鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

映画をちょいとつまみ食い

2020年11月20日 | 鳥海山

 映画「剱岳 点の記」の初めのほうを観ていたら、ときは明治三十九年、鳥海山蕨岡もこんな感じでにぎやかだったのではないかと想像を掻き立てられました。

 宿坊の旗が見えます。

 白装束の登拝者がつながって歩いています。鳥海山で白装束の登拝者を最後に見たのはもうかなり昔のことになります。康さんの「一人ぼっちの鳥海山」にも修験者が一人祓川ヒュッテを訪れる場面があります。昭和ではもうほとんどそういった人はいなくなったのでしょう。

 勝手に映画の場面をキャプチャしてはだめなんですけど、これは往時の修験で栄えた宿坊をまじめに時代考証しているのではないかと思い引用してみました。

 

 映画つまみ食い、時代考証といえば、これまた「桜田門外の変」をつまみ食いして最後のほうを観たんですけど、でたらめですね。だいたい、桜田門に「桜田門」なんて看板が掛けてあるはずがありません。徳川時代、武家屋敷、大名屋敷、南町・北町奉行所に表札や看板なんて掛けることはありません。それにとっ摑まった主人公が縄にかかって「幕府はやがて倒れる」、なんてこのころの武士は言うはずがありません。徳川幕府が崩壊するなんてのはぎりぎりまでどの階級のものも予測できなかったでしょう。なぜ主人公がそういうセリフを吐くかといえば、それは小説、映画をつくった人が結果として幕府が崩壊したことを知っているからなのです。

 時代物というのは女の人の鉄漿は今のひとの美意識からしたらしょうがないのでしょうけれど、登場人物のセリフ、思考回路などはお話になりません。ただの娯楽としてならまだ観ることもできるのですが、特に大河ドラマなんていうのはでたらめの塊で娯楽にもなりません。鬼平なんかのほうがはるかに面白いですね。みなもと太郎の漫画「映画人たち」に、時代劇に「なに時代」というのはない、あるのは「時代劇時代」というものだけだ、と映画撮影所の主みたいなオッサンが言う場面が出てきますがそういうものでしょう。

 それと、今の感覚で過去を判断することがいかに危ないかは、ちょっと前の書では三田村鳶魚「時代小説評判記」、近年の本では山中恒・山中典子の「間違いだらけの少年H」につまびらかに記載されています。

 人は自分の短い物差し一本ですべて計ろうとしますから注意しないといけません。熊がかわいそうだ、などというのも熊の出ない安全圏の人しかいいませんよね。あっ、でも熊に襲われた知人が言っていましたよ、襲われる瞬間、熊ってなんてかわいい顔してるんだ、って思ったって。熊が人を襲わずにプーさんのようだったらいいんですけどね。


行者嶽開山大神と赤瀧大神

2020年11月19日 | 鳥海山

 以前行者嶽開山大神のことを書きましたが、およその場所がわかりました。知っている人がいたのです。話を聞いて、なるほどそれでは誰も気づくはずがないと思いました。

 まだ行者岳から山頂まで通行できた頃の写真です。

 これも以前載せた写真ですが、ここを通らないと見ることができません。

 岩に掘られた「役ノ行者と鬼二つ」です。「影鳥海」という本の中では「行者岳内壁に彫り付けられた四体の石像」と書かれています。

 どこにあるかあえて場所は書きません。これはそっとしておきましょう。

 

 それともう一つ、大澤神社は滝が御神体ですが絵図を見るとお堂も書かれています。なのにお堂について書かれたものがないのです。

 実際の御神体は写真奥の滝ではなく、もう一つ手前にあるそうです。古絵図を見ると滝が2つ、奥が大澤神社、手前赤瀧大神となっています。蕨岡の古老の言うように拝所となっていたのは手前の滝なのでしょう。お堂が無いのは、雪で潰れてしまうため解体してしまったのだそうです。道理で写真も残っていません。

 

 何度も同じ話を、新たに知り得たことをまじえて書き直しています。これらは単に自分のための備忘録です。


カンスケ坂

2020年11月18日 | 鳥海山
 斎藤清吉さんがその著書「山男のひとりごと」の中で「カンスケ坂」と書いているので、あえてカンスケ坂と書きます。
 現在はノゾキから鉄梯子を伝って鶴間池へ降りる道をカンスケ坂とよんでいますが、これは昭和二十七年の国体のために清吉さんが鶴間池に降りるために開いた道でした。「カンスケ(道)」というのはこれとは別の道のことでした。
 鶴間池からマタフリの滝を見たところですが、斎藤清吉さんの著書には
 
 「カンスケ道」というのがあるが鶴間池に降りる道ではなく、俗に「筍道」と呼ばれるものだ。
 「カンスケ」は途中から北上して「マタフリの滝」から東に向かい、結局「新道」の途中にぶつかる行き止まりの道だ。
 ノゾキから鶴間に降りる道はそれ以前にはなかったのだ。
 
 とあります。
 昭文社発行「山と高原地図 鳥海山 1976年版」の地図裏面ですが、ノゾキから清吉新道の食物園に至る破線で記された道がそれではないでしょうか。最初の写真と地図とを見比べてみると想像が掻き立てられます。また、鳥海山の大先輩の話では、「マタフリの滝の上に出る道があり、行ったことがあると二十年くらい前に聞いたことがある」とのことでした。現在の地図には一切載っていません、これが最後だと思います。
 いまとなっては誰も歩かなくなり、廃道となってしまった道を記録しておくのもまた楽しいことです。タケノコ採りの人なんかは逆に登山者よりそういったことに詳しいと思います。そんな人に会っていっぱい話を聞いてみたいものですけれど、もう遅いでしょうね、今となっては。
 こうして写真を見ると、マタフリの滝の下になんとなく道があるような気がしてきます。
 鶴間池の周囲で熊に出会った人の話を聞いてから、どうも鶴間池からは足が遠ざかってしまいました。

