古絵図はほとんどが庄内から見た山容が描いてありますから山の名称も庄内から見たものがほとんどではないかと思われます。破方口も庄内から見た古絵図には必ず載っています。
太田宣賢「鳥海山登山案内記」には破方口についての記述が二度出てきますがそのうちの一つが次の一文。ルビが振ってあります。破方口が七五三掛連嶺の山のひとつであることがわかります。
胎内の奇洞を通過し少しく下り更に破方口に登れば七高山〇蟲穴〇御嶽等の諸社彎形を爲して點在し
今のように新山から七高山に登のではなく、破方口に登っていたことがわかります。もちろん現在は不可能ですが。斎藤重一「鳥海山」によれば鳥海山北面を破方口に向かって登っていたことがわかります。
破方というのは山容を建物の「破風」に見立てたものが転化したものかもしれません。埼玉県には山容を破風に見立てたことから名付けられた破風山(はっぷさん)という山があります。
山と高原地図における破方口の掲載の変転を見てみましょう。(手元にある一番古い「山と高原地図 鳥海山 」1976年版には破方口の記載はありません。)
1986年の山と高原地図、執筆は池田昭二さんです。破方口はピークではないという捉え方です。破方口の口が紙の皺でしょうか、半分消えています。橋本賢助、姉崎岩蔵の系譜です。橋本賢助は破方口について次のように書いています。
先づ七高山の頂から火口原を見下せば、新山との間に出來た雪田が分水嶺となって、東北に下るのが破方口(はほうぐち)、西北即ち左方に降下したのが仙者谷である。
口という文字に引きずられた解釈です。この一文がこれらの地図における破方口の記載の根拠になったものではないでしょうか。
こちらは1991年、破方口が破方になってしまいました。
執筆者が斎藤さんに代わってから、当初は破方口は載っていませんでしたが、手元にあるものではこの年のものが谷か峰か不明ですが破方とい名前が載るようになりました。尚、虫穴が虫穴岩になっていますが現在は指摘を受けて昭文社が山岳会に確認した結果「虫穴」に改められています。古来「虫穴岩」と書かれた図面、古文書はありません。
2022年、何の根拠か破方の振り仮名が(やぶれかた)となってしまいました。破方口が(はほうぐち)である根拠はあります。昭文社にメールはしてありますので今年からは正確になっているのではないかと思いますが。破方口が七高山の北のピークを指すことはこれまで当ブログで再三にわたって掲げた資料から間違いないことです。
山名は音に聞け、ですからね。