日本の名城・古城 城撮り物語

全国各地の名城・古城の現況を写真でレポートします。

持舟城の巻 武田・徳川の水軍、向井氏の本拠地

2020-01-09 16:46:44 | 静岡
用宗駅の跨線橋から見た富士山用宗駅本日の目的地は持舟城です。古い地名は持舟ですが、駅名は用宗へ変わりました。静岡県に台風が接近するときテレビのレポーターたちはヘルメット・カッパの姿で用宗海岸の現場から中継します。城山烈士供養塔・城山観音持舟城由来記です。最初は今川の城でしたが、今川氏の衰退で武田の城となり、武田水軍の根拠地でした。武田水軍の大将・向井正重が守る持舟城は徳川家康に攻められて落城。その時の戦いで死んだ烈士を供養しています。正重の子・正綱は武田勝頼に仕えましたが、武田は滅亡。強い水軍を欲しがっていた徳川家康の家臣となって向井水軍を再興します。向井正綱の物語は隆慶一郎の未完の遺作「見知らぬ海」に描かれています。古民家カフェ持舟城の城山浅間神社津島神社水神社城山観音富士山の絶景汐見坂富士山駿河湾と伊豆半島持舟城登り口富士山と東名高速、東海道新幹線、在来線城址碑本曲輪新幹線在来線用宗漁港新幹線大雲寺七福神城山観音仁王像そうじ小僧
でむかえ小僧うし地蔵・とら地蔵ねずみ地蔵摩尼車なまけ小僧とり地蔵六地蔵さる地蔵・ひつじ地蔵うま地蔵守り本尊へび地蔵・たつ地蔵瑠璃塔新幹線のトンネル再び用宗駅の跨線橋より富士山を撮影


丹波亀山城の巻 「敵は本能寺にあり」明智光秀が京都へ進撃

2019-10-24 14:27:55 | 近畿
亀岡駅コンコースの展示
石田梅岩像。江戸時代の思想家、儒者、心学者亀岡駅。駅前通り。突き当りが亀山城跡。亀山城があるのになぜ亀岡市なのか? もともと幕末までは亀山という地名でしたが、三重県に亀山城があるので明治初期に亀岡に変更したそうです。かえってややこしや、です。駅名は最初から亀岡駅です。亀山城跡の南郷公園亀山城を築城し亀山の町を整備した明智光秀像。来年の大河ドラマを前にさぞ盛り上がっているかと思いましたが、そうでもなかった。亀山城のシャチホコ「時は今あめが下知る五月哉」。「敵は本能寺」本能寺に向かって明智軍が出撃したのがこの亀山城です。進軍のルートについては3つ説があるようです。雑水川春日小橋亀山城保津門跡亀山城跡の周囲を一周してみます。亀山城の本丸跡は大本教の本部となっています。大本本部の入り口
本部の建物県立亀岡高校作事跡。普請奉行、作事奉行の館があり、現代の役所の建築課、土木課のような部署です。亀岡の名木、エノキ南郷地蔵公園入口に戻りました。高橋和巳の「邪宗門」は大本教事件をモデルにしたと言われていますが、開祖と息子(養子)の親子が登場するというのは大本教に似ていますが、小説の内容は大本教事件とは全く関係のないフィクションです。明智家の家紋

備中高松城の巻 秀吉の「水攻め」、清水宗治が自刃し開城

2019-10-23 14:22:04 | 中国
備中高松駅高松城へと向かう踏切高松城の入り口、舟橋倒れた稲穂高松城址公園水攻めの水位表示板三の丸跡秀吉軍、毛利軍の布陣図「水攻音頭」高松城址公園資料館清水宗治像出土した石仏清水宗治像1985年(昭和60年)の洪水の様子漢詩「高松城懐古」二の丸跡宗治蓮本丸跡功労之碑高田馬治像。県立岡山農業高校の校長で、備中松山城の歴史を調査研究しました。清水宗治辞世の句「浮世をば今こそ渡れ武士(もののふ)の名を高松の苔に残して」日露戦役記念碑水攻め公園前の商店築堤跡宗治自刃の跡地ごうやぶ遺跡。宗治の切腹の前に2人の郎党が刺し違えてお供をしました。顕彰之記自刃の址妙玄寺の本堂秀吉軍の本陣があった石井山最上稲荷の鳥居蛙ケ鼻築堤跡毛利の大軍は足守川の対岸に布陣していました。高松城水攻め史跡公園築堤上の小径水没したエリア秀吉本陣があった石井山備中高松駅

