鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

地図で楽しむ

2021年07月15日 | 鳥海山

 先日の鶴間池、1976年の山と高原地図を見ていたら道が載っていました。

 青く囲んだところが先日歩いたところですが、今もある程度の人は歩くのでしょう。かすかに踏み跡はあります。その先破線の部分は現在全くの藪です。この地図では清吉新道へ続く道として描かれています。これが前に書いたカンスケ道(筍道)です。此処で注目すべきは、鶴間池から流れ出る池沢(鶴間池へ行くときに橋を渡る沢)だけでなく、その鶴間池へ流入する池沢が記載されていることです。

 手元に「山と高原地図 鳥海山」1999年版まで何冊かありますが、1999年版でもカンスケ道は消されましたが池沢の上流は記載されています。

 この池沢の湧出する所を前回は訪ねる予定だったのです。

 2012年の「山と高原地図」では池沢の上流は記載ありません。清吉新道はこの時点で廃道にもかかわらずまるで一般ルートの様に書いてあります。現在の「山と高原地図」は購入するつもりありませんのでどうなっているかはわかりません。

 令和3年版の電子地形図25000では鶴間池より流出する池沢のみ記入してあります。ここで気を付けてみていただきたいのは鶴間池の西方にある小さな池です。これを登山ガイドのAさんは(仮称)「千万ノ池」と名付けています。沢沿いにこの池まで行くのは藪が深く困難だそうです。実はこの上に、鶴間池の水源となる湧水からなる二本の滝があるのだそうです。そう、前回ここまで行く予定だったのが途中で帰ってきたのです。藪の深い夏はちょっと難しいようです。

 ガイドなしにはいくのはやめた方がいいです。100%道に迷います。

 

 


鳥海登山案内 ようやくデジタル化完了

2021年07月14日 | 鳥海山

大正七年発行の原本が入手できたので、これまでコピーで不鮮明だったところもすべて解読でき、ほぼ完全な状態で復元できました。

 PC で読みやすいように、横書きに変換もしてみました。縦書きのままだとワードの機能上、表の自動送りが出来ないので少しいじると表が崩れてしまいます。また、いくら古い本といっても著作権が保護される期間は、個人の著作物の場合は、原則として創作のときから「著作者の死後70年を経過するまで」(著作権法第51条)ですし、著者の没年が1971年で但し書きの「個人の著作物の場合は、著作者の没年が昭和42(1967)年以前であれば、著作権が消滅しています。」にも該当しません。なので全文の掲載は致しません。引用だけにとどめておきます。

 目次と「第一篇 總 說」のみ紹介いたします。以下、

 

鳥海登山案内

目 次

第一篇  總  說

 

第二篇  登山案內

第一章       四登山口と其交通

第二章       案 内

一、蕨岡から山上まで 二、山上から湯の田まで

第三章       登山に就ての心得

一、登山の準備 二、登山の注意

第三篇 神社參拜案內

第一章       國幣中社大物忌神社

第二章       大物忌神社の沿革 (附) 鳥海山大権現

第三章       蕨岡口の宮

第四章       吹浦口の宮

第五章       大物忌神社祭禮

第六章       神符守札

第七章       両口の宮所藏御寶物

一、蕨岡の部  一、吹浦の部

第四篇 鳥海火山案內

第一章 火山としての鳥海山

第二章 見かけの鳥海火山

第三章 新火山

第四章 舊火山

第五章 稻村ケ嶽 一名 稲倉ケ嶽

第六章 猿穴と觀音森

第七章 地殼の弱線噴火漸東說

第八章 喷火記錄

第五篇 植物採集案內

第一章 鳥海山垂直分布.

第二章 高山植物..

第三章 鳥海產高山植物

第四章 採集登山の時期

第五章 採集登山の注意.

