![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/8f/e79caeee1799c42aa27bb0ee386f1feb.jpg)
赤羽駅から線路に沿って北へ歩きはじめると西の高台の上に集合住宅が見えてきます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4f/5f/a5812bb68ee7254c15f0781e99987f9a.jpg)
近づいて見ると崖の上に5階建てのアパート。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2f/ad/9f77ba140bf888c446bcd83dc726190e.jpg)
登り口はこんなところ。赤羽台1丁目。前回登った赤羽台4丁目から谷をひとつ挟んで南の台地です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3d/b3/0625eb84385b1bc6c2ebbac9c25a1b30.jpg)
下から見えていたアパートの前に着きました。2号棟。人の住んでいる気配はありません。
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塞がれた入り口。
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他の残っているアパートも前の道が閉鎖されていて近づくことはできません。
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赤羽台は終戦まで工兵第一大隊や近衛工兵大隊、火薬倉庫など旧日本軍の施設が一帯を占めていた場所です。
何もない田舎町だった赤羽は、明治中期以降、多くの軍人や家族、出入り業者などで大いに賑わい「軍都赤羽」として急激な発展を遂げました。
戦後はアメリカ軍に接収されていましたが徐々に日本に返還され、昭和38年には広大な面積を生かした都内で最初の大規模団地が建設されました。
都心に近い高台に建つ当時では最新式の団地は都民の憧れでありそこに住むことはステータスでもあったそうです。
それから50年が経過し老朽化が進み、2006年から住宅公団の「ヌーヴェル赤羽台」に順次建て替えが行われています。
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この航空写真は昭和38年の物。赤羽台団地が生まれてすぐの脚光を浴びていた時期のもの。南西側から順に建て替えられてかつて50棟ほど並んでいた建物も残っているのは僅かです。
崖の下から見ていたのは一番右の一棟だけ離れて立っている建物。
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GoogleMAPの現在の航空写真だとこんな感じ。敷地を取り囲むような形の建物に変わっています。これが「ヌーヴェル赤羽台」。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/41/be1033c297fadce24894f88e3db7516f.jpg)
残っているアパートすぐ横に学校がありました。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3c/09/c17f03758ccc84976d54dc1fa94a3729.jpg)
門が開いているので侵入。GoogleMAPの航空写真にも校舎とトラックが写っています。昭和38年の航空写真でも校舎の奥の部分が確認できます。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b9/786d12e146e29796d61de7ac43a6aae6.jpg)
東京都北区立赤羽台東小学校。赤羽台団地の人口増加に伴い昭和39年に開校。とありますから、昭和38年の航空写真は開校前年、まだ工事中の写真のようです。
開校から41年を経て、今度は生徒数減少のために2005(平成17)年に閉校。閉校から13年も経っているにしてはきれいで廃墟感がありません。
今でも地域の住民や児童たちに校庭や体育館が利用されているようです。この日も体育館の中から歓声が聞こえていました。
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正門の真正面に団地。通学楽そうです。
wikipediaで赤羽台東小学校のことを見ていたら卒業生の中にエレファントカシマシの宮本浩次さんの名前がありました。
赤羽が出身地であること、JR赤羽駅の発車音に使われていることは知っていましたが、小学校がここだったか!
さらにファンのブログを読むとなんとこの赤羽台団地に長く住んでいたんですね。なんと知らず知らずのうちに「聖地巡り」をしてしまっておりました。
ロッキンオンで本人が語ったところによると、24歳まで17号棟の409号室、25歳で家を出て今度は10号棟3階で一人暮らしをしていたとのこと。
なんで独立して同じ団地内に住むんでしょう。普通その年なら親から離れたところに住みたいよね。
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17号棟と10号棟が残っていた時代の団地案内図を見つけました。2005年頃のです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/39/c0c5aca3ae38119f8741d87e6ee8a003.jpg)
2号棟の裏から赤羽駅方面を見る。今日のブログの一番最初の写真を撮ったのが赤い矢印のあたりです。
そして最後の写真を撮った場所を一番最初の写真に矢印で入れておきました。最後になって明かされる最初の写真の矢印の謎。
しかしこれ書き始めるまでエレカシの話を書くことになるとは思いませんでした。面白い。赤羽台のことさらに続きます。
もうね、あかばね、っていう響きからしてキュンキュン来るんですよ。
困ったことに。
だから行きたいけど行くといろいろさわさわして凄い疲れそうで怖くて行けないんです。
昔は歩いてたんですけどね。
まだ地元の音楽好きな若者にしか「赤羽の星」って呼ばれてなかった頃は。
って何が?(笑)
私も見ての通りここ一週間は赤羽にキュンキュンですけどね。
エミちゃんとは全然意味違うけど(^^)
ってことです(笑)
町としてなんとも言い難い、魅力と言っていいのか味というのか、何かある場所ですね。
そういうところで生まれ育ったってことだよなあ、と思ったりすると、もう、さわさわしていけませんんわ。
でも、そんならなおさら今のうちに赤羽台にもう一度登っておかないと。
たぶん一年後には残っている団地も下手すれば学校も。
全部なくなってるかもよ。
建物はなくなるんですよね。
町もなくなっちゃう。
姿を変え、名前が変わり。
変わってしまうだろうからその前に行きたい所、日本中にありますな。
古いものも新しいものも。
行かねば。