津山城の巻 森忠政が築城、往時の石垣が残る

2019-10-22 13:53:05 | 中国
今津屋橋吉井川津山城今津屋橋通り築城400年京橋門跡
津山城の石段忘れられた石。鑿(のみ)の跡に注目です。復元図津山城に桜を植えた福井純一さくら名所100選津山城を築城した森忠政。美濃金山城主・森可成の息子で、本能寺の変で死んだ森蘭丸の弟です。津山城券売所冠木門尾上紫舟の歌碑四足門2004年に復元された備中櫓表鉄門表玄関本丸跡備中櫓入口五番門跡天守台備中櫓七番門跡長櫓跡森家入封300年記念碑井戸跡鐘楼鉄砲櫓跡常夜灯池田備中守長幸が津山城を訪れた時に完成したので備中櫓と名付けられたそうです。諸説あるようです。

鳥取城の巻 秀吉軍が包囲、天球丸巻石垣と大手登城路

2018-10-09 16:27:20 | 中国
鳥取駅からバスで鳥取城跡の久松公園に来ました。鳥取城の宝珠橋近くの堀「ふるさと」歌碑。鳥取出身の岡野貞一の作曲です。
さくら名所100選
久松公園。鳥取城跡の城山は久松山といいます。宝珠橋北ノ御門跡
久松山(標高260m)仁風閣。1907年(明治40年)建設のフレンチルネッサンス様式西洋館。本日休館です。

県立博物館博物館内部建築業協会賞西坂下御門角櫓下
二ノ丸跡三階櫓跡二ノ丸跡石切場三階櫓石垣天端角石修復工事
三階櫓跡裏御門跡官庁街。裁判所、県庁、県警本部があります。二ノ丸走り櫓県立鳥取西高。私の先輩の出身校です。菱櫓跡表御門稲荷社ここから先の山上ノ丸に本丸、二ノ丸、三ノ丸があり、本丸には天守がありました。本丸の標高は260m、天球丸は51m、比高差は200mほど。日没が近いので諦めました。
天球丸跡大手登城路天球丸の巻石垣表御門跡
天球丸の巻石垣日本唯一、奇っ怪な形の石垣です。崩壊した石垣を球形の石垣を追加して補強しました。大手登城路お左近手水鉢太鼓御門跡。三ノ丸跡に建てられた鳥取西高三ノ丸跡太鼓門仁風閣擬宝珠橋復元工事城代屋敷跡
久松山。中央の石垣は三階櫓跡。山上ノ丸天守が焼失したあとは、三階櫓が鳥取城の事実上の天守としてシンボル的存在でした。
太閤ケ平(たいこうがなる)の説明。山上ノ丸の東約1500mの山の頂上部に羽柴秀吉が築いた鳥取城包囲戦のための陣城で、石垣はありませんが、巨大な土塁の城です。山上ノ丸の説明擬宝珠橋。復元工事は完了し10月8日に完成式を終えていますが、今のところ土曜・日曜限定開放で、12月から毎日開放です。擬宝珠橋の完成によって大手登城路は二ノ丸三階櫓跡まで通行可能となります。鳥取城のメインストリート、大手登城路秀吉軍と籠城戦を戦い最後に降伏、切腹をした吉川経家の銅像今回は山下ノ丸しか見られませんでしたが、それだけでも腹いっぱい、十分に満足です。次回山上ノ丸、太閤ケ平も攻略したいものです。丸一日かかりですね。
鳥取城は吉川経家が降伏後、秀吉の側近宮部氏が治め、関ヶ原ののちは姫路城主池田輝政の弟、池田長吉が入城し、鳥取池田家となります。池田家は鳥取のほか姫路、岡山にもあり、それぞれ中国地方の雄藩として幕末まで存続します。