鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山破方口

2020年12月07日 | 鳥海山

 破方口について末尾に新たに記しましたので改めて紹介します。

 古絵図にはほとんどの図に破方口が記されていますが文献では現在のところ見受けられるのは下の通りです。ほかにあったとしてもこのいずれかからの孫引きとなります。

和暦

西暦

書名

著者

破方口の記載された文面

文政4年

1821

鳥海山煙気之控

飽海郡誌に記載

破方口と新山之中谷合焼七高山之後矢島道邊焼破

大正十二年

1923

鳥海山登山案内

橋本賢助

先ず七高山の頂から火口原を見下ろせば、新山との間に出来た雪田が分水嶺となって、東北に下るのが破方口、西方即ち左方に降下したのが仙者谷である。

昭和二十八年

1953

鳥海山日記

佐藤康

昨日登った二人が遭難しているとのことだ。遭難場所は、七高山破方口の風石と蛇石の間。

昭和五十九年

1984

鳥海山信仰史

松本良一

三代実録に記されている、貞観十年、貞観十三年の噴火状況、即ち破方口が秋田子吉川流域に溶岩が流れ、これを大蛇と称しているが、

平成九年

1997

鳥海山 自然・歴史・文化

大物忌神社

八方口大神(三十六末社の三十六番目)

 実際に目の前にある破方口を表したのは鳥海山日記が最後です。「七高山破方口の風石と蛇石の間」とあり、七高山の破方口と読めます。なお、蛇石は過去の文献から虫穴のことと思われます。

 文政四年の状況は絵図を見るとわかりやすいと思います。文政四年はすでに新山が出現したのちですが、外輪はそのままです。

 七高山の矢島側、七高山と新山の間で噴火している様子です。文政四年の記事と併せて読むとよくわかります。

 下の写真は新山ができる前の鳥海山の模型ですがそこに破方口を書き込んでみました。

 現在七高山の北峰、ピークと言われているものが破方口(山)であることがわかります。八方口(破方口)大神はその前の前三十四番めに七高山大神がありますので最後の三十六番目の拝所であることがわかります。七高山の北峰にも何神かが祀られているのは現在でもわかります。そうしてみると、やはりそこがは破方口であり、そこに祀られているのは破方口大神に間違いないでしょう。

 では、橋本賢助の鳥海山登山案内にある破方口はどういうことかといえば、google map で見てみましょう。

 最初、「七高山の頂から火口原を見下ろせば、新山との間に出来た雪田が分水嶺となって」というのが何とも理解できなかったのです。分水嶺というと山の尾根を連想します。。しかしここでは七高山と新山の間の雪田、すなわちスノーブリッジを分水嶺とみているのです。航空写真を見るとスノーブリッジを境として谷が二方向に分かれてるのがわかります。破方口というのはこの東北に下る谷であることがわかります。そしてその先端のピークが破方口山、七高山北峰なのは間違いないでしょう。破方口といったから登山道があるわけではなく、そういった地形を称していったのでしょう。また破方口を望むピークも破方口と呼んでいたのだと思います。

 しかしながら現在では破方口という呼称は用いられることもなく、大物忌神社でもは破方口のわかる人はいないようです。矢島側の人々はおそらく今も破方口大神に登拝しているかもしれませんが矢島側には知る人もなく今のところわかりません。ただ、それまでの記録はすべて蕨岡から書かれたものでありますので蕨岡に資料があるかと思ったのですがわかりませんでした。なお、上の本の松本さんは蕨岡のご出身、橋本さんも確か蕨岡の方だったと思います。

 なぜ破方口という名前が使われなくなってしまったのか。おそらく登拝者の激減。周辺の自動車道の開通による観光登山者の増加、彼らは歴史や伝統には一切目を向けませんので何か祠があるなくらいしか興味を持ちません。最近でこそ七高山まで行く人は増えましたが以前は吹浦・象潟口からの登山者は外輪コースで山頂を目指す場合、行者岳から降って新山へ向かいました。その道が崩落により通行禁止となったためやむなく七高山までまわって新山に行くようになったので、それまではわざわざ遠回りする人は少なかったです。航空写真を見てもかなり遠回りなのはわかりますよね。訪れる人がいなくなれば地名も消えてしまうのでしょう。「破方口」という名前復活させてほしいですね。七高山北ピークなんていうよりずっといいです。

 

追記

 秋田の山と三角点 デコヤマさんからのご意見で非常に参考になることがあったので書き足しておきます。デコヤマさんのご意見は次のようなものでした。その中の写真も添えておきます。

「破方口 」は登山道ではなく、新山と七高山の北ピークとの「鞍部付近」の事だと思います。
ちょうど、文珠岳から峰続きの肩が破れる場所で、口の様な状態となっていますね。
その出口(入口)に当たる?を守る?七高山北ピークを神と見立てたのでしょう。
仮に登山道説であれば、現在の康新道あたりの崖地を指すはずですが、
矢島方面のルートには変わりありませんので「 破方道」とはならないはずです。
いずれにしろ、「崩壊地形」を表す言葉です。

 七高山北峰から見れば大きく崩壊した地形です。まさにれたです。七高山北峰を破方口(山)と仮定すればすべての文献の意味がはっきりしてきます。

 鳥海山日記の遭難者のところで「七高山破方口の風石と蛇石の間」を「七高山北峰の風石と虫穴の間」と置き換えれば今の場所のどこに当たるかは自ずと判明すると思います。風石は今のところ不明ですが北峰のどれかを指すのでしょう。

 

※コメントに有りました「斎藤重一著 鳥海山 なんば書房 1997.4」は秋田県立図書館の書架にはありました。なんば書房については情報不明です。


2 コメント

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破方口 (ytenjin)
2020-12-07 08:58:35
斎藤重一『鳥海山』の中に何度か破方口が出てきます。「十二時四十分、破方口に出、七高山頂上のたくさんの登山者の目にさらされる。」1996年頃の北面の記録です。たぶん本荘の山岳関係者には詳しい人がいそうですが。
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破方口 (ayasiiojisann)
2020-12-07 09:45:08
斎藤重一さんは鳥海山の自然を守る会理事長で「ブナ林を守る」の著者の一人ですね。『鳥海山』は探すことができませんでした。秋田書房は電話連絡不能、秋田県山岳連盟はメールでの問い合わせが送信不能、現在「本荘山の会」へ問い合わせしています。
情報ありがとうございます。もし、その内容PDFでも閲覧できるようでしたらメールにてお知らせいただければ幸いです。
music.inc.2012@gmail.com です。
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