
細道となった旧道は「遠妙寺」付近で国道411号線と県道302号線に合流して一本道となり、石和宿へと入って行きます。
ここは、古代にはいくつもの川が流れ込む荒れ地で、藺草が生い茂っていたことから、かつては「藺沢」と呼ばれていたところでした。
天慶8年(884年)に諏訪神社の神主がこの年に穫れた見事な粟を陽成天皇へ献上したところ、帝はその美味を喜んで「石禾」の地名を与えたのが、現在の表記の始まり。
ちなみに、石の訓読み“イシ”は“美味(オイシイ)”を、禾は“稲”や“粟”を意味しているそうです。
芸妓の置家があるあたりにかつての大繁盛ぶりを窺わせ、明治になってからは旅籠として使用されていた旧本陣はそのすぐ先にありましたが、明治13年6月6日の火事で、土蔵一棟を残して焼失。
跡地は現在、駐車場に。

ここもかつての宿場が姿を消す典型的パターンに見舞われたわけですが、そのその一週間後の6月13日には巡幸の明治天皇を迎える手筈になっていたそうで、何とまァ絶妙な(?)タイミングで、という気がします。
さて石和と云えば、言わずと知れた温泉観光地。
もともとここは少量の温泉が湧いていましたが、昭和36年1月に大量に吹き出る高温の温泉を掘り当てて以来、一大温泉地に。
旧本陣跡の近くには無料の足湯コーナーがあり、

私もここで足を浸して、旅の疲れをしばし癒すことに。
ここは、古代にはいくつもの川が流れ込む荒れ地で、藺草が生い茂っていたことから、かつては「藺沢」と呼ばれていたところでした。
天慶8年(884年)に諏訪神社の神主がこの年に穫れた見事な粟を陽成天皇へ献上したところ、帝はその美味を喜んで「石禾」の地名を与えたのが、現在の表記の始まり。
ちなみに、石の訓読み“イシ”は“美味(オイシイ)”を、禾は“稲”や“粟”を意味しているそうです。
芸妓の置家があるあたりにかつての大繁盛ぶりを窺わせ、明治になってからは旅籠として使用されていた旧本陣はそのすぐ先にありましたが、明治13年6月6日の火事で、土蔵一棟を残して焼失。
跡地は現在、駐車場に。

ここもかつての宿場が姿を消す典型的パターンに見舞われたわけですが、そのその一週間後の6月13日には巡幸の明治天皇を迎える手筈になっていたそうで、何とまァ絶妙な(?)タイミングで、という気がします。
さて石和と云えば、言わずと知れた温泉観光地。
もともとここは少量の温泉が湧いていましたが、昭和36年1月に大量に吹き出る高温の温泉を掘り当てて以来、一大温泉地に。
旧本陣跡の近くには無料の足湯コーナーがあり、

私もここで足を浸して、旅の疲れをしばし癒すことに。