鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

大家浄画原色版酒田風景絵葉書

2023年01月07日 | 兎糞録

 以前紹介した絵葉書、どこから見て描いたものか判明しました。佐藤三郎「酒田よもやま話」にその記述がありました。資料館の資料にも絵の書かれたいきさつは同書を引用して記載しているのですが「どこから」は書いてありませんでした。「酒田よもやま話」には次のように書いてあります。


 大正の初めに「大家浄画原色版酒田風景絵葉書」といぅのが売り出されたことがあった。 これは酒田の伊藤家が、当時の洋画家四人を酒田に招き、何日でも自宅に滞在させて描か せた油絵であった。 吉田博「中瀬渡頭」は、宮野浦渡し場から鳥海山をバックに新町方面を描いている。中 川八郎「日和山落暉」は、公園の現在灯台のある丘の松林から河口を描いている。 石川寅治「宮之浦帰舟」は、宮野浦の漁船が漁を終えて網を上げて、魚を捕っていると ころが近景で、対岸の日和山の丘が描かれている。 河合新蔵「山王森午影」は、最上川の中島から日和山の森を描き船場町の家並みが見える。


 その時の絵が絵葉書になっていて内三枚が手元にあるので再掲します。

 これを地形図で見ると、

 陸地測量部1/50000酒田、大正二年測図ですがこれは昭和九年に修正されたものです。最上川河口は大正二年測図以降大幅に変わっています。手元にあるのは明治四十四年の酒田市街図。(下図)

 「中瀬渡頭」は、宮野浦渡し場から鳥海山をバックに新町方面を、と書いてありますが中瀬渡と宮野浦渡は結構離れていますので?ですが、「中瀬渡頭」なのでなんとなく納得。

「中瀬渡頭」はこの辺りから描いたのかもしれません。

 

 資料の引用は原文を書き換えたり要約すると、原文を書いた人の伝えようとしたことが損なわれる場合がほとんどですので注意しなければいけません。


The Long Goodbye

2023年01月06日 | 兎糞録

 遥か昔映画館で観て以来一番好きな映画「The Long Goodbye」、Amazon プライムビデオでも放映していたのですが、どうも翻訳字幕がピンと来ない。例えば最初の方ですが、英語の字幕で実際に何と言っているかを見てみましょう。

 深夜にミャーニャーと餌をねだられる場面ですが、戸棚を開けたマーロウが「ALL I CAN SEE ARE EMPTY CANS.EMPTY CANS.」これがAmazon プライムビデオでは、

 「あるのは空き缶だけだ」、間違いはないですけれどなんだか直訳過ぎて中学生が翻訳した文章のようです。

 Blu-ray版では、

 「全部 空っぽだ」

 どちらが良いでしょう、「全部 空っぽだ」の方がマーロウのセリフにぴったりと思いますね。マーローではなくマーロウです。

 素人は黙っていろといわれそうですけどね。

 ※ 村上春樹の翻訳単行本は面白みがなかったです。


蕨岡旧登拝道の陶製の祠

2023年01月06日 | 鳥海山

 以前紹介した蕨岡旧登拝道、湯ノ台道との合流点近くにある陶製の祠について。この祠には「羽後酒田港亀ヶ崎古城内 國柗重次郎」と刻まれています。

 佐藤三郎「酒田よもやま話」を読んでいたところ、眼鏡橋の事が書いてあって、その近辺の事が書いてありました。


 眼鏡橋、明治二十三年に架けられたドイツ人設計による石造りの橋です。昭和三十年までありました。

 「酒田よもやま話」には次のような文があります。


 新井田橋は明治二十三年、ドィツ式の眼鏡橋で毎日これを渡って中学生は誇らしげだっ た。西に昔の土手があって大きな櫸 の木が城跡を物語っていた。前は堀であった。 前に國松、手前に古家という大きな瓦工場があって、近くに幅屋といぅガラスエ場もあっ て、中学生は学校の帰り寄り道をして眺めた。 


