鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

鳥海山破方口(八方口)の謎

2020年09月13日 | 鳥海山
 鳥海山に詳しい方に聞いたり、古絵図を見たりしていますが今一つわかりません。どなたかご存じでしたら教えてください。

 ここに飽海郡誌という本があります。現物はかなり膨大な内容量で古書としての価格も結構高額です。古書市場にも出回っていますが、幸い国会図書館のデジタルアーカイブで閲覧、ダウンロードすることが出来ます。
 飽海郡誌巻之二 第六篇 山川の冒頭に鳥海山大物忌神社の項があります。その中に何枚かの絵図があります。破方口はそのどれにも記載してあります。しかしながらPDF内を検索しても文字として破方口或いは八方口は出てきません。
 口という言葉は現在では矢島口、象潟口、湯ノ台口など登山道の入り口或いは登山道そのものをを指して言いますが果たしてその時代、口に登山道の意味があったのか。現在で言う所の登山道、このころは登山ではなく登拝のための道、登拝道ですが、は古絵図では矢島道、仁賀保道、庄内道のように道と称されています。国会図書館の図は黄ばんでいて見ずらいと思いますので大物忌神社発行の「鳥海山」より引用の図をまずはご覧ください。
 寛政十二年(1800)新山形成前

 享和元年(1801)3月11日届け出噴火の図
 文政四年(1821)新山と七高山の間および矢島道付近の噴火

 もう一枚は原図出典不明ですが姉崎岩蔵「鳥海山史」より
 この「鳥海山史」のこの図の掲載頁の前頁には、「先ず七高山の頂から火口原を見下ろせば、新山との間に出来た雪田が分水嶺となって、東北に下るのが破方口、西方即ち左方に降下したのが仙者谷である。」とあります。これは大正年間の橋本賢助著「鳥海山登山案内」からの引用ではないかと思います。文章が同じですから。
 千蛇谷ではないかという方もあると思いますが千蛇と書くようになったのは近年のようです。この書が書かれた当時は仙者、それ以前は図にあるように千歳谷と呼び習わされていたようです。
 一枚目と四枚目の図を見ると破方口とは七高山に隣接するピークのように見えます。また、三枚目の図では破方口山と記されています。しかしながら前掲書によれば破方口という道の様にも読めます。

 破方口が文章に現れるのは他では大物忌神社発行の「鳥海山ー自然・歴史・文化ー」の中で三十六末社のひとつとして八方口大神(352頁)が挙げられています。また佐藤康著「鳥海山日記」の昭和二十八年の記録に「昨日登った二人が遭難しているとのことだ。遭難場所は、七高山破方口の風石と蛇石の間。」という記述があります。場所とも取れますし、道とも取れます。もちろん19676年の池田昭二執筆の「山と高原地図 鳥海山」に破方口の記載はありません。大正の橋本賢助、昭和二十年代の姉崎両氏の破方口を記述しているところを見ればそのころまでは普通に破方口というのは知られていたのではないでしょうか。

 実は七高山にはピークに隣接して北側にもう一つピークがあります。矢島方面の方はおそらく皆さんごぞんじでしょう。しかし、一般の登山者は行者岳からの下降ルートが通行止めになってから七高山経由で新山まで行くとしてもこの北のピークは気づかずに山頂へ向かうでしょう。
 七高山北側のピークの写真がかろうじてありました。
 ここには写真のように石の碑も建てられており、拝所にもなっているようです。また、この北峰のさらに北側に、七高山を形成する一枚の溶岩の末端と繋がる20~30mの断崖で尾根が途切れているところを歩く内壁に刻まれたトラバース道があった 、という話を聞いた記憶があると写真家のYさんから教えていただきました。
 どうやら破方口というのはこの七高山北側ピークと関連ありそうです。大物忌神社に破方口について問い合わせしていますので何かわかりましたらまた書いてみましょう。

 その他にもあれほど登っていながら気が付かなかったものに、佐藤康「鳥海山日記」遭難の所に出てくる「風石」「蛇石」、姉崎岩蔵「鳥海山史」に記述ある「風吹岩」、その「風吹岩」については「噴火口切通の右方に風吹穴と云うのがあり、直径凡そ一米突のものであるが、参詣人が賽銭をまいた時、その音が何時までも絶えないのでもとにかく相當深いことが想像される。」と記されています、があります。

 極めつけにもう一つ、拝所のひとつ、行者嶽開山大神があります。
 松本良一「鳥海山信仰史」に掲示されている写真です。説明には行者開山の神役ノ行者と鬼二つ、とあります。「やくのぎょうじゃ」じゃありませんよ、役小角(えんのおづぬ )のことですから。御存じない方は調べてください。

 これに関した記述は畠中善弥「影鳥海」にあります。

 「古文書に『山上行者岳の岩石に当時彫り付けたりという前鬼後鬼の像なるものを見るときは正に千百有余年の久しきを経たる当時の古物なること毫も疑うべきに非ざれば事物も亦之を徴せりと云うべし』とあるが、この古文書は二百年前に書かれたものゆえ、今から千三百年まえの石像仏とみられる。この古文書によって十年前、私は行者岳を探索の結果、行者岳内壁に彫り付けられた四体の石像を見ることが出来た。何せ年代が経っている事とて風化し四体の内、頭部のあるものは一体だけで三体は頭部が欠けている。」

 「影鳥海」にはその写真はありませんが前掲の写真はこの文章と一致します。行者岳内壁は崩落が激しく、いつの頃からか通行禁止になっています。これが現存しているかどうかはわかりません。行者岳内壁を歩いて頭に石が落ちてきたら助かりませんから見に行くのはやめておきましょう。直近で見た方がいたらお知らせください。
 
 どうでしょう、鳥海山にはこういう楽しみもあるという事をお判りいただけたでしょうか。

2 コメント

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Unknown (ytenjin)
2020-09-15 10:11:53
こんにちは
40年位前のことですが、新山から七高山に行くのに現在のルートより北側の内壁を登ったような気がしますが、そんなルート記憶にありますでしょうか。
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Unknown (ayasiiojisann)
2020-09-15 10:19:35
すみません、どうもそのルートは記憶にありません。
山形県山岳会のかたの撮影した行者岳の崩落、七高山の亀裂等の写真を拝見しましたが外輪山内壁の崩落は年々進んでいるようですね。下にそのURL載せておきます。
http://www.iideasahi.jp/ga-yh.html
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