牛乳給食

2020年11月16日 | 兎糞録
 地元にあった牛乳屋さんのことを書いている方がいらっしゃったので思い出してしまいました。
 小学校の時はドロッとして飲み込むに飲み込めない、とてもまずい脱脂粉乳でした。クラスに一人くらい好きな人もいましたが。全部飲み干すのは無理でした。後年、初めてバリウムを飲んだ時は又脱脂粉乳が出たと思ったものです。今ではバリウムもだいぶ飲みやすいものになりましたけど。とはいえ、おかわりしたいほどの味ではありませんが。

 中学校になると弁当持参で牛乳だけ給食で出ました。これが牛乳給食です。
 お昼になり全員が牛乳瓶の紙の蓋を開けると、

 「あっ、蠅はいったー!!」
   「俺なさもはいったー!」
     「わだしなさもはいったー!!!」
 先生あわてず騒がず、
 「はえっ、」違った「はいっ、そんじゃとっかえましょう」

 昭和四十年代初め、田舎の中学校はこれで通っていたんですね。それでもその牛乳続いていましたから当時の衛生感覚なんてそんなものだったのでしょう。今はその牛乳屋さんとっくにありません、なので名前を出しても大丈夫でしょう。その名も西荒瀬牛乳。
 鳥海山でも蠅はいっぱいいますね。それがジェット戦闘機のようにブーンとすごい音をたてて直線状に飛ぶんです。ふわーふわーっじゃなくてブーンです。あまりにもでっかいんで唐揚げにしてやろうかという人もいたくらいです。サービスで無料ですということで。山頂にもいますから蠅の生命力たるや。何か特殊な高山蠅とでもいう種類なのでしょうか、深山銀蠅などという。


山役料

2020年11月13日 | 鳥海山

 昔は鳥海山へお参りするためにはお金を払う必要がありました。昔というと修験道廃止令 の出された明治五年より前の話と思うかもしれませんが、昭和三十年ころまで続いていたようです。なんといっても神社にも記録が残っていないのですから古老の記憶による以外ありません。もっとも神社にしたって専門家でもない、どこの馬の骨とも知れないものからの面倒な問い合わせを受けたって調べて答える方も面倒でしょうからね。


 富士山では山役銭として記録があるようですが、鳥海山では山役料と言っていたようです。
 大物忌神社発行の「自然・歴史・文化 鳥海山」によれば、
「明治五年の修験道廃止令以降、蕨岡三十三坊の旧修験者たちは『共栄社』という組織を作り、この組織が上寺の様々な利害関係の窓口となっていた。二十町歩ほどある共有林の管理、鳥海山登山者の登拝料、参拝者への祈祷、宿泊などの管理も行っていた。とくに蕨岡口からの登山者が多かったので、共栄社には金も力もあり、反抗すると上寺に住めないといわれるほどであった。しかし昭和三十年ころになって、税金を納められなくなり、解散した。」とあるように昭和三十年近くまでは登拝料、山役料の徴収も行われていたようです。

 さて、ここからなのですが、いったい山役料とはいくらだったのか。これは修験道の研究をした諸学者先生方も触れていません。最後のころの山役料はいくらだったでしょうか。いくらだと思います?
 きいたところでは最後のころ、昭和三十年近く、三百円だったそうです。三百円といってもすべての入山者から徴収するわけではなく、代参などの参拝者からいただいていたということです。このころまでは代参に訪れる人も多く、蕨岡の大物忌神社では年の半分もの収入をこの山役料で得ていたということです。酒田の大宮地区は代参が盛んで、山中で一緒になったこともあります。代参の方々は山頂の本殿で御祈祷していただいた後、虫札というお札をいただいて帰ります。昔は這松と石楠花を切り取って持ち帰っていたのですがさすがに今ではそれは行っていません。代参の方々は帰路も拝所で御祈祷をささげて下山します。
 この山役料を徴収していたのは蕨岡大物忌神社では横堂、吹浦大物忌神社では鳥ノ海御浜神社でした。
 この三百円、昭和三十年の物価としてはどうだったのでしょうか。
高卒初任給
大工手間賃
理髪
朝日新聞
ビール
6,600円
560円
150円
330円
125円
(明治~平成 値段史 http://sirakawa.b.la9.jp/Coin/J077.htm より)

 誰でもピンとくるのはやはりビールの価格でしょうか。山小屋のビールの値段ではないですよ。令和の今に換算してみると三千円くらいでしょうか。鳥海ブルーライン有料のころ通行料は往復千数百円でしたからこの当時としては案外高かったのではないでしょうか。
 いずれにしても、こういった記録は残っていないであろうし、残っていたとしても探すのは今となっては素人の部外者ではほぼ困難でしょう。何よりも一番は誰も興味を持っていないというところです。鳥海山の景色の写真を撮る人も、地質の調査をする人もそれはそれで結構ですけれど、又鳥海山の郷土史、山岳信仰史を調べる人もいっぱいいるでしょうけれど、肝心なのは細部にこそ本当のことが詰まっているということです。たまには重箱の隅を調べてみるのも決して悪いことではないと思います。
 鳥海山の昔の話、まだまだ続きます。乞うご期待。