![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/d6/79723af87ae892c53f2d351923e439ae.jpg)
練馬区平和台駅の東に道路が同心円状に見える場所がいくつかあります。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/3f/08453994c98f4ecc8186a564cc31af00.png)
丸で囲ったところ。全部で4か所。このような区割りがどうして生まれたのか以前から気になっていたので現地に行ってみました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/e3/209eb40fea5f680be9d58e504937a1c7.jpg)
直線の道路から円周の一つに入った所。すぐに120度の角度で斜め左に。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0c/ce/1f1da70b2642f32e1bce2859e37123f7.jpg)
120度の角度で斜め左に。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/ad/8c0bbe8d4e4097cdf2738f2bd54da67e.jpg)
曲がり角でない所も全体的に道が直線ではなく弧を描いているとところが多いです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/74/c370944c83b8721a209a28218ceecbb7.jpg)
半円分回ると中央に走る直線道路が延びています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/75/399605a94fb9b5254a40b46e9263ff6a.png)
それを何度も繰り返して、この日歩いたのはこんなコースでした。ぐるぐる。目が回る。
地形の関係で一番高い所を中心にして同心円の道ができることはありますが、ここは基本的にほぼ平地です。
「平和台 同心円」で検索するとこの不思議な場所に気づいてブログを書いている人が何人かいました。
その中で、みどりのまちづくりセンターという練馬区の団体の所長の方が、この同心円の謎について書かれていました。
大学で建築工学、社会工学の教授をされていた方でなかなか面白い。「昭和の地上絵」というフレーズもそこから拝借しています。
所長はこの同心円が大田区田園調布のように都市計画に基づいて作られたのではと想像します。そしてそのことをこの団体が発行する地域情報誌に書きます。
それを読んだ別の都市計画の専門家が、
「計画に基づいて作った同心円ではなく、方位に対して斜めの幹線道路の周囲に生活道路ができる際に自然発生的に生まれたもの」という謎解きをします。
専門家の説はこんな感じです。(一次資料を見ていないのでまちづくりセンター所長のブログの要約を更に意訳しています)
①方位に対して傾いた幹線道路の周囲で、生活道路も幹線道路と平行にすると土地が斜め向きになり不動産の売却上不利になる。
②生活道路と宅地はなるべく東西南北に沿って区割りしたい。
③そうすると幹線道路と生活道路が斜めに接続されることになり交差部の交通処理上も好ましくない。なので交差部付近だけ45度傾けて幹線道路と垂直にする。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2d/28/940c913026507ddace620dd358ccae95.png)
①~③を図にまとめたのが上図です。赤線の生活道路が幹線道路の周囲にできることで同心円に見える道筋ができます。
同心円に道路を作ったわけではなく、「生活道路や敷地を方位に合わせて計画」した結果として、同心円ができたという説です。
この説明を受けてセンター所長は「同心円と見えるのは錯誤だった。目から鱗が落ちた」と納得されてこのブログを書かれたわけです。
でも、確かに上記のような事情で生まれた同心円の場所もあるかもしれないけど、平和台もそれが理由かと考えると少々疑問です。
同心円ができる前後の航空写真を見てみます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/d0/dd790dec7a6af83b2ca79744c0beedc1.jpg)
戦前1936年~1942年の間の平和台の航空写真です。斜めに走る幹線道路はまだなく、広大な農地と農家が点在しているのみです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/5d/a3826f3cee80592777c8ee542274a305.jpg)
1945年~1950年。上の写真とまったく同じ場所です。不定形だった農地の中に、都市計画に基づいて何本かの斜め方向の幹線道路が建設されました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5d/03/ad67a7f8a23784da9ed88c4913b657b9.jpg)
上の地図の中央部分を少し拡大したところ。右下に一部宅地が始まっているのが見られますが、まだほとんどの土地は農地のままです。
でも、すでにほぼ完全な同心円ができています。この同心円は生活道路というより田んぼの中の畦道です。
さきほどの説では南向き有利で宅地化が進む際に同心円ができるはずですが、この写真の同心円が畦道だとすれば、宅地化と直接の関係があるとは考え難い。
農地が方位に対して真っすぐである必要はないのになぜこのように農地の区割りが変わったのか。その答えは分かりません。
個人的には幹線道路が作られた際に、周辺の農家が(ひょっとしたら行政も絡んで)意識的に農地を同心円に作り直したのではないかと想像しています。
元の農地が幹線道路で分断されることに関係して、農家の間で農地の再分配もあったかも知れません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/b0/f95febf8beed3c38cd80722edfcfe787.jpg)
そして1960年代に入り農地はどんどん宅地に変わって行きますが、区割りに関しては基本的にすでにできている同心円の中で土地の売買が行われています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/00/013867ed6c33e73f289dab6f1a0e333a.jpg)
2019年。農地はほとんど見られなくなりました。
もう少しちゃんと調べるには終戦の前後10年ほどの住宅地図を見たいのですが、残念ながら東京都中央図書館にも1960年代からしかないような感じです。
次に国会図書館に行くことがあれば、もうちょっと細かい時系列で道路ができて行くところを見てみたいです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/e9/af9bd15eed05e4345de3fb88e643cd3e.jpg)
余談です。ぐるぐる散歩の最中に目の前で道を塞いでいるトラックと人だかりが見えました。
近づいて見ると右側の椅子に座っていたのは元K-1チャンピオンの魔裟斗さんと尼神インターの渚さんでした。
劇的ビフォーアフターはここ数年は日曜の夕方の再放送ですが、新作を録っているようです。いつ放送されるのかな。楽しみです。
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