日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

岡城の巻 島津の大軍を撃退、難攻不落の高石垣

2018-01-07 19:07:52 | 九州
豊後竹田駅に到着。私は約50年前の学生時代に一度岡城を訪ねています。駅裏の断崖から落下する落門の滝(落差60m)。
豊後竹田の駅舎

タクシーで岡城の駐車場まできました。
武者揃え本陣

鉄砲方詰所跡
大手門の石垣です。
大手門石垣
古大手門跡西の丸跡東門跡西の丸御殿跡阿蘇山?
祖母山(標高1756m)?角櫓跡


中川民部屋敷跡
近戸門
近戸門の石垣普請方跡
賄方跡但見屋敷跡
城代屋敷跡
貫木門跡鐘櫓跡太鼓櫓跡
本丸石垣

くじゅう連山。左が久住山(1786m)、中央は大船山(1786m)、右は黒岳(1357m)。
武具庫跡
三の丸本丸石垣

本丸跡
写真左から傾山(1602m)、祖母山(1756m)、越敷岳(1043m)
三の丸
荒城の月の碑
天満神社
金倉跡

本丸と二の丸をつなぐ階段
階段と公衆トイレが一体になっています。
滝廉太郎。大分市内にある銅像とまったく同じ銅像です。
大手門石垣五衛門谷トンネル。帰りは徒歩で城下町へ向かいました。
岡城公園入口
岡城と城下の間にいくつもの岩山がそびえています。
岡城は中世に豊後国守護大友氏の分家・志賀氏が築城、島津と豊臣の豊薩戦争では島津の大軍を迎え、志賀氏は城を守り抜きました。大友氏の豊後没収とともに志賀氏も岡城を退去、その後は中川氏が入城し、江戸時代を通じて岡藩の岡城として幕末まで続きます。
岡城の石垣は見事、圧巻です。播磨の竹田城は天空の城として人気ですが、この岡城も見逃してはいけませんね。九州一二の名城かと思います。
約50年ぶりに岡城へきました。大手門付近の石垣はなんとなく記憶していますが、それ以外はまったく憶えていません。駅からどうやって城跡まできたのか。多分、西の丸あたりだけを見て引き返したのだと思います。当時は本丸は未整備、滝廉太郎像もなかったのかも知れません。
ここ数年積極的に各地の城を訪ねていますが、10年前に行ったところはすでに記憶が不確かですね。
記憶を確かにする意味でもこのブログは続けなければと改めて感じました。


高遠城の巻 武田氏最後の戦い、仁科信盛が織田軍を迎えて激戦

2017-08-04 12:53:54 | 長野

JR中央線・茅野駅のホーム看板。小彼岸桜と絵島生島で有名な高遠城跡への最寄り駅の一つです。
茅野の駅舎駅前の商業ビル姥塚古墳の碑
寒天の里の記念碑。背後の3本の柱は寒天を模しています。
茅野から高遠へは春の桜、秋の紅葉、夏の登山の期間限定でバスが運行されています。1日1便、終点は南アルプス登山基地の仙流荘です。このバスがない時期は高遠へは伊那市または伊那北駅からバスで行くことになり、東京からだとかなりの遠回りになります。
茅野から杖突峠を越えて高遠へと行きます。諏訪氏の居城、上原城がある城山の山並みが見えます。高遠駅。バスターミナルですが駅となっています。現代では駅は鉄道駅を指しますが、鉄道以前の時代では馬を替える場所であり、近年では「道の駅」もあるのでとくに違和感はないのでは。ユニークな二宮金次郎像御城下通りの商店街
藤沢川
太鼓櫓
阪本天山屋敷跡


大手門跡高遠の町並み
三の丸跡の高遠高校の碑
高遠高校の正門として使用されていた伝高遠城大手門藩校進徳館進徳館百年碑空堀さくら名所100選高遠城北ゲート


高遠閣。1936年に建築された木造建築、登録有形文化財。今風にいえば町のコミュニティセンターです。
天下第一の桜の碑
桜雲橋問屋門。城下にあった門を城内へ移設しました。

