先日、現代美術館の帰りに清澄白河から西へ水道橋まで歩きました。今日は同じ清澄白河から反対の東に向かって小名木川に沿って歩きます。

今回も新小名木水門からスタート。

小名木川を墨田川との分岐点からスタートするために少し戻って芭蕉のいる芭蕉庵史跡展望公園へ。奥には工事中の清澄橋。
今「墨田川との分岐点」って書きましたが本当に「分岐」なのかな。それとも「合流」なのかな。隅田川と荒川の間を掘られた運河に上流・下流の区別はあるんでしょうか。
調べて見たら一応荒川側が上流のようです。ということで今日の散歩は荒川との分岐点までの川登り散歩ということになりました。

今くぐっているのは新高橋。この先で大横川と交差します。交差?

高橋から見る大横川との交差点。玉川上水を歩いている時に、サイホン効果を使って立体的に交差する川をいくつか見ました。ここはそんなものはないガチの川の交差点です。
左から右に流れるのが大横川。現代の地図の上では北から南に掘られた運河ですが、江戸時代はあくまでも江戸城が視点ですので、江戸城から見て横に流れるから横川。
かつては交差点すぐ脇に東西南北2本づつの橋が架かっていましたが、今は150mほど離れた場所まで行かないと人間は川を渡ることができません。

今回歩いた道筋を先に貼ってしまおう。中央のSTARTという所から右のGOLLを目指して5km歩いた話を書いています。

ほぼ同じ場所、嘉永2年(1849) の江戸切絵図です。江戸城の「御城」という文字が右に倒れていますが、絵図としては左右側(西)が上でした。横川が横の意味が分かりましたね。

扇橋閘門。1976年に作られ、2017年より改修工事のため閉鎖されていましたが2019年8月に完成しガラス張りの現代的なコントロールタワーになりました。
手前(墨田川)側の水位が向こう(荒川)側より2m以上低くなっており、その間を船を通行させるために水位を調整するための施設です。
閘門の荒川側で見ていたらちょうど閘門に入って行く船がいました。前に乗っている人がいきなりビニール傘を差したので驚きましたが見ていて納得。
水に浸かっていたゲートの下をくぐる時にゲートから水が降ってくるんでしょうね。この場所からは水滴までは見えませんでしたが。

この後ゲートが閉まるところを見届けてから、閘門の中が見える小松橋までダッシュで戻ってゲートとゲートの間の水位が上がって行くところも眺めていました。
向こうのゲートが開く所まで見たかったのですが満水になるのに20分ほどかかるらしいので諦めました。

江戸時代にこの辺りは蔵屋敷などはありましたがそれほど栄えた場所ではありません。その後工場地帯になって、戦後は工場跡地に大規模なマンションが無数に建ちました。

大横川の東約1kmで横十間側と交差します。川をX型に交差するクローバー橋が架かっています。

クローバー橋の上。右端にスカイツリー。

貨物船の鉄橋。ほとんど地図にも出てこない越中島支線という貨物線。都内で唯一残った非電化線で今でもディーゼル機関車が貨物を引いているそうです。
この辺りから川沿いの遊歩道はよく整備され、道の両脇に石垣を模した護岸が続きます。

今歩いている江東デルタはかつて工場地帯として過剰に地下水をくみ上げたせいでもともと低かった地盤がさらに沈下。そのために水害が発すると甚大な被害をもたらしました。
その対策として小名木川も護岸を年々高くしますが、高くなった護岸に挟まれた川の水位は川底の堆積物のせいで更に上がって行くといういたちごっこ。
東京都は根本的な対策を図り、江東区内の扇橋水門より荒川寄りの河川を周辺河川より締め切り、平常時の水位を周辺地盤より低くなるよう河川整備工事を実施しました。
平成5年に工事は完了し、その後不要となった高い護岸の上部を切り取って、江戸情緒の感じられる歩道の整備を進めています。みたいなことが書かれています。なるほどー。

江戸情緒、感じていただけるでしょうか。

川面のさざ波が収まったタイミングで写り込んだ高層マンション。イラスト風加工処理みたいですが何もしてません。

2時間少々のゆっくり散歩で小名木川の終点から起点まで踏破。周辺の観光スポットや寺社、史跡もいろいろあってなかなか良い散歩道でした。

実際は荒川ではなくてその手前の旧中川が起点になります。奥に見えている川を跨いでいるのが、都営新宿線の東大島駅。そこが本日のゴールです。

今回も新小名木水門からスタート。

小名木川を墨田川との分岐点からスタートするために少し戻って芭蕉のいる芭蕉庵史跡展望公園へ。奥には工事中の清澄橋。
今「墨田川との分岐点」って書きましたが本当に「分岐」なのかな。それとも「合流」なのかな。隅田川と荒川の間を掘られた運河に上流・下流の区別はあるんでしょうか。
調べて見たら一応荒川側が上流のようです。ということで今日の散歩は荒川との分岐点までの川登り散歩ということになりました。

今くぐっているのは新高橋。この先で大横川と交差します。交差?

