
旧道は藤下の先で国道21号線を渡ると、江戸時代には立場(休憩所)がおかれていた中山という集落へと入ります(上段写真)。
江戸時代以前には宿駅がおかれていたと云うこの集落は、現在は東海道本線と東海道新幹線、そして旧中山道と、新旧三種の交通が交差している地点となっています。
山中集落の外れで「“伝”常盤御前の墓」を右に見て過ぎると、道はやがて東海道本線に沿って上り坂となり、今須峠へと入ります。

山中踏切を渡り線路の反対側に出てさらに進むうち、道はやがて頂上に至り、下りに差し掛かったところで国道21号線に合流します。
そのすぐ左手には、今須一里塚が片側のみ遺されています。

坂をさらに下って今須橋を渡ると、今須宿に到着です。

“美濃十六宿”の最後となる「今須(います)宿」は、道中記には『宿あしし』と書かれた宿場で、現在も静かな佇まいを残しています。
この宿場の京寄りの外れにあるのが、「車返しの坂」。

今は昔、荒れ果てた不破の関屋の破れ板から漏れる月光が素晴らしいと聞いた京の貴人は、さっそく実見しようと牛車に乗って出掛けましたが、それを事前に知った地元の人々は、あばら家をお見せするは憚りありと、屋根をなおしてしまいました。
坂をのぼる途中でそれを聞いた貴人は急に興醒めして、乗っている車をそのまま返して京へ戻ってしまったことから、その坂を“車返しの坂”と呼ぶようになったとか。
この京の貴人、ご当地今須宿では二条良基としていますが、実は資料によって名前がまちまちのようです。
車返しの坂を過ぎて国道と東海道本線の踏切を渡ると、すぐに左へカーブして緩やかな上り坂となり(ここを“車返しの坂”とする資料もあります)、まもなく美濃と近江の国境に。

現在も岐阜県と滋賀県との県境であるここは、義経を追って近江側の宿に泊まった静御前と、美濃側の宿に泊まった義経の家来とが、壁をはさんで朝まで語り合った「寝物語の里」と云う場所でもあります。

さて、ここから中山道は“近江路”へと入って行きますが、その探訪はまたいづれ、ということにします。
江戸時代以前には宿駅がおかれていたと云うこの集落は、現在は東海道本線と東海道新幹線、そして旧中山道と、新旧三種の交通が交差している地点となっています。
山中集落の外れで「“伝”常盤御前の墓」を右に見て過ぎると、道はやがて東海道本線に沿って上り坂となり、今須峠へと入ります。

山中踏切を渡り線路の反対側に出てさらに進むうち、道はやがて頂上に至り、下りに差し掛かったところで国道21号線に合流します。
そのすぐ左手には、今須一里塚が片側のみ遺されています。

坂をさらに下って今須橋を渡ると、今須宿に到着です。

“美濃十六宿”の最後となる「今須(います)宿」は、道中記には『宿あしし』と書かれた宿場で、現在も静かな佇まいを残しています。
この宿場の京寄りの外れにあるのが、「車返しの坂」。

今は昔、荒れ果てた不破の関屋の破れ板から漏れる月光が素晴らしいと聞いた京の貴人は、さっそく実見しようと牛車に乗って出掛けましたが、それを事前に知った地元の人々は、あばら家をお見せするは憚りありと、屋根をなおしてしまいました。
坂をのぼる途中でそれを聞いた貴人は急に興醒めして、乗っている車をそのまま返して京へ戻ってしまったことから、その坂を“車返しの坂”と呼ぶようになったとか。
この京の貴人、ご当地今須宿では二条良基としていますが、実は資料によって名前がまちまちのようです。
車返しの坂を過ぎて国道と東海道本線の踏切を渡ると、すぐに左へカーブして緩やかな上り坂となり(ここを“車返しの坂”とする資料もあります)、まもなく美濃と近江の国境に。

現在も岐阜県と滋賀県との県境であるここは、義経を追って近江側の宿に泊まった静御前と、美濃側の宿に泊まった義経の家来とが、壁をはさんで朝まで語り合った「寝物語の里」と云う場所でもあります。

さて、ここから中山道は“近江路”へと入って行きますが、その探訪はまたいづれ、ということにします。