鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山の石油

2022年02月23日 | 鳥海山

 滝の小屋への登山口へ向かう途中、草津の集落を過ぎて湯ノ台を経由していきます。湯ノ台は昔は鉱泉と言っていましたが温泉が湧き、石油の臭いもする所です。

 以前は何の気にもしていなかったのですが、草津という地名、臭水くそうずが語源とは山岳ガイドのAさんから教わって始めて知りました。以前は鳥海山の花と景色、それをめぐる人々に興味があったのですが今は明治・大正・昭和の鳥海山の歴史に心を奪われています。

「飽海郡誌巻之八」に草津についての記載があります。その前に草津の先の升田について、


升 田 貝澤ノ小字アリ田澤ノ升田二對シ日光升田卜稱ス日光川行ノ極東ニシテ由利郡矢島百宅ニ達スル通路アリ之レヲ升田越トイフ故二酒井家所領ノ際ハ番所ヲ据ヱ御組外ヲシテ之レヲ守ラシメタリキ


 升田の先、奥山林道のもととなった道ですが幕藩時代から百宅への道として利用されていたことがわかります。現在は残念ながら崩壊した所も補修されておらず通行は出来ないようです。草津については、


草 津 草津新田ノ小字アリ草津一ニ草生津(貞享村組付)叉草津(菅原政廣記)二作ル古來當山中二石腦油和名臭水くそうず出ヅ村名之レニ因ル

※()内の文字はは原本割注ですがここでは表現できないため上記のようになっています。


 また次の一文もあります。


石油泉草津山中ニアリ創見ノ年代詳カナラズ享保寬保ノ際莊内藩士支澁谷六兵衛越後預地在勤中彼地ニ於テ親ク睹ル所アリテ分拆熟練ノモノヲ聘シ製油ヲ試ミラレシモ事成ラスシテ止ミヌ
爾後遺志ヲ繼キ之レニ從事スルモノ多カリシモ亦其功ヲ收厶ル能ハサリシガ寶 暦二年狩川通川行村百姓彌兵衛テフモノ製油ヲ企テ之レヲ請願セラレタリ


 この草津山中というのが湯ノ台の事です。本格的に開発されたのは1934(昭和9)年のこと。64年(昭和39)の閉山まで原油約7万キロリットルを生産したということです。湯ノ台の鉱泉が開発されようとしたのが元文四年(1739)のこと。やはり「飽海郡誌巻之八」にその記述があります。ちなみに飽海郡誌は国会図書館のデジタルアーカイブで誰でも閲覧、ダウンロードできます。


湯之臺 鑛泉、元文四年未年十月酒田ノ人玉木貞七トイフモノ浴室普請ヲナセリ


 その後のことは書いてありませんが、昭和には国民宿舎鳥海山荘が今の鳥海山荘よりずっと下、油井跡のあたりにありましたし、その隣には湯元屋というのもありました。どちらも利用したことがあります。蕨岡の僧坊山本坊が経営していた杉元屋というものもあったそうですが、それが湯元屋になったのか、今現在山本坊さんに訊くのは出来ない状態なのでその辺はわかりません。

 ※よく宿坊と言いますが僧坊が参拝者を泊めるのが宿坊です。蕨岡は三十三の僧坊があったということです。神社なのに僧坊と思う方は神仏習合を調べてみてください。かつては装飾の方が神職よりも一段位が上だったのです。それがひっくり返ったのが明治の神仏分離令蕨岡の僧坊は一斉に神職に鞍替えし、残されたのは学頭寺の龍頭寺のみ。龍頭寺は蕨岡地内に檀家を持たない寺となりました。

 その庄内の石油について詳しく書かれたのが

 みちのく豆本の一冊です。明治・大正・昭和の石油事業について詳しく記されています。草津に於ては明治期まで草津油が水とともに流出して田畑に害をなすとして百姓の反対でこの地での油とりは不可能だったそうです。(百姓が差別語だと信じて疑わない方は逆に差別者なのです)

 この話は前掲書の中よりの引用なのですが、その次に


 もし、この地の石油の涌出跡をさぐろうとする人があったなら、湯の台鉱泉より登山道を二十分ほど登ると、沢追分という所に着く、左の急坂を登りつめれば横堂に行くのだが、その沢追分を登山道よりはずれた左に曲り、道とてない道を行くと、石を積重ねて小川をせきとめた跡に出る。いまは木や草に埋れているであろうが、子細 に見れば付近一帯に黒色の天然アスファルトを発見するであろう。
 この奥こそ、昭和年代になり、日本石油の手でこの地の石油が開発されるまで、幾百年あるいは幾千年、絶えることなく水と共に石油の涌出した所である。
 やがて幾十年もしたら、その事を知る人もなく、鳥海山の自然と化するであろう。


 そんなところに湧出跡があったとは知りませんでした。こんど沢追分を通った時は踏み入るのはしないまでも其の入り口の痕跡があるものか確かめてみたいと思います。だから無雪期の山は歴史がにじみだしていて面白いのです。

 その明治期、中山浅蔵という人が草津山中の湯ノ台鉱泉のほとりに小屋をかけ、露頭の原油を集めて蒸留を開始したそうですが、湯ノ台の原油は特重質というもので燈油の溜分がなく、溜出油をランプに入れ点じたところ、油煙もうもうとして村人の嘲笑を飼うのみであった、と記されています。

 その後大正、昭和といろいろな人が試み挑戦することとなりますが、酒田の人が成功することはありませんでした。そのことについてある人がこう述懐したそうです。

 「酒田という土地柄が本格的事業を育てぬところで、右のものをただ左に売ってもうけるだけの商人しかいなかったのです。」

 酒田人気質をよくとらえた言葉ではないでしょうか。

 他にも鹿の俣の石油坑など紹介したいところはまだまだたくさんありますが、今回はこんなところで、上に書いた内容はほとんど山岸龍太郎さんの文章の紹介でした。


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