野州那須野の「殺生石」を見物す。

二年前(令和四年)の三月、ひび割れにしみ込んだ露の膨張などが原因で二つに割れ、私のやうな故事来歴謂れ因縁好きどもを「妖異……!」と騒がせた件の靈石なるが、

古冩真をよく見ると、すでに裂け目が入ってゐるやうであり、あのやうになるのは、どっちみち時間の問題であったやうにも覺ゆ。

あれから二年、至る所でろくでもないことばかりが續く有様を眺めるにつけ、やはりあの時に金毛九尾の妖狐は浮世に解き放たれたのだと、

(※國立劇場公演で使用された妖狐の小道具)
私は強く信じてゐる。
通り道の温泉神社へもちろん挨拶し、硫黃の臭ひが立ちこめるなか粉雪が舞ふ、まだまだ冬枯れの那須野を下り、

東北本線を乗り繼ぎ乗り繼ぎ、

奥州安達原の「黒塚」を訪ねる。

大昔に武州大宮郊外の同跡と“本家本元”を争ひ、こちらに軍配があがった經緯のあるこの古塚の謂れ因縁故事来歴については、謠曲「黒塚」がそっくり語ってゐるのでここでは省略、先日に銀座の能樂堂で觀た觀世流のそれは「安達原」と云ふ曲名を用ゐてゐることだけ、趣味柄云はせてくだされい。

しかし私は、傳統藝能で「黒塚」と聞くと、能樂よりも二代目市川猿之助が戰前、四世杵屋佐吉の名作曲で初演した同名曲のはうをまず思ひ浮かべる。

(※二代目市川猿之助の「黒塚」老女岩手 昭和三十二年十一月 歌舞伎座)
その孫の三代目猿之助による舞薹を學生時分に觀られたことは、私の一生の記憶遺産である。
東北本線の二本松驛からも、安達驛からも、徒歩で五十分近くはかかるこの阿武隈川ほとりに傳はる古跡のあたりは、古くより安達原となむ云ひける。

いまでも古への風情が殘るこのあたりで日が暮れたら、たしかに旅人はさぞ心細いであらうし、そんな時に向かふに人家の灯りが見えたら、それは心からホッとするだらう。
……が、旅先で氣の緩みは厳禁じゃて。