第六篇 雜錄

第一章 鳥海山參考館

第二章 鳥海山高山園

第三章 奥羽諸高山の丈比べ

第四章 鳥海山麓的名勝古蹟

一、蕨岡村附近 二、吹浦村附近

三、小滝村附近 四、矢嶋町附近 

第七篇  蝸牛漫言

 

 

鳥海登山案内

橋本賢助著

【山開】五月十二日

【山閉】九月二十日

 

第一篇  總  說

 

飽海郡の東北方、山形(飽海郡)秋田(由利郡)兩縣の境に、直立七千三百五十九尺、 優美なる山容を日本海にうつしつゝ、巍然として雲表に聳立する高山がある、是ぞ即ち一名出羽富士の稱ある鳥海山である、山体は傲然十余里の間に蹯踞し、周圍三十二里十三町十間、奥羽第一の標高を保つて四邊を睥睨してゐる様は實に壮大なものである。

山上には古来大物忌神赴を祭り図幣中社である。享和年間の噴火後は大なる変化なく、現今は休眠した所謂休火山中に籍を置いてあるが、之とて將來何時噴火しないとも保證が出來ぬ。二重式の層状火山で又倚肩いけん火山の好模範である。然も山中には寄生火山あり、爆裂ロあり、塊狀火山等あって、火山の何物たるかを語るばかりでなく、金銀銅鐵マンガン等の金屬鑛物を始め、石油アスファルトの非金屬鑛物にも富んでゐる。高山植物の豊富な上に、日本唯一の高山植物園の設あるは獨り植物研究家のみの賛する所ではあるまい。一度頂上に立たんか、太洋と日本海を前後にして壯大なるパノラマは脚下に開展せられ、山中の勝景一として畫題ならざるはない。決して考へる程の嶮岨の山でないのみか却つて登山し易い高山として勤めるに躊躇しない、殊に収め得る効果の大なるに於てをやである。大正六年九月時の山形縣知事深田敬一郎閣下の登山した際同行のト部理事官の紀行文中にも

 「蕨岡より歩行実測五里弱、敢て嶮とし難とすべき所なし、入動もすれば鳥海登山の容易ならざるを説き、月山登山の比にあらざることを語る、大なる誤なり、行路の易々たる風物の通常ならざる、、此努力を以てしてより効果を講ふは、對價のあまりに少ならざるや疑ふ」

と以て知るべきである。

 


鶴間池周辺

2021年07月12日 | 鳥海山

 紅葉の季節になると湿地帯にまで足を踏み入れる不埒な写真家気取りが現れるのですが、こんないつ雨が降るかもわからない、足元も濡れ落ち葉で滑るような状態の時はそんな連中は来ませんので静かです。

 拙い写真でお目汚しを。

 山毛欅林が迎えてくれます。

 山毛欅が石を抱いています。

 断層でしょうか。

 山荷葉の実、食べてみたくなります。

 炭焼き窯跡。昭和の初めころまでは炭を焼いていたのでしょうか。家庭に石油コンロ、プロパンガスコンロが使われるようになって炭の需要は激減し、それとともに鳥海山の炭焼きもなくなっていったようです。こんな形で残っているのは珍しいそうです。原料はもちろん山毛欅、築窯に必要な粘土質の土を掘った跡も近くにあります。もちろん炭を焼く間はここで生活します。こういった記録ももう調べることは難しいのでしょう。

 看板の左上、かつては「清吉新道」と書いてありました。新道はすでに廃道、コンパスと地図を自在に使いこなせ、山の経験が相当ある方でないと踏み込むのは危険でしょう。ノゾキ(今の車道のノゾキではなく、上道の登山道を入って急下降する直前、左へ向かう道です。)から鶴間池に降りる道は昭和27年に斎藤清吉さんが拓いた道です。カンスケ道は現在地図に載っている勘助坂ではありません。本来の「カンスケ道」は「筍道」といい、マタフリの滝から東へ向かう行き止まりの道だそうです。

 鐘馗蘭、葉緑素を持たない腐生植物です。

 鶴間池、大鶴間の方です。鶴間池は本来弦巻池なのですが、近年になって書き換えられました。鶴間では名前の由来が消えてしまいます。鶴が来るのだろうと思う人がいるかもしれませんが違います。昔の人がおそらく外輪あたりから眺めた時、その形が昔の武具、弦巻にその形が見えたことに由来します。弦巻は検索するとすぐに出てきます。