天正10年の織田信忠率いる織田軍の甲斐進攻の際に武田方の高遠城主・仁科盛信(信玄の五男)は籠城して徹底抗戦、最大の抵抗をし、ついには落城しました。武田氏最後の戦いです。高遠落城後、武田勝頼は新府城から天目山へと逃れ最期を遂げます。
コヒガンザクラの碑新城藤原神社
本丸跡
本丸からの眺望
本丸太鼓櫓中村元恒・元起の碑
招魂碑
白兎橋空堀法幢院曲輪
広瀬奇璧・河東碧梧桐の句碑裏面伊澤多喜男の無字の碑
南ゲート
保科正之と正之の生母・静の石像。静は2代将軍秀忠の子を懐妊し、生まれた子は保科家の養子となりました。正之は異母兄の3代将軍家光を補佐し幕政に貢献し、のちに会津藩主となり、保科正之の会津藩は幕末まで続きました。最後の会津藩主は松平容保です。
高遠町歴史資料館
「保科正之を大河ドラマに」のキャンペーン実施中です。絵島囲み屋敷
絵島の間新宿区と伊那市は友好提携の関係にあります。新宿御苑は高遠藩内藤家の屋敷の跡です。新宿は内藤新宿ともいわれました。昨年、新宿歴史博物館で友好提携10年を記念し「信州高遠藩」のイベントが開催されました。高遠湖。三峰川をせき止めた人造湖です。
三峰川に架かる白山橋
高遠ダム
国道152号の高遠大橋
高遠城の南壁
藤沢川
そば店
酒蔵の泉
ある商店のショーウインドーのポスター。高遠・伊那間は鉄道の計画はありましたが実現しませんでした。このポスターは幻の鉄道想像図かと推測します。建福寺
高遠石工の石仏群
本堂
保科正直(中央)、保科正光(左)、諏訪御料人(右)の墓。正直は戦国期に武田、豊臣、徳川の武将として活躍しました。正直の嫡男が正光。正光は秀忠の庶子を養子とし、正之に家督を継がせました。
諏訪頼重の娘、武田信玄の側室、勝頼の生母・諏訪御料人の墓です。
高遠駅に戻りました。待合室の石油ストーブです。北海道育ちの私としては懐かしいですね。中央構造線・フォッサマグナのポスター伊那市駅伊那市駅前

高遠城訪問は今回が3度目です。約25年前の過去2回はいずれも桜見物でした。小彼岸桜が見事だったことと絵島屋敷は記憶に残っていますが、当時は高遠が城跡だったことはあまり意識をしていませんでした。今回は城跡見物を目的に3回目の訪問をしました。
高遠城の歴史を簡単に振り返ると、築城は諏訪氏一門の高遠氏で、高遠氏は武田信玄と組み諏訪氏を滅亡させました。その後高遠氏は信玄によって攻略され高遠城は武田の城となります。信玄の家臣・山本勘助が城の改築を担当し、勘助曲輪として名前が残っています。
信玄は諏訪頼重の娘を側室とし、勝頼が誕生。勝頼は一時高遠城主ともなっています。信玄嫡男の義信が廃嫡され自決したのち勝頼は武田本家を継承、高遠城は信玄の弟・信廉、信玄の五男・仁科信盛が継ぎ、信盛のときに織田軍に攻められて落城します。
徳川期には旧武田家臣の保科正直が藩主となり、正光、正之(家光の異母弟)と続き、正之は会津へと栄転。1691年に内藤氏が入封し幕末まで続きます。その内藤家の江戸屋敷が甲州街道の新宿にありました。現在の新宿御苑一帯です。

設楽原の巻 織田鉄砲隊と武田騎馬隊、決戦の舞台

2017-07-25 12:45:59 | 愛知・岐阜
三河東郷駅
駅舎内に設楽原歴史資料館への案内図がありました。

三河東郷駅の駅舎。無人駅です。私は2014年秋に長篠城へ行きました。その際に設楽原へも寄りたかったのですが、電車の都合で断念しました。今回は設楽原決戦場を探索します。

駅前の勝楽寺。設楽原戦没者霊場の石碑があります。
駅前の案内図

山縣塚の入口
山縣(山形)という地名が残っています。
山縣塚

左は設楽原で戦死した武田の武将、山縣昌景の碑
左は山縣昌次、従士名取道忠、右は高坂助宣の碑徳川軍の陣、弾正山
小幡塚
井伊家の赤備えは有名ですが、もとは武田の戦装束です。小幡氏は上州国峰城の城主。国峰城は富岡製糸場の近くです。小幡信貞の碑。小幡信貞が設楽原で戦死したかどうか史実は不明のようです。



鉄砲隊

火おんどり

設楽原歴史資料館入口
幕末の外国奉行、岩瀬忠震の銅像
資料館内部
資料館内は設楽原の戦い、火縄銃・鉄砲の歴史、岩瀬忠震の足跡を展示しています。

日本最古の火縄銃、信玄砲
近くの野田城の模型。飯田線の途中に野田城という駅があります。
風林火山
信玄台地の上に資料館があります。
山岡荘八書の「長篠役設楽原決戦場」。我々の世代の教科書では「長篠の戦い」となっていましたが、最近は織田・武田の決戦は「設楽原の戦い」といわれるようになりました。山岡荘八の書は「長篠城を争奪する戦い全体が長篠役、両軍が決戦を行ったのは設楽原」という意味ですね。納得です。山岡荘八は「徳川家康」で有名ですが、武田信玄・勝頼を主人公とした小説は手がけていないと思います。
設楽原の戦いで死んだ武田軍武将の碑。左上から真田信綱・昌輝兄弟(昌幸の兄)、馬場信房(信春)、内藤昌豊、左下から山縣昌景、原昌胤、土屋昌次。真田昌輝以外は「武田二十四将」(昌輝も二十四将という説もあるようです)。大筒
馬上筒

