこの頃は改善されてはいますが、残念ながらまだまだですね。