 新井田橋は眼鏡橋の事です。「國松」という「瓦工場」とあります。陶製の祠、國松、何か繋がりがあるような気がしますね。もしかすると、この瓦工場で製作したのかしれません。今となっては確かめようもありませんが。

  実際は「國柗」と刻んでありますが活字が無かったのでしょう。「史跡鳥海山」も「國松」と書いていますがやはりこれは「國柗」と活字を探してでも書くのが本当でしょう。「松」とは書いてないのですから。

 そういえば「ハバヤガラス」、昭和の終わりごろまででしょうか、現在の山居町スーパーヤマザワの所にありました。その後宮海に移転しましたがその後はわかりません。


月光坂

2023年01月05日 | 鳥海山

 雪山専門の方は気にもしないでしょうし、無雪期登る方も気にも留めないことをついでに一つ。

 横堂の先の急登、月光坂は今と昔は道が違います。

 陸地測量部大正二年50000図

 国土地理院最新25000図

 50000図と25000図の違いだろうと思う方もいると思いますが現行の地形図の方が登り大きく迂回しているように見えませんか。

 これは横堂を出た先、道が急なために道を付け替えたのだそうです。

 横堂が大澤神社であったと書いてある本もありますが、大沢神社は箸王子とともに横堂に祀ってはいたそうですが実際の大澤神社は横堂から下ったところに無雪期だけ祀っていたもの、やっと今回の国土地理院地形図の改訂で今は存在しない構築物は削除されました。

 この写真の頃は真ん中の通路を抜けるとまっすぐ登っていたのだそうです。それが急なために現在の道に付け替えられたのだそうです。このおんぼろの体では今の付け替えられた道でさへ今は大変です。大した距離でもないのですがね。

 それでも山は不思議なものでどんなに大変な目にあっても帰ってくると、ああもう一度登ろう、と思うのですから不思議なものです。

 

 こういった些細なことを記録しておくのも楽しみのひとつです。


鳥海山 大正二年測圖 大日本帝國 陸地測量部 五万分一之尺

2023年01月02日 | 鳥海山

 手元にあるのは鳥海山 大正二年測圖 大日本帝國 陸地測量部 五万分一之尺で発行が大正三年のものです。この五万図、スタンフォード大学のHPよりダウンロードできます。ただし、地形図には測図・修正測図の年度がありますが一つの版しか選択は出来ません。

 必要な地形図があれば選択し、Download-Whole image で解像度を選択してダウンロード。Original source file はダウンロードできても開くことが出来ませんでした。パソコンに処理能力あればできるだけ大きいファイルサイズでダウンロードした方が良いでしょう。私は14020×10866でダウンロードしました。ダウンロードそのままではちょっと見づらいのでグレースケールに変換してコントラストを調整します。ついでに白っぽい所をカラー選択してホワイト出塗りつぶせばかなり見やすくなります。ただし、これをやるとかなり容量が大きくなります。

 今回、大正二年測図、昭和九年修正測図の地形図鳥海山他をダウンロードしてみたのですがちょっと見ただけでも違うところがありました。

 手元にある柾判の大正二年測図・大正三年発行の鳥海山五万図の山頂周辺です。

 大正二年測図・昭和九年修正測図の同じところの図です。どこが違うかわかりますか。

 

 

 青い破線の部分、二ノ滝口と百宅口です。百宅口は手元に資料がありませんが、二ノ滝口は昭和七年に完成したことがわかっています。(斎藤十象 ”高橋伝喜太翁のこと”) 当時はどのように測量していたのか興味深いものがあります。昭和七年に完成した登山道が昭和九年の修正測量には載っているのですから。(康新道はまだありません。又鶴間池周辺の登山道もありません。)

 他にも変化は多くあると思いますので地形を思い浮かべながらこうして測図年の違う地形図を追っていくのもまた楽しみのひとつです。