高橋から見る大横川との交差点。玉川上水を歩いている時に、サイホン効果を使って立体的に交差する川をいくつか見ました。ここはそんなものはないガチの川の交差点です。
左から右に流れるのが大横川。現代の地図の上では北から南に掘られた運河ですが、江戸時代はあくまでも江戸城が視点ですので、江戸城から見て横に流れるから横川。
かつては交差点すぐ脇に東西南北2本づつの橋が架かっていましたが、今は150mほど離れた場所まで行かないと人間は川を渡ることができません。

今回歩いた道筋を先に貼ってしまおう。中央のSTARTという所から右のGOLLを目指して5km歩いた話を書いています。

ほぼ同じ場所、嘉永2年(1849) の江戸切絵図です。江戸城の「御城」という文字が右に倒れていますが、絵図としては左

扇橋閘門。1976年に作られ、2017年より改修工事のため閉鎖されていましたが2019年8月に完成しガラス張りの現代的なコントロールタワーになりました。
手前(墨田川)側の水位が向こう(荒川)側より2m以上低くなっており、その間を船を通行させるために水位を調整するための施設です。
閘門の荒川側で見ていたらちょうど閘門に入って行く船がいました。前に乗っている人がいきなりビニール傘を差したので驚きましたが見ていて納得。
水に浸かっていたゲートの下をくぐる時にゲートから水が降ってくるんでしょうね。この場所からは水滴までは見えませんでしたが。

この後ゲートが閉まるところを見届けてから、閘門の中が見える小松橋までダッシュで戻ってゲートとゲートの間の水位が上がって行くところも眺めていました。
向こうのゲートが開く所まで見たかったのですが満水になるのに20分ほどかかるらしいので諦めました。

江戸時代にこの辺りは蔵屋敷などはありましたがそれほど栄えた場所ではありません。その後工場地帯になって、戦後は工場跡地に大規模なマンションが無数に建ちました。

大横川の東約1kmで横十間側と交差します。川をX型に交差するクローバー橋が架かっています。

クローバー橋の上。右端にスカイツリー。

貨物船の鉄橋。ほとんど地図にも出てこない越中島支線という貨物線。都内で唯一残った非電化線で今でもディーゼル機関車が貨物を引いているそうです。
この辺りから川沿いの遊歩道はよく整備され、道の両脇に石垣を模した護岸が続きます。

今歩いている江東デルタはかつて工場地帯として過剰に地下水をくみ上げたせいでもともと低かった地盤がさらに沈下。そのために水害が発すると甚大な被害をもたらしました。
その対策として小名木川も護岸を年々高くしますが、高くなった護岸に挟まれた川の水位は川底の堆積物のせいで更に上がって行くといういたちごっこ。
東京都は根本的な対策を図り、江東区内の扇橋水門より荒川寄りの河川を周辺河川より締め切り、平常時の水位を周辺地盤より低くなるよう河川整備工事を実施しました。
平成5年に工事は完了し、その後不要となった高い護岸の上部を切り取って、江戸情緒の感じられる歩道の整備を進めています。みたいなことが書かれています。なるほどー。

江戸情緒、感じていただけるでしょうか。

川面のさざ波が収まったタイミングで写り込んだ高層マンション。イラスト風加工処理みたいですが何もしてません。

2時間少々のゆっくり散歩で小名木川の終点から起点まで踏破。周辺の観光スポットや寺社、史跡もいろいろあってなかなか良い散歩道でした。

実際は荒川ではなくてその手前の旧中川が起点になります。奥に見えている川を跨いでいるのが、都営新宿線の東大島駅。そこが本日のゴールです。
たしかに、東西が縦で南北が横というのはあったはずで竪川、横川はそこからの名前だったはずです。
(たぶん、この地図も西が上です)
なので御城という文字が天地さかさまになっているのが元です。
ブログに貼る際に現代の地図対比させるために横に倒しました。
それにしても、地図上のルールとは言え、御城と言う文字や葵紋をひっくりかえって表記することは不敬とか言われなかったんでしょうかね。
ちょっと不思議。
まぁ、上は、読んだ人がきめれば良いとか、(なんてはずがないか)
切り絵図を一杯並べるとわかるように、どっちが上とかは「じぇんじぇん」きまってなかったようですから。
よくあるのは、御城とか、地域の目印の山とかを上にすることが多いみたいですね。
なにはともあれ、面白いのを見つけるのが一番、ね。
方位については
https://kokudochizu.co.jp/columnandother/yomoyama-menu/edokiriezu2.html
ここのまとめが一番分かりやすいです。ほんとほぼ「じぇんじぇん」てきとーですね。
一番下にまとめた地図が面白い。
でもきっと作った人には何かきっとそれぞれ意味があったんでしょう。
当時は鳥観図が書かれることが多くて、その場合は高い山が上部に背景としてかかれるので、
江戸の場合は西が上。京都だと比叡山方向の北東が上に書かれることが多かったので
それが地図の上下になんとなく引き継がれた、とか書かれているのも見ました。
地下鉄の改札の外あたりに掲示されている周辺地図が
けっこう方位がバラバラで北が上でないのが多いんですが
個人的にはすごく苦手です。アタマ切り替えられなくて。