 写真はボケていますが、某所にある風穴のようなもの。数か所の穴があり、そこから冷たい風が吹いてきます。一服するにはちょうど良いところです。場所は自分で探して確かめてください。

 締めはやはり山毛欅林です。

 GPS記録を立体的にしたものです。登り降りの急なのがよくわかります。下道も急な降りですが、上道と違い鉄梯子もないため上道より楽とは言い切れません。足元が悪い時は十分な注意が必要です。ちなみにこれでiphoneのバッテリー70%くらい消費しました。


なんだ坂こんな坂、勘助坂

2021年07月11日 | 鳥海山

 鶴間池の下道から入り、上道を戻るルートですがGPS の記録を採ってみました。鶴間池から先は鶴間池の源流を訪ねる旅ですが、草木の繁茂が著しく、また時間のせいもありガイドのAさんの指示のもと、今回はそこまで行くのは断念しました。

 帰りの勘助坂の急登、かつてはちょちょいと登り降りしていた記憶なのですが、やはり体力の衰えは如何ともできません。清吉新道を拓いた斎藤清吉さんも齢七十の頃、「なしてこったげ歩げ無ぐなたんでろ。」といっていたそうなので、あれだけ山を歩いたベテランにおいておや、です。

 鶴間池の水源は一見、写真には写っていませんが対岸のマタフリの滝から流入してくるように見えます。

 ところが地図を見ていただくと、滝は鹿俣川かのまたがわへ流れていきます。

 これが鶴間池へ流入する源流の100%湧水です。この水源のある崖面まで行こうとしたのですが最初に述べた通り本日はその手前で終了です。

 それにしても前回、前々回と比べて疲れました。幸い登山道の途中では雨は降らず、車道に出てから降ってきました。

 鶴間池周辺は次回掲載します。今日はここまでです。

 


誰がいつ、何のために 清水大神の謎

2021年07月10日 | 鳥海山

Googleマップで見た鳥海山大平寄りの登山道清水の航空写真。

 写真左上へ延びる道は傳石坂へと向かいます。右上へと延びる道は"とよ"を経由して御浜へと向かいます。登りの時は気がつかないのですが、下り道、清水大神へ向かうと直進方向の小高い丘に道会見えます。摂家おいで夏道が隠れているとき、あるいはガスの濃い時、右手の下山芳香が見えないとつい、直進してしまいそうになります。

 かつて、あの「山と高原地図 鳥海山」の執筆者で鳥海山では有名な池田昭二さんも教え子には「上から下りてくると左手前方にはっきりとした踏み跡があるがガスった時に迷わぬように」と教えていたといいます。まったく、下山時にはこの踏み跡が登山道に見えるのです。

 また、ある写真家の方からは、「踏み跡の北側には小さなコンクリート建物が今でもあります。何の建物かは分かりません。」とも聞きました。

 下山時にはもう寄り道する気力もなく、踏み跡に入り込めばなにかよからぬことが起きそうな気もして、いまだ踏み込んではいません。どなたか、寄ってみませんか。

また、ここにはいまだ放置されている何やら怪しいものがあります。

 どなたかがアップロードしていたのですけれど、どこから引っ張って来たか忘れてしまいました。撮影者の方ゴメンナサイ。

 写真を撮ろうと思いながら撮らずにいたもので。

 ある人曰く、戦争中の墜落した飛行機の残骸だ、と。翼に見えなくもありませんが。

 40年以上前からこんな状態でした。思いついて、詳しそうな方に訊いてみたところ、"「国定公園鳥海山」や「ここは清水大神です」「高山植物をたいせつに」といった看板だったような気がします。"という回答でした。もう一人の方に問い合わせてみたところ、「踏み跡の手前にブリキだと思いますが、畳2枚くらいの案内板か何かが立っていて40年くらい前には、倒れた残骸があったと思うのですが」との回答でした。

 やはり看板だったのですね。それにしても半世紀近くたっても撤去されないとは。

 

 いろいろ見ていくと、まだまだ分からないことがいっぱいあります。こういうのも調べていくとまた面白いものです。