鳥海山近郷夜話

最近、ちっとも登らなくなった鳥海山。そこでの出来事、出会った人々について書き残しておこうと思います。

横堂今昔物語

2021年08月02日 | 鳥海山

 なぜか横堂が好きです。今までの画像をもう一度整理してみます。

 最初は中村不折の画いた箸王子(横堂)です。「史跡鳥海山」では秋田の須貝商店が発行したものと書いてありますが、手元にあるタトウには「國幣中社大物忌神社社務所發行」と書いてあります。須貝商店が発行したものはおそらく再版でしょう。大物忌神社より先に発行することは考えられません。葉書の表面に仕切り線はないので一見明治期の葉書のようですが、「きがは便郵」と右から左に濁点付きで書いてあるのは昭和に入ってから。中村不折が鳥海山に登ったのは大正8年8月14日、山頂に一泊翌15日下山したとありますからこのはがきの発行年はますます不思議なものとなります。しかしこの絵は大正期の横堂を表しているのは間違いありません。

 奥にあるのが横堂、横につながって建てられているので横堂と言います。箸王子神社が祀られています。手前にあるのが笹小屋です。横堂について詳しく書いてあるものは橋本賢助の「鳥海登山案内」です。


【横 堂】(よこだう)山路四里。實測頂上までの畧々半分の所で箸王子はしわうじ神社があり又第二の笹小屋も在る。社務所の出帳所も置かれて登山者の便利を計つて居る。昔は一の木戶とも云った。此の笹小屋は當山小屋中の最も大きなもので馬の脊なりの出に道を扶んでトンネル形に建てたものである。ぞれが枯れた「ネマガリダケ」(俗名ジダケと云ひ一見クマザゝの如くである。當山には最も多い種類の一で、根際がまがつてゐる、葉もクマザゝよりは細長い)で圍てゐるから、色からしてカマボコの樣である。中では白玉 (所謂鳥海山の力餠)・草鞋・イケウマ等をを賣つて居る、一般參詣人はよく「イケウマ」を云ふもの買って土產にするものだ。之は蘿藦ががいも科の「イケマJの根だが、聞く所に依ると馬の妙藥なそうで、何でも生け馬位に利くのだそうだ。小屋を出ると其所に板張りにした、箸王子神社が道を挾んで橫に建てられてゐるから俗に橫堂と云はれて居る。左が神殿、右が出張所になつて居るから、此處に登山鑑札を出して認印を貰はなければならない。又社前から右に折れる小徑がある、途中鎖や太い網を傳つて下りる所があつて大澤神社に行くのであるが其處には炭酸鐡で赤くなった高さ五六丈もあらうと云ふ瀧があり、此の瀧が卽ち御神體で拜殿の中から拜む樣になつて居る。之が名高い大澤の赤瀧である。何でも弘法大師の創始に係る所だと云ふので、極めて尊崇して居る所である。


 左が神殿となっていますが、後年右が神殿になったようです。昭和の時代に宿泊した人も左側に泊ったといっています。蕨岡できいた話でも右が神殿とのことでした。笹小屋では色々なものを売っていたようです。

 橋本賢助が見た横堂はこの写真でしょう。(「鳥海登山案内」より)大正7年発行の本ですのでそれ以前の写真です。

 次の葉書は明治40年から大正6年の間に発行されたものです(表面の書式による)。上の写真と同じころのものでしょう。もしかすると同じ日のものかもしれません。神職の方と右の人が同じようにも見えますが、でも幟が前の写真には立っていないか。

 「史跡鳥海山」に掲載されている写真ですがこれは左に少し見える小屋が板張になっているのでもっと後年のものです。手元に現物がないので発行年の推測はできません。

 これはおそらく昭和二十年代のものです。蕨岡山本坊の御当主鳥海さんが御父君と一緒に立てた小屋だそうです。こうしてみると結構大きそうに見えますが、実際はそれほど大きくはなかったでしょう。

 昭和54年、横堂はすでに無人です。柱も傾いているようです。いつまで神職が常駐していたのかはきき忘れました。

 倒壊した横堂。鳥海山フォトギャラリー様から借用させていただきました。20年ほど前ということですので平成12年(2000年)前後と思われます。月光坂からの雪崩で倒壊したと蕨岡の般若坊さんより伺いました。しばらく放置されていたそうですがどこからか苦情がありやっとのことで片付けたそうです。

 横堂のあったところには祠だけが残されています。

 横堂の前の石段も何段か残されていました。

 

 まったくこういうことを調べるのも楽しいことです。

 ※最後の写真の後蕨岡に寄ったら「熊ど会わねけが(熊と会わなかったか)」と聞かれました。南高ヒュッテのあたりで熊から唸られた人もいましたし、最近洞腹の滝のあたりで黒いものが目の前を横切って行ったという人も、平田の奥の沼で釣りしていたら対岸に熊が出たとか熊の話もだいぶ聞こえてくるようになりました。

 

 


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