迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

夢幻有現事業。

2024-02-20 18:51:00 | 浮世見聞記


長らく氣になってゐた、長野縣小縣郡青木村の「五島慶太未来創造館」を訪ねる。



上田驛からほぼ一本道を路線バスで約四十分、終點からさらに十分ほど奥へ入った長閑な場所に、五島慶太の生家を参考にした外觀のそれはある。



相手の會社の株を大量購入して次々と自分の傘下に収めていくその豪腕ぶりから、“強盗慶太”と揶揄を込めた異名をとるほどの強烈な個性を發揮しながら、現在につながる東急グループの礎を一代で築いた五島慶太は、私がもっとも尊敬する日本の事業家であり、


(※一部を除き展示室内撮影可)

私はむしろ敬慕をこめて、“ごうとうけいた”と呼ばせてもらってゐるくらゐだ。


明治十五年(1882年)に小林慶太として信州青木村に生まれ、生来の勉強好きに磨きをかけて東京帝大を卒業後すると官僚になり、結婚を機に妻の遠戚にあたる五島家を繼いで五島慶太となった翌年の大正二年(1913年)には鐵道院に転属、官僚の立場から鐵道事業に関はるやうになってから、彼の人生は次第にひとつの方向に定まっていく──



鐵道を中心とした公共利益と福利厚生を一貫して追求する事業家としての信念は生涯ブレることなく、それゆゑに手荒と映る手段を取ることもあったわけだが、ではクチばかりで何もしないウソつきと、どちらが惡人だらうか。


私が少年期に慣れ親しんだ澁谷の街は、五島慶太が西武の堤康次郎との“激闘”の果てに創り上げたものだが、令和現在、發展と云ふより行き先不明な再開發が續き、



またさういふ雰囲氣にすっかり踊らされ(騙され)てゐるヒトたちもゐて、その有様ゆゑに私が日本で二番目に嫌ひな場所になってしまったことは、かつて心躍る魅力に溢れてゐた時代を記憶してゐるだけに、殘念には思ふ。





その“心躍る魅力に溢れてゐた”頃の澁谷と東急線を想はせる模型が、展示室の真ん中で私を招いてゐる。

鐵道模型──子どもが憧れ、大人になっても魅了される夢の道具。



思び出のなかの五島慶太の遺産(しごと)に、しばしの時間旅行を樂しむ。



そして戻り道には途中より、かつて五島慶太が開業に力を貸した上田電鐵の“別所線”を利用して、



東急線から転属して久しい1000系の、往年より變はらぬ乗り心地も樂しむ。








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