岩瀬忠震のコーナー。忠震は設楽家に生まれ、岩瀬家の養子となり、幕末期に外国奉行として活躍しました。設楽家、岩瀬家はともに設楽原周辺を領地としていましたが、忠震はこの地に住んだことはないようです。
岩瀬忠震の陶像
黒澤明監督の映画「影武者」のコーナー
資料館の屋上は展望台になっています。織田軍が布陣した茶臼山、激戦地・丸山の方角
徳川軍が布陣した弾正山の方角大鉄砲名古屋城の模型資料館内のポスター
地元で発掘された土器
資料館の外観


信玄塚。武田軍の将兵を弔った塚です。信玄の塚ではなく、武田軍の塚です。武田=信玄という見方なのでしょう。
えんま堂いろはかるた
「火おんどり」は武田軍の将兵を弔う祭りです。首洗池
竹広激戦地
両軍が対峙した連吾川。武田の騎馬隊が川を渡り突撃しました。
「長篠役設楽原決戦場」の石碑。山岡荘八の書です。

連吾川の対岸、武田軍が布陣した信玄台地



徳島城の巻 蜂須賀小六の嫡子・家政が初代阿波藩主として築城

2017-01-07 15:57:17 | 四国


徳島駅正面


徳島城は徳島駅の東にあり、駅を出て線路沿いに南東に歩き跨線橋で線路を横断し城址公園へ入ります。



太鼓櫓跡の石垣



太鼓櫓のラジオ塔。昭和初期の街頭ラジオです。

旧帝国海軍駆逐艦追風(初代。おいて)の記念マスト。追風は日露戦争後に就役した初代と、太平洋戦争中1944年2月にトラック島付近で沈没した2代目の2艦があります。

阿波おどり記念碑



徳島城博物館

徳島城をつくった蜂須賀家政の像。家政は豊臣秀吉の重臣、蜂須賀小六正勝の嫡子です。







東二ノ丸

戦災慰霊碑

天守跡



本丸石垣

本丸跡。本丸は天守より高いところにありました。



徳島城に伝わる清玄坊の逸話


弓櫓跡






西二ノ丸

帳櫓跡


警察・消防殉職者慰霊碑

西三ノ丸


貯水池。城山に貯水池はよくあります。



C86蒸気機関車


弁天池


城山の貝塚


文学博士鳥居龍蔵記念碑。貝塚の発見者です。

隅櫓跡



城の東側は船着き場になっています。徳島城は吉野川の河口近く、助任川と新町川にはさまれた中洲に築城された水城です。

城の東側の堀は数寄屋橋






旗櫓跡




表御殿庭園の入口



心字池









下乗橋



鷲の門は空襲で焼失、1989年に復元されました。





夕暮れの徳島駅前




高松城の巻 三大水城の一つ、2棟の櫓と天守台が残る

2017-01-07 15:55:37 | 四国
四国の旅3日目は高松城です。高松城は、豊臣政権時代に生駒氏が築城、江戸時代初期に松平氏が入封し、幕末まで続きました。日本三大水城の一つです。

高松城南西部の櫓台

高松築港駅。高松城の本丸・二ノ丸西端部に琴電の高松築港駅がつくられました。



高松城の別名は玉藻城。現在は玉藻公園として整備されています。

野面積みの石垣。荒々しくて、いいですね。




二ノ丸跡


鉄門跡


内堀

松ぼっくりのツリー

重要文化財の月見櫓


高松港の報時鐘

瀬戸内海の小豆島、豊島、男木島が見えます。


渡櫓

水手御門

月見櫓、渡櫓、水手御門はともに重要文化財です。




披雲閣の門




藩主居館・政庁だった披雲閣を大正時代に再建しました。



披雲閣の庭園

本丸と二ノ丸を結ぶ鞘橋。本丸は周囲を内堀に囲まれ唯一の橋が鞘橋でした。


本丸天守台


鞘橋の入口

内堀と琴電のホーム。内堀の西側を埋めて線路を通しました。



天守台上部



二ノ丸と鞘橋。左の高層ビルは四国最高シンボルタワー高松サンポート、右はJRホテルクレメント高松。





本丸虎口


地久櫓跡

本丸




二ノ丸

「鯛願城就」

鯛のエサ100円。内堀は海水を引き込んでいるので、鯉ではなく鯛がいます。


逆さ天守台







披雲閣内部


艮(うしとら)櫓。重要文化財です。



埋門



旭門

艮櫓


旭門と旭橋


中堀

艮櫓

東ノ丸

財団法人松平公益会


東ノ丸跡の県立ミュージアム


ミュージアムの東側正面


ミュージアムの前面




外側から見る月見櫓


高松港の報時鐘




左から月見櫓、続櫓、水手御門、渡櫓





水任流泳法を奨励した松平頼明の顕彰碑。「さぬきの国は海辺の国なれば水練は武道の一班たるべし」




高松市の木、黒松