川崎市平和館・公文書館の『川崎大空襲記録展』
に行って来ました。
撮影許可取ってパネルとかを写してきましたけど、ネットに載せるのは許可取ってないので載せられませんの、あしからず (^◇^;)ゞ
二階には戦争の事や平和への取り組みや北朝鮮拉致被害者の横田めぐみさんのコーナーもありました。
体験談やらも載ってたのですが、そこにビックリな発見がありました
実はワタクシの父が結構有名な会社に勤めておりましたのですが
貧乏人の子沢山で生活もキューキューで国民学校しか出てないはずの父が、そんな大会社になぜ勤められるようになったのか、薄ぼんやりと判明したのです。
どうやら満州事変から大東亜戦争へ移行する間、軍事産業が活発になるとともに技術者確保のため大量の社員が登用されたらしいのです。
当時、父が暮らしていた地域からみて、その会社があった芝浦は近かったので通える範囲だったと思われます。
戦局の激化にともない工場疎開するわけで、運良くなのか立ち回り方が良かったのか工場と一緒に疎開し、年齢的にみて通常でしたら徴兵適齢真っ只中にも関わらず技術指導者として徴兵を免除して貰い、そのまま終戦を迎えるのです。
終戦後、工場もそのまま疎開先にて運営してまして、父もそのまま残りました。
そこで私の母と結婚するのですが…
母は浅草出身で母親と一緒に疎開しており、その工場にて働いておりました。
戦後6年ほど経ち、下駄をカランコロンと鳴らしながら歩き、行かず後家(当時では)の年齢でなおかつ若い女工達を束ねるような真似事をする母と、工場内で飯を炊いて自炊しているようなとても女性にもてるとは思えないガリガリで35歳に手が届くちょっと禿げ始めたおっさんとの間に縁談が持ち上がる訳です。
結婚出来ない同志でくっつけや、との上司の判断だったらしぅございます (笑
さて、戦時中のことはほんの断片しか両親から話しを聞いておりませんでしたので、知らなかったとはいえビックリでございます。
今にして思えば、赤紙で徴兵され沈没した軍艦から助かったけれど身体を壊し平和になっているにも関わらず亡くなる時まで苦しんだ叔父の事もそうですが、母と1歳しか違わない叔母は疎開もせず父親と身体の弱い母親と幼い弟2人をどのようにして大空襲から守ったのでしょうか?
今ではもう誰も知りません。
に行って来ました。
撮影許可取ってパネルとかを写してきましたけど、ネットに載せるのは許可取ってないので載せられませんの、あしからず (^◇^;)ゞ
二階には戦争の事や平和への取り組みや北朝鮮拉致被害者の横田めぐみさんのコーナーもありました。
体験談やらも載ってたのですが、そこにビックリな発見がありました
実はワタクシの父が結構有名な会社に勤めておりましたのですが
貧乏人の子沢山で生活もキューキューで国民学校しか出てないはずの父が、そんな大会社になぜ勤められるようになったのか、薄ぼんやりと判明したのです。
どうやら満州事変から大東亜戦争へ移行する間、軍事産業が活発になるとともに技術者確保のため大量の社員が登用されたらしいのです。
当時、父が暮らしていた地域からみて、その会社があった芝浦は近かったので通える範囲だったと思われます。
戦局の激化にともない工場疎開するわけで、運良くなのか立ち回り方が良かったのか工場と一緒に疎開し、年齢的にみて通常でしたら徴兵適齢真っ只中にも関わらず技術指導者として徴兵を免除して貰い、そのまま終戦を迎えるのです。
終戦後、工場もそのまま疎開先にて運営してまして、父もそのまま残りました。
そこで私の母と結婚するのですが…
母は浅草出身で母親と一緒に疎開しており、その工場にて働いておりました。
戦後6年ほど経ち、下駄をカランコロンと鳴らしながら歩き、行かず後家(当時では)の年齢でなおかつ若い女工達を束ねるような真似事をする母と、工場内で飯を炊いて自炊しているようなとても女性にもてるとは思えないガリガリで35歳に手が届くちょっと禿げ始めたおっさんとの間に縁談が持ち上がる訳です。
結婚出来ない同志でくっつけや、との上司の判断だったらしぅございます (笑
さて、戦時中のことはほんの断片しか両親から話しを聞いておりませんでしたので、知らなかったとはいえビックリでございます。
今にして思えば、赤紙で徴兵され沈没した軍艦から助かったけれど身体を壊し平和になっているにも関わらず亡くなる時まで苦しんだ叔父の事もそうですが、母と1歳しか違わない叔母は疎開もせず父親と身体の弱い母親と幼い弟2人をどのようにして大空襲から守ったのでしょうか?
今ではもう誰も知りません。